癌
―令和3年春―
別居して9年。結婚と同時に始まった陽一の母 芳恵との同居生活は、震災を経て14年で破綻していた。
このところ、陽一と由希は母 芳恵が穏やかな性格になってきているのを感じていた。花を育て、蕾が開くと大変喜び、メダカを飼い、餌をやり育て可愛がる、以前にはない慈しみの心である。
(今の義母となら、やっていける)
由希は密かにそう感じていた。
そんな精神的安定とは裏腹に、芳恵は「体調が何かおかしい」と訴えるようになった。
「胃がモヤモヤする」
「疲れが取れない」
「ダルい」
芳恵は2か所の病院に通院をしている。1つは高血圧治療のための内科、もう1つはストレス治療のための精神科である。陽一はかかりつけ医に相談するように言っていた。
夏になっても芳恵の体調はすぐれなかった。かかりつけ医に胃薬を処方してもらっても効き目がない。陽一は夏バテなのでは?と考え、芳恵の体調回復のために好物のトマトを一箱買って届けた。芳恵は
「あらまぁ、お母さんの大好きなトマト!ありがとう」
と言って喜んだ。そして今度は母の好物のミョウガとシソをたっぷり刻んで入れたキュウリの漬物を由希に作ってもらい、それに自分でにんにくを加えて
「スタミナがつくぞ」
と言って届けた。それもまた
「あらぁ、美味しそう」
と言って喜んで受け取った。
ところが数日後、陽一が実家を訪ねると、
「トマト食べてたら吐いてしまって…勿体ないから持って帰って…」
と悲しそうな顔で言った。陽一は病院で受診するよう強く言い付けてトマトの箱を受け取った。トマトは殆ど手を付けられていなかった。この頃になると、陽一はほぼ毎日のように芳恵が暮らす実家に通った。由希からは時々小言を言われた。
しかし、芳恵のショックは続いていた。体調は一向に回復する兆しが見えない。それどころか悪化している気さえする。バナナを食べても嘔吐し、営業先で出された茄子漬を食べても吐き気が込み上げる。何故かどれも好物を食べた時にその症状は起きた。芳恵の不安は募っていった。
(この先、自分は何も食べられなくなるのだろうか…)
芳恵は意を決して、地元の中堅クラスの総合病院を訪れた。そこは胃カメラをする際、麻酔を使用し患者の負担を軽くしてくれることで知られていた。そこで芳恵は独りで胃カメラ検査を受けたのだった。およそ1週間後、検査結果が出る。
世間ではお盆が過ぎ、連休が明け、日常が戻ってきていた。丁度その頃、恵は家族をZ県に置いて、独りで帰省していた。陽一は、自分は仕事を抜けられないから恵に付き添ってもらい、一緒に結果を聞いてもらうよう母に言い付けた。芳恵は陽一の言う通りに、恵と共に検査結果を聞くために病院へ向かった。
陽一は由希とふたりで洋食屋を営んでいる。従業員を雇っていない小さな店である。陽一は、日中店を空ける訳にはいかない。それは休業に直結するからだ。日銭商売である為、店を閉める = 収入が無い、のである。世はコロナ禍。ただでさえ密を避けるために客席を減らし、政府が無駄な外出を避けるよう呼びかけをすれば客が減る。子供2人は大学生。まだまだお金がかかる。陽一と由希は店に "休日" を設けず毎日働いていた。
昼営業の混雑が落ち着いた頃、店の裏口をノックする音が聞こえた。陽一がドアを開けると、そこに恵が立っていた。由希は陽一の背後から顔を出した。
恵は陽一を見つめて
「癌だって」
と芳恵の検査結果を伝えた。
癌…!
恵も陽一もちゃんと落ち着いていた。
「金曜、詳しく説明あるっていうんだけど、私、もうZ県に帰らなきゃないから…」
「いいよ、俺が行くから」
金曜日、総合病院内科診察室に、陽一は芳恵と共にいた。芳恵は不安なのだろう。表情が暗く、うつむきがちだ。息子の陽一にすっかり頼りきって、自分からは何も発言しない。
以前、市立病院の外科医だったという医師は、芳恵の胃の上部に癌の病巣があることを説明した。そして、胃の全摘手術の必要性を芳恵と陽一に説明した。
「上の方だけ切除では駄目なんですか?」
少しでも胃を残してやりたい思いで聞いたこの陽一の問いに、医師は
「腫瘍が下の方なら一部残すことも可能だが、上部では全摘しなければならない」
と答えた。陽一は
(医師がそう言うなら従うしかないよな…)
と思いヒサエを見ると、顔が青白くなってショックを受けているようだった。
「手術出来る病院に紹介状出しますが、今受け入れてくれるとこっていうと…A市になりますよ?」
この時期、コロナウィルスの世界的なパンデミックは、日本国内でも猛威を振るっていた。この地域で高度な手術が出来る病院は、県立高度医療センターと市立病院の2か所。しかし、県立高度医療センターはコロナウィルスの院内感染が起こり、新規患者の受け入れ停止。市立病院もまた、高度医療センターのしわ寄せと共に院内感染を防ぐ対策として患者の受け入れを制限していた。そう、このパンデミックは、コロナウィルス以外の病気の治療にかなり影響を及ぼしていたのだった。しかし、家族としては何としても一刻も早く手術してもらわなくては困る。癌が広がる前に!
医師は
「今日は金曜だから月曜に受入病院を探して紹介状を書くから」
と言う。
ここから陽一の交渉が始まった。
「今電話して聞いてみること出来ないですか?」
医師は眉間にシワを寄せる。
「金曜の午後って皆忙しいから出るかなぁ…。紹介先はA市立病院か国立病院になると思うんだけど、国立病院の方には外科に後輩がいるので聞いてみようはと思ってるけど、忙しいからなぁ…」
医師はそうブツブツ言いながら、陽一の前で携帯を取り出し、電話帳を開いた。すると、医師の携帯を覗き込む陽一の目に飛び込んできたのは、ページのトップにある "国立病院" の文字。
「先生!あるじゃないですか!今電話してみて下さいよ!さあ!」
医師は陽一のゴリ押しに、渋々 "国立病院" の文字をタップした。
目の前で陽一に見つめられた状態で、医師は国立病院の外科医と話した。そして芳恵の受け入れの承諾を得たのだった。
「いつもは電話に出ないのになぁ。良かったですね」
医師は紹介状を用意した。新患外来の予約は翌週の火曜日。信じられない程早く予約を入れてもらえた。陽一は心からこの医師に感謝した。受け取った紹介状の宛名には "外科部長殿"
と書かれている。
(後輩って外科部長かよ!これはお袋に運がまわってきてる!きっとお袋の手術は上手くいく!)
陽一は、そう信じた。




