第9話 黒鉄炉の朝
ガルバ坑道街の朝は、空ではなく炉の火で始まる。
地上の朝のように、雲の隙間から光が差すわけではない。鳥の声もない。窓を開ければ風が入ってくるわけでもない。
代わりに、地底の岩窟全体を揺らすような槌音が響く。
かん。
かん。
かん。
まだ眠っている者の胸まで叩き起こすような、重く乾いた音だった。
ナノは石の寝台の上で目を覚ました。
薄く開けた目に最初に映ったのは、天井を走る金色の鉱脈だった。淡い光が岩の内側から滲み、黒い天井に細い川のような模様を作っている。光は美しいが、王都の神託塔の水晶とは違う。ここにある光は冷たく人を裁くものではなく、長い時間をかけて地中に眠り続けた石が、静かに息をしているような光だった。
左足はまだ痛い。
包帯の下で噛み傷が熱を持ち、動かすたびに鈍い痛みが骨の近くまで響いた。右拳も腫れている。黒錬板を叩き割った時の裂傷はミラが薬草で処置してくれたが、握ると皮膚の内側がぴりりと痛んだ。
それでも、昨日よりは動ける。
ナノはゆっくり体を起こした。
「……っ」
胸の奥が重かった。
第1章が終わったからといって、何かが綺麗に区切られたわけではない。
父と母の声は、まだ耳の奥に残っている。
生きろ。
生きて。
夢の中で何度も聞いた。手を伸ばしても届かない。霧の向こうへ消えていく2人の背中だけが、何度も何度も浮かんでは消える。
ナノは掌を見た。
白い菱形の紋様。
その中に、黒錬板を割った時に刻まれた黒い細線と、水鋼ゴブリンから吸収した青黒い点がある。昨日よりも少しだけ輪郭が濃くなっていた。
「俺は……」
声に出すと、喉が掠れた。
「まだ、何もできてない」
無能ではない証明。
頭の奥に浮かんだ称号は、確かにナノを救った。
でも、それは父と母を助けた証明ではない。王都を見返した証明でもない。神託制度を壊したわけでもない。
ただ、地底のドワーフたちの前で、黒錬板を割っただけだ。
まだ弱い。
グレンの言葉が、そのまま胸に残っている。
だが、不思議とそれは嫌な言葉ではなかった。
王都で言われた「無能」とは違う。
あれは切り捨てる言葉だった。
グレンの「弱い」は、これから鍛えるための言葉だった。
扉の外から足音が近づいてきた。
重く、短く、迷いのない足音。
ナノは慌てて姿勢を正した。
扉が開く。
グレンが立っていた。
煤で黒ずんだ作業着に、分厚い革手袋。胸元の白剛石が炉の赤い光を受け、深い奥行きのある光を放っている。今日のグレンは、昨日よりさらに鍛冶師の顔をしていた。
「起きていたか」
「はっ、はい。起きてます」
「声が硬い」
「す、すみま……」
言いかけて、ナノは口を閉じた。
グレンの眉がわずかに動く。
「謝るのを飲み込んだな」
「……はい。昨日から、謝りすぎるなと言われていたので」
「少しは覚えたか」
グレンは部屋へ入り、ナノの前に黒い布包みを置いた。
中から出てきたのは、灰色の作業服だった。
厚手で、肩や肘の部分に革が縫い込まれている。王都の服のような飾りはない。だが、動きやすく、丈夫そうだった。
「今日から、それを着ろ」
「これ……俺が使っていいんですか」
「坑道街の預かりになった者に、破れた服で歩かれるとこちらが困る」
ナノは服に手を伸ばした。
布は少し硬く、火と鉄の匂いがした。
誰かが使っていた古着かもしれない。ところどころに修繕跡がある。だが、それは捨てられたものではなく、長く使われてきた道具のような温かさがあった。
「あ、ありがとう……ございます」
ナノの声は少し詰まった。
グレンはそれを見ないふりをするように、部屋の外へ顎をしゃくった。
「着替えたら黒鉄炉に来い」
「黒鉄炉?」
「この街で一番大きな鍛冶場だ。今日からお前の訓練場になる」
ナノの胸が小さく跳ねた。
「今日から……もう訓練するんですか」
「不満か」
「い、いえ。ただ、ミラさんがまだ安静にって」
「だから戦わせはしない」
グレンは少しだけ口元を歪めた。
「まずは、自分がどれだけ弱いかを知る訓練だ」
それは訓練というより、宣告のように聞こえた。
*
黒鉄炉は、ガルバ坑道街の中心にあった。
岩窟の最下層に作られた巨大な鍛冶場で、周囲の岩壁は熱で黒く焼けていた。天井からは太い鎖が何本も吊るされ、炉の上には巨大な換気孔が開いている。赤ではなく、白に近い炎が奥で揺れていた。
熱気が肌を刺す。
汗が一瞬で背中に滲む。
石床の隙間には細かな鉄粉が積もり、歩くたびに靴底でざらりと鳴った。
ナノはグレンの後ろについて歩きながら、思わず息を呑んだ。
鍛冶場には何十人ものドワーフがいた。
鉄を叩く者。
鉱石を選別する者。
炉の火を見つめている者。
砕いた魔石を小瓶に詰めている者。
誰も無駄に喋らない。
だが沈黙しているわけではない。
槌音、息遣い、炉の唸り、火の粉が弾ける音。すべてがひとつの大きな生き物のように動いていた。
「ナノ」
グレンが呼んだ。
「はっ、はい」
「今日やることは3つだ」
グレンは黒い石台の上に、小さな鉱石を3つ並べた。
ひとつは黒く鈍い金属光沢を持つ石。
ひとつは白く濁った硬そうな石。
ひとつは赤茶色に錆びたような石。
「見分けろ」
「見分ける……?」
「黒錬鉱、白鈍石、赤錆鉱。どれも低級鉱石だ。だが、用途も性質も違う」
ナノは鉱石を見つめた。
正直、全部ただの石に見えた。
いや、昨日までなら完全にそう思っていたはずだ。
だが今は違う。
掌の紋様がわずかに熱を持つ。
石眼。
まだ未完成の力。
ナノは恐る恐る黒い鉱石に触れた。
頭の奥に、ぼんやりとした文字が浮かぶ。
――黒錬鉱。
――鍛錬適性、低。
――圧力耐性、やや高。
ナノは息を呑んだ。
「黒錬鉱……これは、圧に強いんですか」
グレンの目がわずかに細くなる。
「続けろ」
次に白く濁った石へ触れる。
――白鈍石。
――白剛石系統の不純物混合石。
――吸収不可。
――骨格補助素材として低適性。
「これは……白剛石に似てるけど、濁ってる。俺には吸収できない。でも、骨とか体を支える素材に少し向いてる……みたいです」
周囲で作業していたドワーフの1人が手を止めた。
ナノは赤茶色の石へ触れる。
――赤錆鉱。
――火床反応、低。
――血液凝固補助、微弱。
「赤錆鉱。火とはあまり相性がよくなくて……血を止める薬か何かに、少し使える?」
グレンはしばらく何も言わなかった。
沈黙が怖い。
ナノは慌てて顔を上げた。
「あ、あの……間違ってますか」
「間違っていない」
グレンは短く言った。
その声に、鍛冶場の空気が少し揺れた。
「普通なら、見習いが半年かけて覚える基礎だ」
ナノは言葉を失った。
「半年……?」
「もちろん、名前を覚えるだけならもっと早い。だが、石の用途と癖まで読むには時間がかかる」
グレンは黒錬鉱を指で叩いた。
「お前の石眼は、未完成だが厄介だな」
「厄介……」
「便利という意味でもある」
そう言われても、ナノは素直に喜べなかった。
自分の中にある力が、どこまで自分のものなのか分からない。
石に触れるだけで情報が浮かぶ。
それは便利だ。
だが同時に、底の見えない穴を覗いているような怖さもあった。
「次だ」
グレンはそう言って、鍛冶場の奥を指した。
そこには、昨日ナノが動かせなかった黒い石板よりも小さな板が置かれていた。
「持て」
「……はい」
ナノは石板の前へ立った。
重そうだ。
だが、昨日よりは少し小さい。
両手をかける。
息を吸う。
足に力を入れる。
「ぐっ……」
痛みが走る。
左足の傷が熱を持つ。
腕が震える。
だが、石板はほんの少しだけ浮いた。
ナノの目が見開かれる。
「う、浮いた……」
直後、石板はどすんと床へ落ちた。
足元に響く重い音。
ナノはその場に膝をつきそうになった。
グレンが言う。
「今ので十分だ」
「え……でも、全然持ててないです」
「昨日なら浮きもしなかった」
ナノは石板を見る。
たしかに、ほんの少しだけ浮いた。
たった数センチ。
普通の人間なら笑うかもしれない。
でも、昨日のナノにはできなかったことだった。
胸の奥に、小さな火が灯る。
「最後だ」
グレンは黒鉄炉の横に置かれた、小さな槌を手に取った。
ドワーフ用としては小さい。
だが、ナノにとっては十分重い。
「これで黒錬鉱を10回叩け」
「10回……」
「ただし、力任せに叩くな。石の中にある筋を見ろ。どこを叩けば響くか探れ」
ナノは槌を受け取った。
重い。
手首が持っていかれそうになる。
黒錬鉱を前に置く。
息を整える。
掌の紋様が熱くなる。
石眼で黒錬鉱の内部を探る。
昨日より、少しだけ見える。
黒い塊の中に、細いひびのような筋がある。
そこを叩く。
かん。
音が鳴った。
弱い。
腕が痺れる。
2回目。
かん。
3回目。
かん。
4回目で、手の皮が少し裂けた。
「っ……」
「止まるな」
グレンの声。
「痛みを無視するな。だが、痛みに支配されるな」
「はっ、はい……!」
5回目。
6回目。
7回目。
ナノの息が乱れる。
汗が目に入る。
炉の熱で喉が焼ける。
8回目。
9回目。
最後。
ナノは歯を食いしばった。
「……百錬成鋼」
小さく呟いて、槌を振り下ろす。
10回目。
黒錬鉱に、細いひびが入った。
割れたわけではない。
ただ、表面に小さな線が走っただけ。
それでもグレンは頷いた。
「今日の訓練は終わりだ」
「え……もう、ですか」
「これ以上やれば、鍛錬ではなく破壊になる。お前の体がな」
ナノは槌を置いた。
腕が震えている。
足も痛い。
全身が熱い。
だが、不思議と嫌ではなかった。
自分が少しずつ叩かれて、形を変えていく。
そんな感覚があった。
その時、鍛冶場の入口で誰かが叫んだ。
「グレン!」
若いドワーフが走ってくる。
顔には煤と焦りが浮かんでいた。
「旧採掘路の奥で、黒錆ゴブリンが出た! 普通の鉄鋼ゴブリンじゃねぇ、背に赤錆鉱を食った瘤がある!」
鍛冶場の空気が変わった。
グレンの顔が険しくなる。
「黒錆ゴブリンだと?」
ナノはその名を聞いたことがなかった。
だが、掌の紋様がかすかに熱を持った。
石が呼んでいる。
そんな嫌な感覚がした。
グレンはナノを見た。
「明日の魔石採取は中止だ」
「え……?」
「前倒しする。今から行く」
ナノの喉が鳴った。
訓練で体は限界に近い。
だが、グレンの目はもう戦場を見ていた。
「ナノ」
「は、はい」
「第2章最初の試練だ」
グレンは戦槌を手に取った。
「黒鉄炉で学んだことを、旧採掘路で使え。見て、読んで、生き残れ」
ナノは震える拳を握った。
怖い。
でも、逃げるつもりはなかった。
「……はい。行きます」
その返事は、まだ完全に強くはない。
だが、昨日よりは確かに前を向いていた。
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