第8話 無能ではない証明
旧水路の戦いから戻った時、ガルバ坑道街はいつもより騒がしかった。
鍛冶炉の火は変わらず燃えている。槌音も途切れていない。だが、街の空気が少し違っていた。
視線を感じる。
ナノはグレンの後ろを歩きながら、それに気づいた。
鍛冶場の職人たち。
鉱石を運ぶ若者。
岩壁の住居から顔を出す子ども。
橋の上で酒瓶を持ったまま立ち止まる戦士。
誰もはっきりとは声をかけてこない。
だが、皆が見ている。
人族の少年。
谷底から現れた、傷だらけの少年。
白剛石を吸ったかもしれない少年。
鉱石ガキの魔石位置を見抜いた少年。
その視線には、神託塔で浴びた嘲笑とは違うものがあった。
好奇心。
警戒。
疑い。
少しの驚き。
それでも、ナノの胸は自然と縮こまった。
見られることに慣れていない。
いや、正確には、見下される視線には慣れていた。
だが、何かを見極めようとする視線には慣れていなかった。
「顔を下げるな」
前を歩くグレンが言った。
振り返っていないのに、見えているようだった。
「す、すみません」
「謝るな」
「あっ……はい」
「今の『はい』は、少し逃げたな」
「えっ」
「とりあえず返事をしておけばいいと思った時の声だ」
ナノは言葉に詰まった。
なぜ分かるのか。
グレンは鼻を鳴らした。
「鍛冶師は音を聞く。石を叩く音、鉄が歪む音、人が嘘を飲み込む音もな」
「人が嘘を……」
「お前は今、自分を小さく見せようとしている。見られたくないからだ」
ナノは俯きかけた。
だが、すぐに顔を上げ直した。
グレンが言ったからではない。
自分でそうしたかった。
「……怖いです」
ナノは小さく言った。
「見られるのが、怖いです。神託塔でも、みんなに見られて笑われて……だから、こうやって見られると、また笑われるんじゃないかって」
グレンは足を止めた。
振り返る。
鍛冶炉の赤い光が、彼の顔の皺を深く照らしていた。
「なら、笑われても立っていろ」
「……簡単に言いますね」
「簡単ではない。だが、必要だ」
グレンの声は硬かった。
「お前が無能ではないと証明したいなら、まず他人の目の前に立て。隠れたままでは、誰にも見えん」
その言葉は、ナノの胸に重く落ちた。
無能ではない証明。
自分が欲しかったもの。
でも、本当にそれを得るには、人前に立たなければならない。
笑われるかもしれない。
疑われるかもしれない。
失敗すれば、やはり無能だと言われるかもしれない。
ナノの掌に汗が滲んだ。
その時、広場の中央から低い声が響いた。
「そいつが例の人族か」
ナノは顔を上げた。
広場の中央に、年老いたドワーフが立っていた。
白い髭を胸元まで伸ばし、片目には黒い革の眼帯。背は低いが、周囲のドワーフたちよりさらに重い存在感があった。右腕には太い金属の腕輪がいくつも巻かれ、その隙間から黒曜石のような石が皮膚に埋まっているのが見える。
周囲のドワーフたちが自然と道を開ける。
グレンが少しだけ顎を引いた。
「長老」
長老。
ナノの喉が鳴った。
老人の目がナノを捉える。
片目だけなのに、両目で見られるより重い。
「名前は」
声は岩を削ったように低かった。
ナノは慌てて姿勢を正した。
「ナ、ナノです」
「聞こえん」
「ナノ、です」
「まだ腹に入っておらんな」
長老は近づいてきた。
歩くたびに、腕輪がかすかに鳴る。
「人族のナノ。お前は白剛石を吸ったと聞いた」
「は、はい……でも、俺にもよく分からなくて」
「分からない力を持つ者を、我らは簡単には信じん」
周囲の空気が重くなる。
ナノの背中に汗が流れた。
グレンが口を開く。
「長老、こいつは旧水路で役に立った。魔石の位置を見抜いた」
「聞いている」
長老はグレンを見ずに言った。
「だからこそ確かめる」
ナノの胸が跳ねる。
「確かめる……?」
「無能ではないかどうかを」
その言葉が広場に落ちた。
神託塔で聞いた言葉が蘇る。
無能。
石。
レベル1。
階層不適合。
ナノの呼吸が浅くなる。
グレンが低く言った。
「長老」
「止めるな、グレン」
「怪我人だ」
「ならば、死なない程度にする」
長老は周囲へ目を向けた。
「黒錬板を持ってこい」
若いドワーフたちがざわめいた。
「黒錬板?」
「あれを人族に?」
「無理だろ」
ナノはそのざわめきに体を強張らせた。
すぐに、厚い黒い石板が運ばれてきた。
昨日グレンに持ち上げろと言われた石板よりは小さい。だが、表面には黒い金属光沢があり、見るからに硬そうだった。
長老はそれを広場の中央に置かせた。
「割れ」
短い命令だった。
ナノは石板を見た。
「こ、これを……ですか」
「そうだ」
「でも、俺……昨日、黒錬鉱を割った時、立っているのもやっとで……今も怪我が」
「できないなら、できないと言え」
長老の声は冷たくなかった。
ただ、逃げ道を塞ぐように真っ直ぐだった。
「できないことを責めはせん。だが、できないことを隠す者に、石は応えん」
ナノは唇を噛んだ。
できない。
そう言えば終わる。
誰も責めないかもしれない。
怪我人だから。
人族だから。
昨日来たばかりだから。
言い訳はいくらでもある。
だが、ナノは黒錬板を見たまま動けなかった。
胸の奥で、父の声がする。
割ってみなきゃ中身は分からない。
母の声もする。
ちゃんと帰ってきて。
帰る場所は、もうない。
でも、父と母の言葉だけは残っている。
ナノは一歩前へ出た。
「やります」
声は震えていた。
長老の目が細くなる。
「今の声は、怖がっているな」
「はい……怖いです」
広場が静かになる。
ナノは続けた。
「失敗したら、また無能だって思われるのが怖いです。痛いのも怖いです。正直、逃げたいです」
言いながら、ナノは自分の掌を見た。
白い菱形の紋様。
黒い線。
青黒い点。
まだ頼りない、自分だけの証。
「でも、それでも……やります」
長老は頷いた。
「なら、叩け」
ナノは黒錬板の前に膝をついた。
周囲の視線が集まる。
神託塔とは違う。
だが、見られていることに変わりはない。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
左足も痛い。
ナノは黒錬板に両手を置いた。
冷たい。
表面は硬く、手の熱を奪っていく。
掌の紋様がじんわりと熱を持つ。
頭の奥に文字が浮かぶ。
――黒錬板を確認。
――吸収不可。
――鍛錬対象として認識。
――百錬成鋼、発動可能。
ナノは息を吸った。
肺が震える。
昨日の痛みを思い出す。
腕が千切れそうな感覚。
骨が内側から叩かれる感覚。
また来る。
それでも、ナノは目を閉じなかった。
「百錬成鋼……」
小さく呟いた。
掌から熱が流れる。
黒錬板の中へ。
いや、違う。
黒錬板の硬さが、ナノの体へ流れ込んでくる。
石の重さ。
歪み。
内部の筋。
割れやすい場所。
見えるわけではない。
だが、分かる。
表面ではない。
奥に、細い線がある。
そこを叩けばいい。
ナノは拳を握った。
右腕が震える。
痛みが走る。
百錬成鋼が、体の内側を叩き始める。
「ぐっ……!」
骨の奥が熱い。
筋肉が軋む。
左足の傷まで脈打つ。
それでも、拳を振り下ろした。
黒錬板に拳が触れる。
鈍い音。
割れない。
周囲の誰かが息を漏らした。
ナノは歯を食いしばった。
痛い。
拳が割れそうだ。
皮膚が裂れ、血が滲む。
だが、黒錬板の奥にある細い線は、ほんの少し震えた。
もう一度。
ナノは拳を上げた。
「っ……まだ……!」
2回目。
鈍い音。
黒錬板は割れない。
ナノの拳から血が落ちる。
視界が滲む。
でも、今度は確かに聞こえた。
ぴし。
小さな音。
誰かがざわめいた。
「今、ひびが……」
ナノは息を荒げた。
腕が上がらない。
もう限界だった。
だが、黒錬板の中の線が見える。
そこにもう一度入れれば。
ナノは声を絞り出した。
「俺は……」
拳を上げる。
「俺は、無能じゃ……」
体中が悲鳴を上げる。
「ない……!」
3回目。
拳が黒錬板へ落ちた。
音は小さかった。
だが、その直後、黒錬板の中央に白いひびが走った。
ひびは蜘蛛の巣のように広がり、石板全体を裂いていく。
そして、黒錬板は2つに割れた。
広場が静まり返った。
鍛冶炉の音だけが聞こえる。
かん。
かん。
かん。
ナノはその場に膝をついた。
右手は血だらけだった。
腕は震え、息は乱れ、意識も少し遠い。
それでも、黒錬板は割れている。
割った。
自分の手で。
長老が割れた石板を見下ろした。
そして、ナノを見た。
「不格好だな」
最初の言葉は、それだった。
ナノは苦しそうに息を吐いた。
「はっ……はぁ……す、すみません」
「謝るな」
長老は少しだけ口元を緩めた。
「だが、不格好でも割った」
広場の空気が変わった。
誰かが小さく呟く。
「あの人族、本当に……」
「黒錬板を割ったぞ」
「怪我したままでか?」
ざわめきは、もう嘲笑ではなかった。
疑いはまだある。
警戒もある。
でも、その中に確かな驚きが混じっていた。
グレンが近づき、ナノの腕を掴んで立たせた。
「よくやった」
短い言葉だった。
それだけで、ナノの胸が熱くなった。
「グレンさん……俺……」
「泣くなら後にしろ。今泣くと、ミラにまた怒られる」
「は、はい……」
返事をした瞬間、涙がこぼれた。
グレンはため息をついた。
「遅かったか」
長老が低く笑った。
「グレン」
「何だ」
「その人族を鍛えろ」
「最初からそのつもりだ」
「なら、正式に坑道街の預かりとする」
周囲がざわめく。
ナノは目を見開いた。
「預かり……?」
グレンが説明する。
「この街に滞在する許可だ。人族がドワーフの坑道街に長くいるには、本来なら手続きがいる」
「じゃあ、俺……ここにいていいんですか」
長老が頷いた。
「ただし、ただ飯は食わせん。働け。学べ。鍛えろ」
「は、はい!」
今度の返事は、自然と大きくなった。
長老はその声を聞き、満足そうに頷いた。
「それと、グレン」
「まだ何かあるのか」
「3日後、旧採掘路の奥で魔石採取を行う。そいつも連れていけ」
グレンの眉が上がる。
「早すぎる」
「早いかどうかは、石が決める」
長老の片目がナノへ向く。
「ナノ。お前の【石】は、魔石を見て育つ。安全な鍛冶場だけでは足りん」
ナノは息を呑んだ。
魔石採取。
旧採掘路。
魔物がいる場所。
怖い。
だが、さっき黒錬板を割った拳が、まだ熱を持っている。
「行きます」
ナノは答えた。
グレンが横目で見る。
「即答するな。少しは考えろ」
「あ……す、すみません」
「謝るな」
「はい……じゃなくて、分かりました」
グレンは呆れたように息を吐いた。
だが、その顔は少しだけ笑っていた。
長老は広場のドワーフたちへ向き直った。
「聞け! この人族はまだ弱い。未熟で、細く、すぐ倒れそうな石ころだ」
ナノの肩が小さく縮む。
だが、長老の声は続いた。
「だが、黒錬板を割った。恐怖を認め、その上で拳を振った。ならば、我らはその一打を認める」
周囲のドワーフたちが静かに頷き始めた。
1人、また1人。
鍛冶師が槌を掲げる。
戦士が斧の柄で床を叩く。
かん。
かん。
かん。
音が広がる。
鍛冶場の音と重なり、街全体がナノの一打に応えているようだった。
ナノは泣きそうになりながら、その音を聞いていた。
神託塔で浴びた笑い声とは違う。
貧民街の夜に響いた悲鳴とも違う。
これは、認められる音だった。
無能ではない。
まだ弱い。
まだ何者でもない。
でも、無能ではない。
ナノは血だらけの拳を握った。
掌の紋様が強く光る。
頭の奥に、文字が浮かんだ。
――百錬成鋼、熟練度上昇。
――石眼、初期発現。
――黒錬板の構造視認に成功。
――称号補助を獲得。
――無能ではない証明。
ナノは息を止めた。
称号。
無能ではない証明。
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
父さん。
母さん。
俺、まだ弱いけど。
まだ何も守れなかったけど。
でも、少しだけ前に進めたよ。
ナノは心の中でそう呟いた。
ガルバ坑道街の鍛冶炉は、赤く燃えていた。
その火は、谷底に落ちた少年の影を長く伸ばしながら、まだ形のない原石を照らしていた。
こうして、ナノは初めて居場所を得た。
無能と笑われた【石】は、地底のドワーフたちの前で、最初の証明を刻んだ。
第1章 無能スキル【石】と谷底のダイヤモンド 完
ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




