第7話 石を喰らう魔物
ガルバ坑道街の旧水路は、街の下層にあった。
そこへ向かう道は狭く、湿っていた。岩壁には黒い苔が張りつき、足元の石段には水が薄く流れている。踏むたびに滑りそうになり、ナノは何度も壁へ手をついた。
壁は冷たい。
その冷たさが、地底湖で溺れかけた時の感覚を思い出させた。
息が少し乱れる。
左足の傷が疼く。
だが、前を歩くグレンは一度も振り返らなかった。
振り返らないことで、ナノを信じているのか。
それとも、ついて来られないなら置いていくつもりなのか。
どちらか分からなかった。
ただ、ナノは必死についていった。
道の先から、嫌な音が聞こえてくる。
かり。
がり。
がりがり。
何か硬いものを削る音。
石を刃物で削る音とは違う。
もっと汚く、もっと生々しい音だった。
歯で石を噛み砕いている音。
ナノの背筋に冷たいものが走る。
「この音……」
思わず呟くと、グレンが低く答えた。
「鉱石ガキだ」
その名を聞いただけで、胃の奥が縮んだ。
貧民街の霧の中から現れた魔物。
老人に飛びかかり、父と母のいる場所へ群れで迫ってきた小鬼。
ナノは喉を鳴らした。
「だ、大丈夫です……」
誰に言ったのか分からない。
グレンがちらりと横目で見た。
「今の声で大丈夫に聞こえる奴はいない」
「で、でも……逃げません」
「逃げるなとは言っていない」
「え?」
「勝てない時は逃げろ。死ぬだけの意地は、ただの無駄だ」
グレンは戦槌を肩に担いだまま進む。
「だが、逃げると決めるまでは目を逸らすな。恐怖を見ろ。相手を見ろ。自分の足が震えていることも見ろ」
ナノは自分の膝を見た。
確かに震えていた。
寒さのせいではない。
「……はい」
小さく返事をした。
今度の「はい」は、弱かった。
けれど、逃げるための弱さではなかった。
恐怖を認めるための声だった。
旧水路の入口が見えてきた。
大きな鉄格子が破られている。曲がった鉄の棒が、力任せに引きちぎられたように外側へ広がっていた。水路の奥からは湿った風が流れ、腐った水と砕けた鉱石の匂いが混ざっている。
周囲には、ドワーフの戦士たちがすでに集まっていた。
全員が小柄だが、体の厚みが違う。鉄の胸当て、分厚い腕、短い斧や槌。胸元や腕に埋まった種族石が、薄暗い水路の中で鈍く光っている。
1人のドワーフがグレンに近づいた。
「グレン、遅ぇぞ」
「負傷者を拾っていた」
「そいつか?」
ドワーフの視線がナノに向いた。
警戒と好奇心が混じった目だった。
「人族のガキじゃねぇか。なんで連れてきた」
「見学だ」
「見学? 旧水路に鉱石ガキが入った時にか?」
「こいつには必要だ」
グレンがそう言うと、男は眉をひそめたが、それ以上は言わなかった。
ナノは視線を落とした。
邪魔だと思われている。
それは当然だ。
自分でもそう思う。
だが、ここで下がったら、また何かが折れる気がした。
グレンが低く言う。
「ナノ」
「は、はい」
「お前は俺の後ろにいろ。俺が止まれと言ったら止まれ。伏せろと言ったら伏せろ。走れと言ったら、何も考えず走れ」
「はい……!」
「最後の返事は悪くない」
グレンは鉄格子の向こうへ進んだ。
ナノも後に続く。
旧水路の中は暗かった。
壁には低品質の灯石が埋め込まれているが、光は弱い。濁った黄色の灯りが水面に揺れ、壁の影を歪ませていた。
足元には浅い水が流れている。
歩くたびに、ちゃぷ、と音がする。
ナノはその音が嫌だった。
地底湖の水音を思い出す。
水鉱ガキが這い出してきた暗がりを思い出す。
それでも、目を逸らさない。
奥へ進むほど、石を噛む音が大きくなった。
がり。
がり。
がりっ。
曲がり角の先で、グレンが足を止めた。
片手を上げる。
全員が止まる。
ナノも慌てて足を止めた。
心臓の音がうるさい。
グレンが低く言った。
「いる」
次の瞬間、曲がり角の向こうから小さな影が飛び出してきた。
鉱石ガキ。
灰色の皮膚。
背中に黒い鉱石の突起。
黄色く濁った目。
口の周りには、砕いた石の粉と黒い唾液がこびりついている。
1匹ではない。
2匹、3匹、5匹。
奥の暗闇から、次々と這い出してくる。
ナノの呼吸が止まった。
あの夜と同じ目だった。
飢えた目。
人間を肉としてしか見ていない目。
「ひっ……」
情けない声が漏れた。
グレンは前に出た。
「見るんだ、ナノ」
「で、でも……」
「見ろ」
その声に、ナノは目を逸らせなかった。
鉱石ガキが一斉に飛びかかる。
グレンの戦槌が横へ振られた。
空気が破裂するような音がした。
先頭の鉱石ガキが、壁へ叩きつけられる。体が潰れ、黒い血と鉱石片が飛び散った。
続けて、他のドワーフたちが前へ出る。
斧が振り下ろされる。
槌が骨を砕く。
短剣が魔石を抉る。
戦いは、王都の騎士物語のように美しくはなかった。
血が飛ぶ。
水が濁る。
魔物が叫ぶ。
ドワーフたちが罵声を上げる。
「右から2匹!」
「奥に回すな!」
「魔石を割れ、こいつら再生するぞ!」
ナノは動けなかった。
怖い。
怖い。
怖い。
だが、グレンの言葉が響く。
恐怖を見ろ。
ナノは目を見開いた。
鉱石ガキは、ただ暴れているわけではない。
水路の壁に埋まった黒い鉱脈を狙っている。噛み砕いた鉱石を飲み込み、背中の突起を成長させている。
石を喰らって、強くなっている。
その時、頭の奥に文字が浮かんだ。
――魔物個体確認。
――鉱石ガキ。
――体内魔石、黒鉱系低純度。
――背部突起、成長中。
ナノは息を呑んだ。
「見える……?」
今まで、ただ怖いだけだった魔物が、少し違って見えた。
体のどこに魔石があるのか。
どの鉱石を喰っているのか。
どこが硬く、どこが脆いのか。
ぼんやりとだが、分かる。
ナノは掌を見た。
紋様が熱い。
「グレンさん!」
声が出た。
自分でも驚くほど大きな声だった。
「そいつら、背中の黒い突起が伸びてます! 壁の黒い鉱石を食べると、硬くなるみたいです!」
グレンが一瞬だけ振り返る。
「見えるのか」
「はい! た、多分……胸じゃなくて、腹の少し下に魔石があります!」
近くのドワーフ戦士が叫ぶ。
「腹だと? 胸じゃねぇのか!」
鉱石ガキがその戦士へ飛びかかる。
戦士は斧で胸を狙いかけ、途中で刃の角度を変えた。
腹の下。
そこへ斧が食い込む。
魔石が砕けた。
鉱石ガキの体が一瞬で力を失い、水路に倒れる。
「本当だ!」
戦士が叫んだ。
「腹だ! こいつら、腹の下に魔石があるぞ!」
戦い方が変わった。
ドワーフたちは魔物の胸ではなく、腹の下を狙い始める。鉱石ガキは次々と倒れていく。
ナノは震えながら、その光景を見ていた。
自分が、役に立った。
戦ってはいない。
剣も振っていない。
でも、情報を伝えた。
それだけで、魔物が倒れた。
胸の奥に、熱いものが灯る。
その時、旧水路のさらに奥から、低い唸り声が響いた。
空気が変わった。
鉱石ガキたちが、一斉に身を低くする。
ナノの背筋が凍った。
暗闇から現れたのは、四足の魔物だった。
岩牙狗。
だが、貧民街で見た個体より大きい。
背中の石皮は黒く厚く、首元には赤黒い魔石が露出している。牙は岩を削るように鋭く、口から漏れる息は白い蒸気のように水路を曇らせていた。
グレンが戦槌を構え直す。
「黒牙岩狗だ」
周囲のドワーフたちの顔が険しくなる。
「下がれ、ナノ」
グレンが言った。
だがナノは、足が動かなかった。
黒牙岩狗の目を見た瞬間、貧民街の夜が蘇った。
母の前に立つ魔物。
父の血。
崖から落ちる瞬間。
体が震える。
息ができない。
「ナノ!」
グレンの声が遠く聞こえる。
黒牙岩狗が跳んだ。
狙いはナノだった。
グレンが割って入ろうとする。
だが、間に合わない。
ナノの頭の中が白くなる。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
でも、足は動かない。
その時、父の声が聞こえた気がした。
立て、ナノ。
今は立て。
倒れるのは、後でいい。
「……っ!」
ナノは足元の石を掴んだ。
旧水路の黒い鉱石片。
手にした瞬間、掌の紋様が熱を放つ。
――黒錬鉱片を確認。
――武装補助、可能。
――百錬成鋼、微弱発動。
ナノは叫んだ。
「うああああっ!」
石を投げた。
狙いは魔物の顔ではない。
先ほど見えた、首元の赤黒い魔石。
黒錬鉱片は、まっすぐ飛ばなかった。
わずかに軌道を変え、黒牙岩狗の首元へ吸い込まれる。
がつん。
硬い音。
魔石には届かなかった。
だが、ほんの一瞬だけ、黒牙岩狗の動きが鈍る。
その一瞬で、グレンが間に入った。
戦槌が振り下ろされる。
「伏せろ!」
ナノは地面に倒れ込む。
直後、頭上で凄まじい衝撃音が響いた。
黒牙岩狗が吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられ、石の破片が降ってきた。
グレンは振り返らずに言った。
「よくやった」
ナノは水路に倒れたまま、息を荒げていた。
「はっ……はっ……俺、今……」
「生き延びた。十分だ」
グレンは黒牙岩狗へ向き直る。
魔物はまだ立ち上がる。
だが、首元に小さなひびが入っていた。
ナノの投げた石が作ったひびだ。
グレンが低く笑う。
「そこが弱点か」
黒牙岩狗が唸る。
グレンは戦槌を両手で握った。
胸元の白剛石が強く輝く。
「見ておけ、ナノ」
白い光が、戦槌へ流れた。
グレンの全身が岩のように沈み込む。
足元の石床にひびが入る。
「これが、白剛石を宿すドワーフの打撃だ」
黒牙岩狗が飛びかかる。
グレンは一歩も引かなかった。
「白剛震槌」
戦槌が振り抜かれる。
音が消えた。
一瞬遅れて、衝撃が来た。
黒牙岩狗の首元の魔石が砕け、体ごと壁にめり込んだ。水路全体が揺れ、天井から水滴と石粉が降る。
魔物は動かなくなった。
ナノはその場で呆然としていた。
圧倒的だった。
強さとは、こういうものなのか。
自分が投げた石とは、まるで違う。
でも、ナノが作った小さなひびが、確かにあの一撃につながった。
グレンが振り返る。
「立てるか」
ナノは震える足で立ち上がろうとした。
膝が笑っている。
手も震えている。
でも、逃げ出したい震えではなかった。
「はっ、はい……立てます」
今度の返事には、少しだけ力があった。
グレンは頷いた。
「お前はまだ弱い」
「……はい」
「だが、見える目がある。石を見る目、魔石を見る目、そして恐怖から目を逸らさない目だ」
ナノは言葉を失った。
グレンは続けた。
「それは鍛えれば武器になる」
水路の奥で、最後の鉱石ガキが逃げようとした。
ドワーフの戦士がそれを仕留める。
戦いは終わった。
だがナノの中では、何かが始まっていた。
貧民街の夜から逃げ続けていた足が、初めて少しだけ前に出た。
父と母を奪った魔物と同じ種を前にして、ナノは完全には折れなかった。
それは勝利とは呼べない。
だが、確かな一歩だった。
頭の奥に、文字が浮かぶ。
――魔石視認、初期反応を確認。
――技能補助、発現準備。
――石眼、未完成。
石眼。
その言葉が、ナノの中に残った。
まだ完成していない。
でも、芽は出た。
グレンが歩き出す。
「戻るぞ。小僧。今日はここまでだ」
「はい……」
ナノは水路の壁に手をつきながら歩き出した。
足は痛い。
体は重い。
怖さも消えていない。
それでも、心の奥には別の熱があった。
無能スキル【石】は、ただ石を吸うだけではない。
石を見る。
魔石を読む。
弱点を見抜く。
もし、この目を鍛えられるなら。
もし、自分がもっと強くなれるなら。
いつか、父と母を奪った夜にも、向き合えるかもしれない。
旧水路を出る頃、鍛冶場の火が遠くに見えた。
赤く、熱く、揺れる光。
ナノはその光を見つめながら、拳を握った。
掌の紋様は、まだ熱を持っていた。
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