第6話 地底のドワーフ
地底の朝に、太陽はなかった。
ナノが寝かされていた石造りの小部屋には窓がない。外の空が明るくなったのか、夜が明けたのか、時間を教えてくれるものは何もなかった。
ただ、部屋の壁に走る金色の鉱脈だけが、ゆっくりと淡い光を強めていた。
岩壁の奥から滲むような光だった。火のように揺れず、神託塔の水晶のように冷たくもない。地中で長い年月を眠っていた石が、ようやく息をし始めたような、静かで重い光。
ナノは寝台の上で目を開けたまま、しばらくその光を見ていた。
左足はまだ痛む。
包帯の下で、噛まれた傷が熱を持っている。だが昨夜のように、肉が裂けたまま脈打つような痛みではない。鈍く、深く、体の奥に残る痛みだった。
腕にも、肩にも、背中にも傷がある。
けれど、体は動く。
生きている。
その事実を思い出すたびに、胸が締めつけられた。
父と母は、あの霧の中でどうなったのか。
考えようとすると、喉の奥が硬くなる。
見ていない。
死んだところを見たわけではない。
だから、生きているかもしれない。
そう思いたかった。
だが、頭のどこかでは分かっている。
あの数の魔物に囲まれて、父も母も無傷で済むはずがない。父はすでに血まみれだった。母は細い木の棒を握りしめ、震えながらナノの前に立っていた。
2人はナノを逃がすために残った。
その意味を、ナノはもう理解してしまっている。
「……っ」
歯を食いしばった。
泣き声が漏れそうになったからだ。
昨日、ミラに「泣いてもいい」と言われた。
それでも、泣くのが怖かった。
一度泣いたら、もう立ち上がれなくなる気がした。
その時、部屋の外から重い足音が近づいてきた。
石床を踏む、短く力強い音。
すぐに誰なのか分かった。
扉が開く。
グレンが入ってきた。
今日も煤の匂いをまとっている。分厚い腕には薄い革の手袋。胸元に埋まった透明な種族石は、部屋の鉱脈の光を受けて淡く輝いていた。
「起きていたか、小僧」
低い声が部屋に響いた。
ナノは慌てて体を起こそうとした。
「はっ、はい。もう大丈夫で――」
「大丈夫なわけがあるか」
グレンは即座に切った。
ナノの動きが止まる。
「落下、水没、魔物との戦闘、魔石毒。普通の人族なら昨日のうちに死んでいる」
「で、でも……」
「でも、じゃない。死ななかっただけだ。治ったわけじゃない」
「……はい」
ナノは小さく頷いた。
今度の「はい」は、自然と弱くなった。
怒られたからではない。
グレンの言葉が正しいと分かったからだ。
グレンは部屋の隅にある石椅子へ腰を下ろした。木の椅子なら軋んだだろうが、石の椅子はびくともしない。彼の体重を当たり前のように受け止めている。
「昨日、お前は黒錬鉱を割った」
「……はい」
「百錬成鋼。聞いたことのない技能名だ」
グレンの目が細くなる。
「お前自身は、何か分かるか」
ナノは掌を見た。
白い菱形の紋様。
その中に黒い細線がひとつ、そして青黒い小さな点がひとつ浮かんでいる。
昨日、黒錬鉱を割った時に得た技能。
百錬成鋼。
名前を思い出すだけで、掌の奥がじんわりと熱くなる。
「たぶん……俺の体を、鍛える技能だと思います」
「ほう」
「黒錬鉱を割ろうとした時、腕が壊れそうなくらい痛かったんです。でも、その痛みの中で、体の中に何かが通った気がして……骨とか筋肉とか、そういうものを、石を叩くみたいに少しだけ硬くしていくような」
言葉にしながら、ナノ自身もまだ戸惑っていた。
説明しているのに、完全には理解できていない。
体の内側に鍛冶場があるような感覚。
熱し、叩き、歪みを正し、少しずつ鋼へ近づけるような感覚。
グレンはしばらく黙っていた。
沈黙の間、部屋の外から鍛冶音が聞こえた。
かん。
かん。
かん。
一定の間隔で鉄を叩く音が響いている。
グレンはその音を聞きながら、低く言った。
「名の通りなら、百錬成鋼は“鍛えて鋼へ至る”技能だろうな」
「鋼……」
「一度で強くなる力じゃない。打たれて、歪んで、また打たれて、ようやく形になる力だ」
ナノは黙った。
それは、少しだけ残酷な力に思えた。
すぐに強くなれるわけではない。
痛みを通らなければならない。
何度も何度も、自分を叩き直さなければならない。
「嫌か」
グレンが聞いた。
ナノは顔を上げた。
「え……?」
「痛みを伴う力だ。嫌なら、ここで降りろ」
声は淡々としていた。
でも、その目はナノを試していた。
ナノは左足の痛みを感じた。
腕の傷を感じた。
胸の奥に残る、父と母の最後の声を感じた。
生きろ。
あなたが生きている限り、私たちは終わらない。
ナノは拳を握った。
掌の紋様が熱を持つ。
「嫌です」
声は震えていた。
だが、前よりも少しだけ芯があった。
「俺は、降りたくないです」
「なぜだ」
「弱いままだと……また奪われるから」
言った瞬間、胸が痛んだ。
奪われた。
家を。
暮らしを。
父と母を。
自分が普通に生きられると思っていた未来を。
「俺は、強くなりたいです。復讐したいって気持ちもあります。神託塔で笑った奴らを見返したい気持ちも、あります。でも……」
ナノは一度、言葉を切った。
喉が震える。
「でも、それだけじゃないんです。俺みたいに、神託で全部決められて、捨てられて、誰にも調べてもらえない人がいるなら……それを、変えたい」
グレンは無言でナノを見ていた。
ナノは視線を逸らさなかった。
「俺にできるかは分かりません。今の俺じゃ、たぶん何もできません。でも、強くならないと、何も言えない。何も守れない。だから……痛くても、やります」
部屋の中に、静かな時間が落ちた。
グレンはしばらくナノを見ていた。
やがて、口元を少しだけ歪めた。
笑ったのかもしれない。
「いい目になった」
ナノは息を呑んだ。
「え……?」
「昨日の目は、死にかけの獣だった。今は、まだ折れていない石ころくらいには見える」
「そ、それは褒めてるんですか」
「褒めている」
「……分かりづらいです」
「ドワーフの褒め言葉は重い。覚えておけ」
グレンは立ち上がった。
「ついてこい」
「え、今からですか?」
「歩けるかを見る」
「で、でもミラさんが、まだ安静にって」
「だから走らせはしない。歩けるか見るだけだ」
「はっ、はい……」
ナノは寝台から足を下ろした。
左足に体重をかけた瞬間、痛みが走る。
「っ……!」
思わず顔が歪んだ。
グレンは助けなかった。
ただ、見ていた。
その視線は冷たくはない。
だが、甘くもなかった。
「痛むか」
「はい……でも、歩けます」
「無理なら言え。無理を美徳にする奴は、鍛冶場では長生きしない」
「……はい」
ナノは壁に手をつきながら立ち上がった。
掌が岩壁に触れる。
冷たい石の感触。
その奥に、かすかな振動がある。
ドワーフの街全体が、鍛冶の音で脈打っているようだった。
*
部屋の外へ出ると、熱が押し寄せてきた。
地底の空間は広かった。
昨日、意識が遠のく前に見た景色より、ずっと鮮明に見える。
巨大な岩窟の中に、ドワーフたちの街が築かれていた。岩壁をくり抜いた住居が段々に並び、鉄の吊り橋が空中を横切っている。下層には大きな鍛冶炉がいくつもあり、赤い火が絶えず燃えていた。
火の粉が舞う。
槌音が響く。
石と鉄と汗の匂いが混ざる。
王都とはまるで違う場所だった。
王都の神託塔は、白く、冷たく、静かだった。
ここは違う。
汚れている。
熱い。
うるさい。
でも、生きている。
ナノは思わず立ち止まった。
「すごい……」
声が漏れた。
グレンは少しだけ誇らしげに鼻を鳴らした。
「ここはドワーフ領の外縁都市、ガルバ坑道街だ」
「ガルバ……坑道街」
「正式な領都ではない。谷底と旧採掘路を繋ぐ、境目の街だ。上の連中には、半分忘れられている場所だな」
「忘れられてる……」
ナノは周囲を見る。
忘れられている場所。
だが、ここには確かに人々の暮らしがある。
鍛冶炉の前で火を操る者。
鉱石を運ぶ者。
子どもに小さな槌を持たせている年老いた職人。
岩壁に腰かけ、酒瓶を片手に笑っている戦士たち。
彼らの胸や腕には、それぞれ違う石が埋まっていた。
透明な石。
黒く光る石。
黄みを帯びた石。
鈍い赤色の石。
灰色に濁った石。
「みんな、石が……」
ナノが呟くと、グレンが言った。
「種族石だ」
「ドワーフは全員、同じ石じゃないんですね」
「当たり前だ。人族だって全員同じ顔ではないだろう」
「あ……たしかに」
「ドワーフの中でも血筋、職、鍛錬、土地、魔素で石は変わる。俺の胸にあるのは白剛石系統。鍛冶師の中でも耐久と圧力制御に寄った石だ」
グレンは歩きながら説明した。
「黒鉄系の戦士なら黒剛石に近い石を宿す者もいる。黄玉系の掘削師は感知に優れる。赤鉱系の鍛冶師は火床との相性がいい」
「そんなに違うんですか」
「違う。だから、石を見るだけである程度の生き方が分かる」
グレンはナノの掌を見た。
「だが、お前の紋様は妙だ」
「妙……?」
「種族石ではない。体内に石を宿しているわけでもない。だが、石を取り込み、紋様に刻んでいる。人族の体でそんなものは見たことがない」
ナノは掌を握った。
「危ない力なんですか」
「力は大抵危ない」
グレンは即答した。
「問題は、扱う者が危なさを理解しているかだ」
ナノはその言葉を胸に刻んだ。
グレンは街の中央へ向かった。
そこには、ひときわ大きな鍛冶炉があった。
周囲の炉よりも火が強い。赤ではなく、白に近い炎が炉の奥で脈打っている。熱気で空気が揺れ、近づくだけで頬が焼けるようだった。
炉の前に、黒い石板が置かれていた。
厚さはナノの腕ほどある。
表面は荒く、ところどころに金属の筋が浮いている。
「これを持ち上げろ」
グレンが言った。
ナノは石板を見た。
「……これを?」
「ああ」
「いや、絶対無理です」
「持ち上げろ」
「でも、さっき無理を美徳にするなって」
「無理かどうかを確かめろと言っている」
「えぇ……」
ナノは石板の前にしゃがんだ。
手をかける。
重い。
少し力を入れただけで分かった。
昨日の黒錬鉱より、ずっと重い。
持ち上がる気がしない。
「ぐっ……!」
力を込める。
腕が震える。
左足が痛む。
石板は動かない。
グレンは腕を組んで見ていた。
「どうした。無理か」
「む、無理……です」
「それでいい」
ナノは力を抜いた。
「え?」
「今の自分で何ができないかを知るのは大事だ。無能と笑われた人間は、逆に無理をしすぎる。できないと言われ続けた反動で、できないことを認めるのを恐れる」
ナノは息を呑んだ。
心を見透かされた気がした。
グレンは石板を軽々と持ち上げた。
片手だった。
「強さとは、何でもできることではない。何ができて、何ができないかを正しく知り、その差を埋めることだ」
石板を置く。
重い音が響く。
「今日からお前は、これを動かせるようになる」
「今日から……」
「最初は1ミリでいい」
グレンはナノを見た。
「1ミリ動けば、昨日とは違う。それを毎日続けろ」
ナノは石板を見た。
巨大で、重く、動かない石。
今の自分そのもののように思えた。
「分かりました」
ナノは頷いた。
「やります」
「いい返事だ」
その時、鍛冶場の入口から怒鳴り声が響いた。
「グレン!」
振り返ると、若いドワーフの男が走ってきた。
顔には煤がつき、肩で息をしている。
「旧水路側に魔物だ! 石喰い鼠じゃねぇ、鉱石ガキの群れだ!」
グレンの顔が一瞬で険しくなった。
「数は」
「少なくとも12。奥に岩牙狗もいるかもしれねぇ」
ナノの体が強張った。
岩牙狗。
あの夜、母に飛びかかった魔物。
父と母を襲った魔物。
息が浅くなる。
指先が冷える。
グレンはナノを見た。
「お前は戻れ」
「……嫌です」
ナノの声が出た。
自分でも驚いた。
グレンの眉が上がる。
「何?」
「俺も、行きます」
「足も治っていない人族が何を言う」
「分かってます。俺が行っても邪魔かもしれない。でも……」
ナノの喉が震えた。
霧の中の夜が蘇る。
鉱石ガキの黄色い目。
岩牙狗の牙。
父の血。
母の声。
「逃げたくないんです」
グレンは黙った。
ナノは続けた。
「今の俺じゃ倒せないかもしれない。でも、あの魔物を見て、何もできずに隠れてるだけなら……俺、またあの夜に戻ってしまう」
声が震えていた。
恐怖で。
怒りで。
それでも、ナノは言った。
「お願いします。後ろでいい。見てるだけでもいい。俺に、魔物と向き合う場所をください」
グレンはしばらくナノを見ていた。
そして、短く息を吐いた。
「死にたがりではないな」
「違います。生きたいから……行きたいんです」
「なら、俺の後ろから絶対に出るな」
ナノの目が見開かれる。
「はっ、はい!」
「その返事だけは、少し腹に力が入ったな」
グレンは巨大な戦槌を手に取った。
鍛冶師の道具ではない。
戦士の武器だった。
「行くぞ。小僧」
ナノは痛む足を引きずりながら頷いた。
胸の奥で、百錬成鋼の名が静かに熱を持っていた。
逃げない。
まだ戦えなくても。
今度は、目を逸らさない。
地底の鍛冶場に、警鐘の音が鳴り響いた。
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