第5話 百錬成鋼
ナノが目を覚ました時、最初に感じたのは鉄の匂いだった。
熱された金属。
煤。
油。
湿った岩。
そして、わずかに混じる薬草の苦い香り。
平民街の石工場にあった乾いた石粉の匂いとは違う。ここにある匂いはもっと重く、もっと熱く、肺の奥に沈み込むようだった。
目を開けると、天井は岩だった。
木の梁ではない。藁葺きの屋根でもない。黒く厚い岩盤が頭上を覆っている。その岩盤には、細い鉱石の筋がいくつも走り、淡い金色の光を放っていた。
ナノはしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
崖。
霧。
地底湖。
白剛石。
水鉱ガキ。
ドワーフ。
記憶が、割れた石片のように少しずつ繋がっていく。
「っ……!」
起き上がろうとした瞬間、左足に痛みが走った。
ナノは顔を歪め、寝台に倒れ込む。
寝台と言っても、柔らかいものではなかった。厚い獣皮が敷かれた石の台だ。体を支えてはくれるが、動くたびに背中の痛みを思い出させる。
「動くな、小僧」
低い声がした。
ナノは反射的に顔を向けた。
部屋の隅に、昨日のドワーフが座っていた。
大きな木椅子に腰掛け、腕を組んでいる。煤で汚れた革の前掛けは外しているが、分厚い腕と胸元の透明な種族石は、薄暗い部屋の中でも存在感があった。
その石は、ただ光っているだけではない。
岩の奥で眠る圧力のようなものを感じさせた。
「お、起きて……すみません」
ナノは慌てて言った。
声が掠れていた。
ドワーフは眉をひそめる。
「だから謝るなと言っただろう。死にかけの人族が目を覚ましただけで謝るな。面倒くさい」
「あ……は、はい……」
「その『はい』も、今にも消えそうだな。腹に力を入れろ」
「はっ、はい」
ナノは背筋を伸ばそうとしたが、痛みで顔が歪んだ。
ドワーフはため息をついた。
「無理に入れるな。お前は加減というものを知らんのか」
「す、すみ……あ、いや」
謝りかけて、ナノは口を閉じた。
ドワーフはそれを見て、鼻を鳴らした。
「少しは学ぶらしい」
部屋の入口から、小柄なドワーフの女性が入ってきた。
白い布を頭に巻き、腰には薬草の束を吊るしている。目元は鋭いが、手つきは優しそうだった。彼女の左手の甲には、淡い緑色の石が埋まっている。
「グレン。起きたばかりの子に説教しないで」
「説教じゃない。呼吸の仕方を教えていた」
「それを説教って言うのよ」
女性はナノのそばへ来ると、額に手を当てた。
冷たく、柔らかい手だった。
「熱は少し下がったわね。足は痛む?」
「は、はい……でも、さっきよりは」
「無理に強がらなくていいわよ。噛まれた傷に魔石毒が少し入っていたの。普通ならしばらく動けない」
「魔石毒……」
聞き慣れない言葉に、ナノは眉を寄せた。
女性は包帯を確認しながら言った。
「魔物の体内にある魔石から漏れる毒素よ。低級なら命に関わることは少ないけど、体の弱い人族なら危ないこともある」
「俺……死にかけてたんですか」
「落下、水没、出血、魔石毒。むしろ、よく死ななかったわね」
女性は淡々と言った。
だが、その声には冷たさはなかった。
ナノは左手を見る。
掌には、透明な菱形の紋様が残っていた。
昨日よりも少し濃くなっている気がする。中心には、白く細い線が入り、その周囲に青黒い点がひとつ浮かんでいた。
「これ……」
ナノが呟くと、グレンと呼ばれたドワーフが椅子から立ち上がった。
「見せろ」
ナノはおずおずと手を差し出した。
グレンはその手を取った。
分厚い指で掌の紋様を確認する。触れ方は荒っぽいが、力加減は驚くほど正確だった。
「白剛石の基礎紋。そこに水鉱魔石の反応が混じってる」
「分かるんですか」
「分かる。俺たちドワーフは、石を見て飯を食ってる種族だ」
グレンはナノの掌から目を離さずに言った。
「小僧。お前の固有スキルは何だ」
ナノの喉が詰まった。
神託塔で笑われた記憶が蘇る。
白い壁に反響した嘲笑。
石って何だよ。
投げるのか。
置くだけだろ。
ナノは視線を落とした。
「……【石】です」
声が小さくなった。
グレンの眉が動く。
「聞こえん」
「固有スキルは……【石】です」
今度は少しだけ大きく言った。
言いながら、胸の奥が痛んだ。
また笑われると思った。
だが、グレンは笑わなかった。
女性も笑わなかった。
グレンはむしろ、深く皺を刻んだ顔を険しくした。
「【石】だと?」
「はい……神託では、全部Fで、レベルも1で……だから、無能って言われました」
「誰に」
「神官にも、周りの人たちにも……」
ナノは唇を噛んだ。
「俺のせいで、家族も貧民街に落とされて……それで、魔物に襲われて……父さんと母さんが……」
言葉が詰まった。
胸の奥から何かがせり上がってくる。
泣くな。
泣くな。
そう思っても、声が震えた。
「俺だけ、落ちて……生き残って……」
女性が静かにナノの肩に手を置いた。
「名前は?」
ナノは顔を上げる。
「え……?」
「あなたの名前」
「ナノ、です」
「私はミラ。治療師よ。こっちの無愛想な石頭はグレン」
「誰が石頭だ」
「胸にダイヤを宿してるんだから、石頭でも似たようなものでしょ」
グレンは不満そうに鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。
ミラはナノを見た。
その目は、神託塔の神官とはまったく違っていた。
値踏みする目ではない。
目の前で傷ついている子どもを見ている目だった。
「ナノ。ここでは、泣いてもいいわ」
その言葉で、ナノは限界だった。
「っ……」
歯を食いしばる。
だが涙が出る。
一度出ると、止まらなかった。
「俺……俺、逃げたんです。父さんも母さんも、まだ戦ってたのに……俺だけ、逃げて……」
「違う」
グレンの声が響いた。
低く、重い声だった。
ナノは肩を震わせた。
グレンは真っ直ぐナノを見ていた。
「お前は逃げたんじゃない。逃がされたんだ」
「でも……」
「でも、じゃない」
グレンの声は荒くない。
だが、石槌を打ち下ろすような強さがあった。
「親が命を張って子を逃がした。なら、お前がすることはひとつだ」
「ひとつ……?」
「生きることだ」
ナノは何も言えなかった。
父も同じことを言った。
生きろ。
その言葉が、地下の部屋でまた響いた。
グレンはナノの掌を離した。
「それと、【石】が無能だと笑った連中は、石を知らん馬鹿だ」
ナノは目を見開いた。
「え……?」
「石ほど厄介なものはない。燃えない。腐らない。沈黙して何百年も力を溜める。磨けば宝石になり、砕けば武器になり、積めば城壁になり、墓になり、道標にもなる」
グレンは自分の胸元に埋まった透明な種族石を指で叩いた。
硬い音がした。
「俺たちドワーフの種族石の多くは、地の石だ。だがな、すべて同じではない。鉄に寄る者、黒曜に寄る者、黄玉に寄る者、白剛石に寄る者。生まれ、血筋、鍛錬、職能で石は変わる」
ミラが続ける。
「あなたが吸収した白剛石は、ドワーフの中でも適合が難しい石よ。普通の人族が触れて、体に取り込めるものじゃない」
「じゃあ、俺は……」
「無能ではない」
グレンが言った。
ナノの胸が震えた。
その言葉を、誰かに言ってほしかったのかもしれない。
神託塔で笑われた時から。
いや、もっと前から。
「でも、強くもない」
グレンは容赦なく続けた。
ナノは固まった。
「え……」
「今のお前は、宝石の力に体が振り回されてるだけだ。白剛石の欠片を吸ったとはいえ、適合率は低い。魔石も低級。水鉱ガキを倒せたのは、半分は偶然だ」
「ぐ……」
正論だった。
ナノは何も言い返せない。
グレンは腕を組んだ。
「だが、偶然でも生き残った。それは才能とは別の価値だ」
ミラが微笑む。
「グレンにしては、ずいぶん褒めてるわね」
「事実を言っただけだ」
ナノは掌の紋様を見た。
無能ではない。
でも、強くもない。
その言葉は痛かった。
けれど、神託塔の嘲笑とは違った。
そこには見下しではなく、現実があった。
「俺……強くなれますか」
ナノは聞いた。
声は震えていた。
だが、逃げるための震えではなかった。
グレンはナノを見た。
「何のために強くなる」
ナノは息を止めた。
復讐。
一瞬、その言葉が浮かんだ。
神官を見返したい。
笑った者たちを黙らせたい。
貧民街を見捨てた王都を許せない。
でも、それだけではなかった。
父と母が命をかけて逃がした自分が、ただ憎しみだけで生きるのは違う気がした。
「俺は……」
言葉を探す。
胸の奥にあるものを、うまく形にできない。
「俺は、もう奪われるだけの人間でいたくない」
グレンの目がわずかに細くなる。
ナノは続けた。
「父さんと母さんがくれた命を、無駄にしたくない。俺を無能って笑った世界が間違ってるなら、それを証明したい。でも、それだけじゃなくて……俺みたいに、神託で捨てられる人を、もう見たくない」
言いながら、自分でも驚いていた。
こんな言葉が胸にあったのか。
グレンはしばらく黙っていた。
部屋の外から、鍛冶炉の音が聞こえる。
かん。
かん。
かん。
鉄を叩く音が、沈黙の中に響いた。
「大きく出たな、小僧」
グレンが言った。
「す、すみません。俺、偉そうに……」
「謝るなと言った」
「あっ、はい……」
「だが、言葉だけなら誰でも吐ける」
グレンは近くの棚から、小さな黒い石を取り出した。
拳ほどの大きさの鉱石だった。
「持ってみろ」
ナノは受け取ろうとした。
その瞬間、腕が下がった。
「お、重っ……!」
見た目以上に重い。
片手では支えきれず、ナノは両手で抱え込んだ。
左足の痛みもあり、体がふらつく。
グレンは冷静に見ていた。
「黒錬鉱だ。鍛冶場ではよく使う。低級だが、素人には扱いにくい」
「これを、どうすれば……」
「割れ」
「え?」
「その手で割れ」
ナノは黒錬鉱を見た。
表面は硬く、金属のような鈍い光沢がある。
「む、無理です。こんなの、俺の力じゃ」
「お前の力だけなら無理だ」
グレンはナノの掌を指差した。
「だが、お前の【石】が本物なら、ただ持つだけで終わらん」
ナノは黒錬鉱に触れた。
掌の紋様が熱くなる。
頭の奥に文字が浮かんだ。
――黒錬鉱を確認。
――吸収不可。
――鍛錬対象として認識可能。
鍛錬対象。
ナノは眉を寄せた。
「鍛錬……対象?」
「何か出たか」
グレンが聞く。
「はい。鍛錬対象って……」
グレンの表情が変わった。
わずかに、だが確かに。
「面白い」
そう呟いた。
「ナノ。黒錬鉱に力を流せ」
「力って、どうやって」
「知らん」
「えっ」
「俺はお前のスキル持ちじゃない。感覚はお前が掴め」
「そんな無茶な……」
「強くなりたいんだろう」
ナノは言葉を詰まらせた。
強くなりたい。
言ったのは自分だ。
ナノは黒錬鉱を両手で握った。
掌の紋様に意識を向ける。
白剛石を吸収した時の冷たい熱。
水鉱魔石を取り込んだ時の痛み。
あれを思い出す。
石の中に、何かがある。
外側は黒く、硬い。
でも、その奥に、細い筋のようなものが走っている気がした。
ナノは息を吸った。
胸の奥が熱くなる。
掌の紋様が光る。
黒錬鉱の表面に、白いひびが走った。
「っ……!」
ナノの腕に激痛が走る。
筋肉が千切れそうになる。
それでも、手を離さなかった。
頭の奥で、文字が流れる。
――鍛錬開始。
――負荷判定、過剰。
――白剛石補正、微弱発動。
――肉体強化系統、初期技能生成。
黒錬鉱に、さらにひびが入る。
グレンが目を見開いた。
ミラも息を呑む。
ナノは叫んだ。
「あああああっ!」
黒錬鉱が砕けた。
破片が床に散る。
同時に、ナノの掌の紋様が強く光った。
頭の奥に、はっきりと文字が浮かぶ。
――初期技能を獲得しました。
――【百錬成鋼】
ナノは床に膝をついた。
息が荒い。
腕は震え、指先には血が滲んでいた。
だが、黒錬鉱は確かに割れている。
「百錬……成鋼……」
ナノはその名を呟いた。
その言葉は、ただの技名ではなかった。
何度も打たれ、何度も焼かれ、何度も折れかけた先で、ようやく鋼になる。
そんな意味が、胸の奥に響いた。
グレンは砕けた黒錬鉱を見下ろし、低く笑った。
「いい名だ」
ナノは顔を上げる。
グレンの目は、初めて少しだけ楽しそうだった。
「小僧。お前は無能じゃない」
ナノの胸が熱くなる。
グレンは続けた。
「ただし、今はまだ原石にもなっていない。泥の中から拾ったばかりの、形も分からん石ころだ」
「……はい」
「だが、叩けば響く」
グレンはナノの前にしゃがみ込んだ。
「俺が鍛えてやる」
ナノは息を止めた。
「え……?」
「聞こえなかったか」
「い、いや、聞こえました。でも、どうして……」
グレンは胸元のダイヤモンドの種族石に触れた。
その石が、鍛冶炉の赤い光を受けて静かに輝く。
「白剛石に適合した人族など、放っておけるか。それに」
彼はナノを見た。
「命をかけて逃がされた子を、ただ死なせるほど、ドワーフは薄情じゃない」
ナノの目に、また涙が浮かんだ。
今度の涙は、谷底で流したものとは少し違った。
「お、お願いします……俺を、鍛えてください」
声は震えていた。
でも、確かに前を向いていた。
グレンは頷いた。
「いいだろう」
ミラが呆れたように笑う。
「その前に、治療よ。今の状態で鍛えたら、本当に死ぬわ」
「む……それもそうか」
「それもそうか、じゃないわよ。あなた、すぐ人を鉄みたいに扱うんだから」
ナノは思わず小さく笑った。
笑った自分に驚いた。
父と母を失ってから、初めて出た笑いだった。
すぐに胸が痛くなった。
笑っていいのかと思った。
けれど、父ならきっと言う。
飯を食って、寝て、明日を迎えろ。
母ならきっと言う。
あなたが生きている限り、私たちは終わらない。
ナノは掌の紋様を見つめた。
白い菱形の中に、黒い細い線が増えていた。
百錬成鋼。
何度も打たれ、何度も折れかけ、それでも鋼へ至る力。
それは、今のナノそのものだった。
谷底で死にかけた少年は、まだ何者でもない。
だが、初めて自分の中に眠る石の音を聞いた。
かん。
かん。
かん。
部屋の外では、ドワーフたちの鍛冶音が続いている。
その音は、まるでナノの心臓の鼓動と重なるようだった。
神託塔で笑われた【石】は、谷底で目覚めた。
そして今、鍛冶炉の炎の前で、最初の形を得ようとしていた。
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