第4話 ダイヤモンドの覚醒
水鉱ガキの牙が、ナノの喉元へ迫った。
青黒い皮膚は水を吸ってぬめり、口の端からは生臭い唾液が糸を引いている。濁った黄色の目には、獲物を見つけた魔物特有の飢えが宿っていた。
ナノは腰が抜けたまま、足元の黒い石を振り上げた。
武器と呼べるものではない。
角もない。
磨かれてもいない。
道端に転がっていれば、誰にも見向きされない石。
だが、ナノの掌に浮かんだ菱形の紋様が、淡く光った。
石が重くなる。
ただの重さではなかった。
手の中の小さな石に、地面そのものの硬さが宿ったような感覚。ナノの腕は細く、力もないはずなのに、振り下ろす瞬間だけ、石がナノの動きに合わせて沈み込むように加速した。
「う、うわああああっ!」
叫び声とともに、石が水鉱ガキの頭に叩きつけられた。
鈍い音。
骨ではない。
鉱石が割れるような、乾いた硬い音だった。
水鉱ガキの体が横へ弾け飛ぶ。
岩場に叩きつけられた魔物は、短い悲鳴を上げて転がった。背中の青黒い鉱石棘が砕け、破片が地面に散る。
ナノは自分の手を見た。
今のは、自分の力なのか。
信じられなかった。
神託では筋力Fだった。
石工場の手伝いをしていたとはいえ、父のように石槌を振るえる腕ではない。魔物を吹き飛ばす力など、自分にあるはずがなかった。
「な、なんだよ……今の……」
声が震えた。
だが、考える時間はなかった。
水鉱ガキが起き上がる。
頭の片側が割れ、黒い血のような液体が流れていた。それでも死んでいない。むしろ、怒りで目の色が濃くなっている。
魔物は低く唸った。
地底湖の水面が、その声に震える。
ナノは後ずさった。
背後は岩壁。
逃げ場はない。
「こ、来るな……来るなって……!」
言葉は情けないほど弱かった。
けれど、魔物に通じるはずもない。
水鉱ガキが再び跳んだ。
今度は真正面ではない。
低く、地を這うように、ナノの足を狙ってきた。
ナノはとっさに石を構えた。
だが、遅い。
水鉱ガキの牙が、ナノの左足に食い込んだ。
「っ、ああああっ!」
痛みが走る。
肉を噛み裂かれる感覚に、視界が白く弾けた。ナノは反射的に魔物の頭を殴った。1回、2回、3回。
石を叩きつけるたび、掌の紋様が熱を持つ。
水鉱ガキの牙がようやく離れた。
ナノは転がるように距離を取った。
左足から血が流れている。
痛い。
怖い。
立てない。
魔物はまだ死んでいない。
ナノは荒い息を吐きながら、石を握りしめた。
「嫌だ……」
声が漏れた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……俺、まだ……」
まだ死にたくない。
その言葉が喉まで出かかった瞬間、父の声が頭の中で響いた。
生きろ。
母の声も聞こえた。
あなたが生きている限り、私たちは終わらない。
ナノは唇を噛んだ。
血の味がした。
「……そうだ」
震える声で呟く。
「俺が死んだら、本当に終わる」
父も母も、自分を逃がすために残った。
あの2人が命をかけて押し出した未来を、ここで魔物に食われて終わらせるのか。
そんなのは嫌だ。
怖い。
痛い。
逃げたい。
でも、死ねない。
ナノは足元の石をさらに掴んだ。
1つでは足りない。
周囲には、黒い石、青白い鉱石片、砕けた水鉱ガキの棘が散らばっている。
掌の紋様が熱くなる。
頭の奥に、また文字が浮かんだ。
――鉱物接触。
――低純度水鉱片を確認。
――吸収不可。
――武装補助として使用可能。
「武装……補助?」
ナノは意味を理解できなかった。
だが、体は勝手に動いた。
右手に黒い石。
左手に青黒い鉱石棘。
水鉱ガキが唸る。
ナノは痛む足を引きずりながら、なんとか立ち上がった。
膝が震えている。
息も乱れている。
顔は涙と水と血でぐしゃぐしゃだった。
それでも、立った。
「こいよ……」
声は小さかった。
水鉱ガキが首を傾ける。
ナノは歯を食いしばった。
「こ、来いよ! 俺は、まだ死ねないんだ!」
魔物が跳ぶ。
ナノは左手の鉱石棘を投げた。
狙いはめちゃくちゃだった。
だが、鉱石棘は空中でわずかに軌道を変えた。
掌の紋様が光った瞬間、棘が水鉱ガキの片目へ吸い込まれるように突き刺さった。
魔物が悲鳴を上げる。
ナノは叫びながら踏み込んだ。
左足に激痛が走る。
それでも止まらない。
右手の黒い石を、魔物の頭へ叩き込む。
1回。
2回。
3回。
「死ね……死ねよ! 俺を、俺を食うな!」
声はもう、恐怖と怒りでぐちゃぐちゃだった。
水鉱ガキが暴れる。
爪がナノの腕を裂く。
肩に牙がかすめる。
それでも、ナノは石を振り下ろした。
4回目。
石が砕けた。
同時に、水鉱ガキの頭部に埋まっていた青黒い魔石が割れた。
魔物の体がびくりと震える。
そして、動かなくなった。
静寂が戻る。
水音だけが聞こえる。
ナノはその場に膝をついた。
「はっ……はっ……はぁっ……」
息が荒い。
腕が震えている。
石を握っていた手の皮が裂け、血が流れている。肩も足も痛い。だが、生きている。
初めて、魔物を倒した。
倒してしまった。
ナノは動かなくなった水鉱ガキを見た。
胃の奥がひっくり返りそうになる。
怖かった。
気持ち悪かった。
けれど、その死骸から目を逸らせなかった。
「俺が……やったのか……」
呟いた瞬間、水鉱ガキの胸元が淡く光った。
割れた魔石の奥に、小さな青黒い欠片が残っている。
ナノの掌の紋様が反応した。
――低級水鉱魔石を確認。
――吸収しますか。
ナノは顔を歪めた。
「また……かよ」
さっきの痛みを思い出す。
骨の中を削られるような感覚。
体が作り替えられるような恐怖。
もう一度あれを味わうのかと思うと、喉が詰まった。
だが、足の傷が痛む。
肩の傷から血が流れている。
ここが安全な場所ではないことは、もう分かっていた。
次の魔物が来たら。
今のままでは、きっと死ぬ。
ナノは震える手を伸ばした。
「やる……やるよ。どうせ、ここで死ぬくらいなら……」
魔石に触れる。
冷たい。
だが、今度は少しだけ覚悟していた。
魔石が砕け、青黒い光がナノの掌に吸い込まれる。
「ぐっ……ああっ……!」
痛みが走った。
白剛石の時ほどではない。
だが、傷口に冷たい水を流し込まれるような痛みだった。足の噛み傷が熱を持ち、皮膚の下で何かが蠢く。
ナノは岩場に手をつき、必死に耐えた。
頭の奥に文字が流れる。
――低級水鉱魔石を吸収。
――耐久値、微上昇。
――水辺適応、微弱補正。
――傷口凝固、開始。
足の血が少しずつ止まっていく。
完全に治るわけではない。
だが、出血は抑えられていた。
ナノは荒い息を吐いた。
「はっ……はぁ……本当に、治ってる……?」
信じられなかった。
けれど、目の前で起きている。
無能スキル【石】は、石や魔石に反応する。
吸収することで、体が変わる。
それがどれほど大きな力なのか、ナノにはまだ分からない。
ただ、ひとつだけ分かった。
自分は、ここで生き延びるために、石を喰らわなければならない。
*
地底湖の奥には、細い洞窟が続いていた。
ナノは水鉱ガキの死骸から離れ、足を引きずりながら洞窟の方へ進んだ。湖のそばにいるのは危険だ。血の匂いで、また別の魔物が来るかもしれない。
洞窟の壁には、青白い鉱石が脈のように走っていた。
細い光の筋が岩肌を照らし、足元に淡い影を落としている。天井からは水滴が落ち、ぴちゃん、ぴちゃんと静かな音を立てていた。
空気は冷たく、湿っている。
息を吸うと、肺の奥まで石の匂いが入り込むようだった。
ナノは壁に手をつきながら歩いた。
掌の紋様は、鉱石に触れるたびにかすかに熱を持つ。
だが、さっきのような吸収は起きない。
純度が低いのか。
適合していないのか。
理由は分からない。
神託塔では誰も教えてくれなかった。
【石】が何なのか。
どう使うのか。
そもそも使えるものなのか。
笑われただけだった。
ナノは歯を食いしばった。
「くそ……」
小さく呟く。
「なんで、誰も知らないんだよ。なんで、誰も……」
その言葉は、途中で消えた。
誰も知らないのではない。
誰も知ろうとしなかった。
神託で低い数値が出た者。
理解できないスキルを持つ者。
役に立たないと決めつけられた者。
そういう人間は、調べられる前に捨てられる。
ナノは、自分が捨てられたのだと改めて理解した。
胸の奥に怒りが生まれた。
熱く、黒い怒りだった。
神官。
笑っていた少年たち。
王都。
神託。
そして、自分の無力さ。
「俺は……」
ナノは壁に手をついた。
冷たい岩が、掌に触れる。
「俺は、もう捨てられたままじゃ終われない」
その瞬間、洞窟の奥から低い音が聞こえた。
金属を叩く音。
かん。
かん。
かん。
一定の間隔で響いている。
魔物の足音ではない。
水音でもない。
誰かが、何かを打っている音。
ナノは息を止めた。
「人……?」
谷底に、人がいるのか。
ナノは警戒しながら進んだ。
洞窟の奥へ進むほど、空気が少し暖かくなっていく。石の匂いに混じって、火と鉄の匂いがした。
さらに進むと、洞窟が開けた。
そこには、地下とは思えない広い空間があった。
岩壁に囲まれた地底の街。
巨大な鍛冶炉。
赤く燃える火。
壁一面に掘られた住居。
吊り橋のように岩と岩をつなぐ鉄の道。
そして、短い体に分厚い腕を持つ者たち。
ドワーフ。
ナノは思わず足を止めた。
王都の本でしか見たことがない種族が、目の前にいた。
その胸元や腕には、小さな宝石のようなものが埋まっている。赤、黒、透明、黄色。人によって色も形も違う。
種族石。
父が昔、少しだけ話してくれたことがある。
ドワーフは体内に石を宿す種族だと。
強い職人ほど、その石は硬く澄み、戦士になれば黒く輝くこともあると。
ナノは呆然とした。
その時、背後から低い声がした。
「おい、小僧」
ナノの肩が跳ねた。
振り返ると、1人のドワーフが立っていた。
背はナノより低い。
だが、体の厚みがまるで違う。太い首、丸太のような腕、煤で汚れた革の前掛け。髭には小さな金属輪が編み込まれ、額には古い傷跡が走っていた。
胸元には、濁りのない透明な石が埋まっている。
ダイヤモンドに似ていた。
いや、さっきナノが吸収した白剛石より、ずっと重く、深く、強い輝きだった。
ドワーフはナノの全身を見た。
濡れた服。
血だらけの足。
傷だらけの腕。
そして、掌に浮かんだ菱形の紋様。
ドワーフの目が鋭くなる。
「……お前、その紋様をどこで得た」
ナノは喉を鳴らした。
「え……あ、あの……俺にも、よく分からなくて」
「よく分からない?」
ドワーフは一歩近づいた。
声が低くなる。
「小僧。嘘をつくなら、もっとましな顔でつけ。今のお前は、嘘をつく余裕すらない顔だ」
「う、嘘じゃないです。本当に……谷から落ちて、湖で石を掴んだら、急に……」
「湖で石を掴んだ?」
ドワーフの表情が変わった。
驚きと警戒が混じった顔だった。
「まさか、白剛石の欠片か」
「し、白剛石……?」
「お前、吸ったのか」
「吸った、というか……勝手に、体に入ってきて……」
ドワーフはしばらく黙っていた。
その沈黙が怖かった。
ナノは立っているだけで精一杯だった。足の傷はまた痛み始めている。体の疲労も限界に近い。
「あの……ここは……」
ナノが聞こうとした瞬間、膝が崩れた。
視界が揺れる。
地面が近づく。
「おっと」
ドワーフがナノの体を支えた。
その腕は硬かった。
岩に抱えられているようだった。
「まったく。死にかけのくせに、よくここまで歩いたもんだ」
「す、すみません……」
「謝るな。謝る体力があるなら、息をしろ」
「はっ、はい……」
ナノの意識が遠のいていく。
ドワーフの声が、遠くなる。
「おい、誰か治療師を呼べ。こいつ、白剛石を吸ってる」
周囲がざわめいた。
「白剛石?」
「人族が?」
「まさか、適合したのか?」
ナノはその声を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。
最後に見えたのは、赤く燃える鍛冶炉の光だった。
その光は、神託塔の冷たい光とは違った。
荒々しく、熱く、汚れていて。
それでも、確かに生きている者たちの光だった。
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