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無能スキル【石】と追放された俺~宝石の力で成り上がる~  作者: 海老沢大地
第1章 無能スキル【石】と谷底のダイヤモンド

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第3話 谷底の地底湖


 落ちている。


 ナノは、自分の体が夜の底へ引きずり込まれていく感覚だけを、ぼんやりと理解していた。


 耳元で風が悲鳴を上げている。冷たい空気が頬を切り、服の裾を乱暴に引き裂くように暴れた。視界は回転していた。黒い崖壁、霧の白、遠ざかる夜空、そして一瞬だけ見えた父と母の影。


 父の声がした。


 ナノ。


 母の声もした。


 生きて。


 その声は、風に千切られながらも、ナノの胸の奥に深く刺さった。


「父さん……母さん……!」


 叫んだはずだった。


 けれど、自分の声が本当に出ていたのか分からない。喉は焼けるように痛み、肺の中の空気はすべて奪われていた。涙が出ているのか、風で目が濡れているのかも分からなかった。


 崖の上は、もう見えない。


 ナノの下には、濃い霧の層が広がっていた。


 その霧は、谷底から湧き上がる白い息のようだった。夜の闇に沈む谷の奥で、何かが静かに待っている。そんな気配がした。


 体が霧を突き破る。


 次の瞬間、視界が白に染まった。


 何も見えない。


 上下の感覚すらなくなる。


 ナノは必死に手を伸ばした。何かを掴もうとした。岩でも、枝でも、父の手でも、母の服の裾でもよかった。


 だが、指先に触れるものは何もない。


「っ、あ……!」


 息が詰まった。


 霧の向こうで、かすかな水音が聞こえた。


 谷底に水がある。


 そう気づいた時には、もう遅かった。


 ナノの体は、暗い水面へ叩きつけられた。


 衝撃。


 全身の骨が砕けたかと思った。


 冷たい水が口と鼻から一気に入り込み、肺の中まで凍らせる。視界が泡で埋まり、耳の奥で鈍い轟音が響いた。


 痛い。


 寒い。


 苦しい。


 沈んでいる。


 ナノは水の中で手足を動かそうとした。だが、体は思うように動かなかった。落下の衝撃で腕も脚も痺れている。胸が焼けるように苦しい。上がどちらかも分からない。


 暗い水の中で、ナノの意識が遠ざかっていく。


 父の顔が浮かんだ。


 傷だらけの手で、ナノの肩を叩いた父。


 生きろ、と叫んだ父。


 母の顔が浮かんだ。


 泣きながら笑って、あなたが生きている限り私たちは終わらない、と言った母。


 終わらない。


 その言葉が、沈んでいく意識の中で、小さな火のように残った。


 終われない。


 ナノは、水の中で歯を食いしばった。


 肺が悲鳴を上げる。手足は重い。体は冷たい水に絡め取られ、底へ底へと引きずられていく。


 それでも、ナノは手を伸ばした。


 上かどうかも分からない方向へ。


 指先が、何かに触れた。


 岩ではない。


 水草でもない。


 硬く、冷たいもの。


 ナノは無我夢中でそれを掴んだ。


 次の瞬間、指先に鋭い痛みが走った。


 何かの角で皮膚が切れたのだろう。血が水の中へ薄く広がる。その血が触れた瞬間、ナノの手の中の硬いものが、ほんのわずかに光った。


 青白い光だった。


 深い水の底で、星の欠片が目を覚ましたような光。


 ナノは目を見開いた。


 掴んでいるのは、透明な石だった。


 いや、石というにはあまりにも澄んでいる。


 水の闇の中でも、その内部だけが凍った光を閉じ込めている。傷だらけのナノの手の中で、宝石は脈打つように淡く輝いた。


 その瞬間、頭の奥で音がした。


 誰かの声ではない。


 鐘の音でもない。


 神託塔で聞いた冷たい響きとも違う。


 もっと深く、もっと古い、石の奥から響くような音だった。


 ――適合確認。


 ナノの意識に、文字のようなものが浮かんだ。


 ――鉱物系統、白剛石。


 ――基礎適合率、0.7%。


 ――固有スキル【石】、初期覚醒条件を満たしました。


 何だ。


 何が起きている。


 声を出そうとしたが、水が口の中へ流れ込んだ。


 ナノの胸が限界を迎える。


 その時、手の中の宝石がさらに強く光った。


 体の奥に、冷たい熱が流れ込んできた。


 矛盾した感覚だった。


 氷のように冷たいのに、血管の内側を焼くように熱い。指先から腕へ、腕から胸へ、胸から全身へ、何かが流れ込んでくる。


 折れかけていた意識が、無理やり引き戻された。


 手足に力が戻る。


 重かった体が、ほんの少しだけ軽くなる。


 ナノは水を蹴った。


 必死だった。


 上へ。


 たぶん上だと思う方へ。


 泡が頬を撫でる。肺はもう限界だった。喉が焼ける。頭の中が白くなる。


 それでも、ナノは宝石を握りしめたまま泳いだ。


 暗い水面が近づく。


 そして――。


「がはっ!」


 ナノは水面を破った。


 空気が肺に流れ込む。


 同時に、水を吐いた。


 何度も咳き込み、喉の奥に入った水を吐き出す。体は震えていた。寒さと恐怖と、まだ終わっていない痛みで、歯が勝手に鳴る。


「はっ……はっ……はぁっ……!」


 息をするだけで胸が痛い。


 ナノは水面に浮かびながら、必死に周囲を見回した。


 そこは、谷底の地底湖だった。


 上は見えない。


 高い崖に囲まれ、夜空は細く裂けた布のように遠くにある。谷底には白い霧が薄く漂い、湖面の上を静かに流れていた。


 だが、完全な闇ではなかった。


 地底湖の周囲には、青白く光る鉱石が点々と埋まっていた。岩壁の隙間、湖の底、天井から垂れる鍾乳石。そのひとつひとつが、弱い光を放っている。


 まるで、地下に沈んだ星空だった。


 ナノはなんとか湖岸へ泳いだ。


 指先が岩に触れる。


 苔でぬめっていたが、必死に掴んだ。腕に力を込め、体を引き上げる。


 岩場へ転がるように上がった瞬間、全身から力が抜けた。


「うっ……げほっ、げほっ……」


 ナノは横向きになり、口の中の水を吐いた。


 体中が痛い。


 肩も、膝も、背中も、落下の衝撃で悲鳴を上げている。服は裂け、腕には細かな傷がいくつも走っていた。額から流れた血が、片目の端に入り込んでいる。


 それでも、生きていた。


 生きてしまった。


 その事実が、胸に重くのしかかった。


「父さん……母さん……」


 名前を呼んだ瞬間、涙が出た。


 止まらなかった。


 ナノは岩の上で体を丸めた。寒さで震えているのか、泣いているせいで震えているのか分からない。


「ごめん……ごめん、俺……俺だけ……」


 声が岩壁に吸い込まれる。


 返事はない。


 父の石槌の音も、母の声も、もう聞こえない。


 地底湖の水音だけが、静かに続いていた。


 ナノは握ったままの手に気づいた。


 ゆっくりと指を開く。


 そこには、透明な宝石があった。


 水に濡れているはずなのに、表面には一滴の水も残っていない。内部には青白い光が宿り、ナノの血が触れた部分だけが淡く赤く輝いている。


「なんだよ……これ」


 ナノの声は掠れていた。


 宝石は答えない。


 だが、再び頭の奥に文字が浮かんだ。


 ――白剛石の欠片を確認。


 ――吸収しますか。


 吸収。


 その言葉の意味が分からなかった。


 ナノは首を振った。


「い、いや……待って。何だよ、これ。俺、何を……」


 言い終わる前に、宝石が光った。


 ナノの掌に熱が走る。


「っ、あああああっ!」


 焼けるような痛みだった。


 掌から腕へ、腕から胸へ、骨の内側を何かが削りながら流れていく。ナノは地面に手を叩きつけ、歯を食いしばった。


 だが、痛みは止まらない。


 骨が軋む。


 筋肉が引き裂かれ、すぐに縫い直されるような感覚。心臓が乱暴に脈打ち、血管の中を小さな石の粒が流れているようだった。


「や、やめ……やめろ……!」


 涙と涎が混じる。


 息ができない。


 体が勝手にのけぞる。


 頭の奥で、また文字が浮かんだ。


 ――吸収開始。


 ――白剛石、適合率上昇。


 ――耐久値、微上昇。


 ――筋力値、微上昇。


 ――骨格強度、補正開始。


 ナノは地面を掻いた。


 爪の間に黒い土が入り込む。痛みで視界が滲み、地底湖の青い光が何重にも揺れて見えた。


 やがて、掌の中の宝石が砕けた。


 透明な破片が光になり、ナノの皮膚へ吸い込まれていく。


 痛みが少しずつ引いていった。


 ナノは荒い息を吐きながら、岩場に倒れ込んだ。


「はっ……はっ……な、何が……」


 腕を見る。


 傷が消えているわけではない。


 だが、さっきより痛みが薄い。落下で痺れていた右足にも、少しずつ感覚が戻っている。


 掌には、宝石があった場所に小さな紋様が浮かんでいた。


 透明な菱形の印。


 まるで、皮膚の下に小さな宝石が埋まったようだった。


 ナノは震える声で呟いた。


「これが……【石】?」


 神託塔で笑われたスキル。


 役立たずと決めつけられた力。


 ただの石だと嘲笑されたもの。


 その力が、谷底で初めてナノの体に反応した。


 だが、喜びはなかった。


 胸にあるのは、喪失と恐怖だけだった。


 もし、この力が本物なら。


 なぜ、もっと早く目覚めなかった。


 なぜ、父と母を守る時に出てこなかった。


「今さら……」


 ナノは歯を食いしばった。


「今さら目覚めて、何になるんだよ……」


 声が震えた。


 岩場に涙が落ちる。


 その時、地底湖の奥で水音がした。


 ぴちゃん。


 小さな音だった。


 だが、ナノは反射的に顔を上げた。


 湖の向こう。


 青白い鉱石の光が届かない暗がりで、何かが動いた。


 低い唸り声。


 水面が静かに揺れる。


 ナノの体が強張った。


 地底湖は、命を拾った場所ではなかった。


 ここにも、魔物がいる。


 暗闇の中から、濡れた石のような体を持つ小さな魔物が這い出してきた。


 鉱石ガキよりも細い。


 だが、口元には鋭い歯が並び、背中には青黒い鉱石の棘が生えている。


 水鉱ガキ。


 地底の水辺に潜む、低級魔物。


 ナノは岩場に座り込んだまま、息を呑んだ。


「う、嘘だろ……」


 水鉱ガキは、ナノの血の匂いを嗅ぎつけたのか、ゆっくり近づいてくる。


 逃げなければ。


 だが、体がまだうまく動かない。


 ナノは震える手で、足元の石を掴んだ。


 ただの黒い石。


 何の変哲もない、冷たい石だった。


 それなのに、掌の紋様がかすかに熱を持った。


 ナノは息を止めた。


 石が、ほんのわずかに重くなる。


 いや、違う。


 ナノの中の何かが、その石を認識している。


 ただの石ではなく、武器として。


 水鉱ガキが跳んだ。


 ナノは叫びながら石を振り上げた。


「く、来るなあああっ!」


 石が、青白く光った。


 その瞬間、谷底の静寂が割れた。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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