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無能スキル【石】と追放された俺~宝石の力で成り上がる~  作者: 海老沢大地
第1章 無能スキル【石】と谷底のダイヤモンド

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第2話 貧民街の夜


 貧民街は、王都の影に押し込められた場所だった。


 王城区から見れば、そこは地図の端に薄く塗られた灰色の区画にすぎない。けれど実際に足を踏み入れると、そこには人の暮らしがあった。


 歪んだ木の家。

 継ぎ足された土壁。

 雨が降れば泥になる細い道。

 乾いた魚の匂い。

 古い煙突から漏れる黒い煙。

 泣き声を我慢する子ども。

 空腹を紛らわせるために、何度も水を飲む老人。


 王都の中心では、神託の光が白く輝いている。


 だが貧民街には、その光は届かない。


 昼間でさえ空は狭く、建物の隙間から見える雲はいつも薄汚れて見えた。夜になると、灯りはほとんどない。窓から漏れる小さな火だけが、泥道にぼんやりと揺れていた。


 ナノたちが貧民街へ移されたのは、神託から3日後のことだった。


 平民街の家は取り上げられた。


 父が使っていた石工場も、道具の多くも、王都管理局の兵士によって封印された。神託により階層不適合となった者に、平民街での営業権は認められない。そう告げられた時、父は拳を握ったまま何も言わなかった。


 母は、工場の隅に残っていた小さな磨き石だけを布に包んだ。


 それが、家から持ち出せた数少ないものだった。


 貧民街の家は、家と呼ぶにはあまりにも頼りなかった。


 壁は薄い木板を何枚も打ちつけただけで、隙間から冷たい風が入ってくる。屋根には穴があり、父が拾ってきた板と古い布でふさいだ。床は土のままだ。雨の日には湿気が上がり、寝ているだけで背中が冷えた。


 それでも母は、初めてその家に入った時、ナノに笑ってみせた。


「ほら、意外と広いわね」


 声は明るかった。


 けれど、母の手は小さく震えていた。


 ナノはその震えに気づいていた。


 気づいていたのに、何も言えなかった。


「う、うん……そうだね」


 返事をするだけで精一杯だった。


 父は入口の壊れかけた扉を見て、苦笑した。


「まずは扉だな。これじゃ、風どころか猫でも入ってくる」


「猫ならまだいいわ。ネズミは嫌よ」


「ネズミか。なら、扉の下もふさがないとな」


 父と母は、いつものように話そうとしていた。


 何でもないことのように。

 ここでも暮らせると言い聞かせるように。


 その優しさが、ナノにはつらかった。


 夜になると、貧民街の音が家の中まで入ってくる。


 遠くの怒鳴り声。

 酔った男の笑い声。

 どこかの家で咳き込む音。

 赤子の泣き声。

 野良犬がゴミを漁る音。


 平民街では聞こえなかった音ばかりだった。


 ナノは薄い毛布にくるまりながら、天井の穴を見ていた。


 布でふさいだはずの隙間から、夜の冷気が少しずつ落ちてくる。眠ろうとしても、神託塔で聞いた笑い声が耳から離れなかった。


 無能スキル【石】。


 その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


 石。


 何の役にも立たない、ただの石。


 ナノは手のひらを見つめた。


 神託盤に触れた時の冷たさが、まだ残っている気がした。


「眠れないのか」


 父の声がした。


 暗がりの中、父は壁際に座っていた。寝ていると思っていたが、起きていたらしい。小さな灯りの向こうで、父の横顔が影になっている。


「ご、ごめん。起こした?」


「起きてた」


「父さんも?」


「ああ」


 父は短く答えた。


 それから少し間を置いて、ナノの隣に腰を下ろした。


 床の土が、わずかに軋む。


「ナノ」


「うん」


「神託のこと、まだ考えてるか」


 ナノは答えられなかった。


 父は急かさなかった。


 ただ、黙って待っていた。


 その沈黙が、ナノの胸を苦しくした。


「……俺のせいだよ」


 声が震えた。


「俺が、あんな結果だったから。父さんの工場も、母さんの仕事も、全部なくなった」


「違う」


 父の声は低かった。


 だが強かった。


「でも、実際そうじゃん。俺が【石】なんて変なスキルで、レベルも1で、全部Fで……俺が普通だったら、こんなところに来なくてよかった」


「ナノ」


 父はナノの肩を掴んだ。


 暗がりの中でも分かるほど、父の目は真剣だった。


「お前が自分を責めるなら、俺は何度でも否定する」


「でも」


「でもじゃない」


 父の声が少し荒くなった。


 すぐに、父は息を吐いた。


 怒鳴りたいのを押し殺したような息だった。


「悪い。怒ってるんじゃない。ただ……お前が自分を悪者にするのは、聞いてられない」


「父さん……」


「俺たちは家族だ。誰か1人の結果で壊れるほど、薄いものじゃない」


 父はナノの手を取った。


 石を削り続けてきた手だった。


 硬く、ひび割れていて、温かい。


「お前のスキルが【石】なら、それでいい」


「よくないよ……」


「いいんだ」


「何に使えるかも分からないんだよ? 神官だって笑ってた。みんな笑ってた。石なんて、投げるくらいしか」


「石はな」


 父はナノの手を包み込むように握った。


「地面に転がっている時は、誰にも見えない。踏まれて、蹴られて、泥をかぶる。でもな、割ってみなきゃ中身は分からない」


 ナノは父を見た。


「中身……?」


「ああ。外側はただの黒い石でも、中に宝石が眠っていることがある。磨かなきゃ光らない石もある。火にくべて、叩いて、削って、ようやく価値が分かる石もある」


 父は少し笑った。


「だから、お前もまだ分からないだけだ」


「俺に、宝石みたいな中身があるって?」


「ある」


 父は迷わず言った。


 ナノは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 嬉しいのに、痛い。


 信じたいのに、信じるのが怖い。


「もし、なかったら?」


 ナノが聞くと、父は少し眉を寄せた。


「なかったら、俺と母さんで磨く」


「え……?」


「それでも光らなかったら、別の使い道を探す。壁の土台でもいい。誰かの道標でもいい。石には石の役目がある」


 ナノは何も言えなかった。


 涙が出そうだった。


 けれど、泣きたくなかった。


 今泣けば、父にさらに心配をかける。


「はっ、はい……俺、頑張る」


 声が詰まった。


 父はナノの頭を乱暴に撫でた。


「無理に頑張らなくていい。まずは飯を食って、寝て、明日を迎えろ」


「それ、簡単そうで難しいよ」


「だろうな」


 父は苦笑した。


「俺も難しい」


 その時、母が寝床の方から声を出した。


「2人とも、難しい話は明日にして。寒いんだから、早く寝なさい」


 寝ていると思っていた母の声だった。


 ナノと父は顔を見合わせた。


「母さん、起きてたの?」


「母親はね、息子が泣きそうな声を出していたら起きるものよ」


「な、泣いてない」


「はいはい。泣いてない泣いてない」


 母の声は優しかった。


 でも、その声の奥にも涙が混じっていた。


 ナノは毛布を引き寄せた。


 その夜、すぐには眠れなかった。


 けれど、父の言葉が胸に残っていた。


 割ってみなきゃ中身は分からない。


 泥をかぶった石の中に、宝石が眠っていることもある。


 ナノは自分の手を握りしめた。


 まだ何も光っていない。


 けれど、ほんの少しだけ、明日を迎える理由ができた気がした。


     *


 貧民街での暮らしは、穏やかではなかった。


 朝は、薄暗い霧と腐った水路の匂いで始まる。


 王都の外壁に近いこの場所には、日差しが遅れて届く。高い壁と密集した家々が光を遮り、朝になっても路地は夜の残り香を抱えていた。


 ナノは父と一緒に、壊れた建物の修理や石運びの仕事を探した。


 だが、仕事は少ない。


 貧民街の者に払われる賃金は安く、食べるだけで消える。時には、半日働いても固い黒パン1つ分にしかならないこともあった。


 母は近所の女たちと一緒に、古い布を縫い直す仕事をした。


 針を持つ指は、以前よりさらに荒れていった。


 それでも3人は、なんとか暮らしていた。


 笑う日もあった。


 薄い麦粥に小さな芋が入っていただけで、父が大げさに喜び、母が呆れ、ナノが笑った。隙間風をふさぐ板を父が斜めに打ちつけ、母が「芸術的に曲がってるわね」と言い、父が「これは風の流れを読む設計だ」と胸を張った。


 貧しくても、まだ家族だった。


 まだ、終わってはいなかった。


 だが、貧民街には城壁がない。


 正確には、ある。


 王都を守る巨大な外壁がある。


 しかし、貧民街の外側だけは違った。古い防壁は崩れ、補修されないまま放置されている。平民街や貴族街を守る兵士たちは、貧民街の端まで巡回に来ない。


 魔物が出た時、最初に襲われるのは貧民街。


 最後に助けが来るのも、貧民街。


 それが、この場所の常識だった。


 その夜も、空気はおかしかった。


 夕方から霧が濃かった。


 雨は降っていないのに、地面がじっとりと濡れている。路地の奥には白い霧が溜まり、家々の輪郭がぼやけて見えた。犬が吠えていた。いつもなら残飯を漁っている野良犬たちが、路地の奥へ向かって低く唸っている。


 ナノは薪代わりに拾った木片を抱えて家へ戻る途中だった。


 遠くで、鐘が鳴った。


 1回。


 そして、続けて2回。


 低く、割れた音。


 貧民街の警鐘だった。


 ナノの背筋が冷えた。


「ま、まさか……」


 霧の向こうから、誰かの叫び声が聞こえた。


「魔物だ!」


 次の瞬間、貧民街の夜が壊れた。


 人々が走り出す。


 扉が乱暴に開かれ、子どもの泣き声が響き、誰かが荷物を落とす音がした。霧の奥で、何か巨大なものが木の柵を踏み砕く音がする。


 ばきん、と乾いた音。


 続いて、低い唸り声。


 ナノは木片を落とした。


 霧の中から現れたのは、灰色の肌をした小鬼だった。


 ただのゴブリンではない。


 背中に黒い石のような突起があり、片目が濁った黄色に光っている。手には錆びた刃物を握り、口元から涎を垂らしていた。


 鉱石ガキ。


 ドワーフ領周辺で見られる、石を食う低級魔物だと父から聞いたことがある。


 だが、なぜ王都の貧民街に。


 考える暇はなかった。


 鉱石ガキが、路地にいた老人へ飛びかかった。


「や、やめろ!」


 ナノは叫んだ。


 だが足が動かない。


 老人の悲鳴。


 血の匂い。


 霧の中で、赤いものが石畳に散った。


 胃の奥がひっくり返る。


「ナノ!」


 父の声がした。


 振り返ると、父が走ってきていた。手には仕事用の石槌を握っている。母も後ろから来ていた。顔が真っ青だった。


「父さん!」


「家へ戻れ!」


「でも」


「戻れって言ってる!」


 父の怒鳴り声に、ナノは体を震わせた。


 父が本気で怒鳴ることはほとんどない。


 その声がどれほど危険な状況かを物語っていた。


 鉱石ガキがこちらを向いた。


 黄色い目が、霧の中で光る。


 父はナノの前に立った。


「ナノ、母さんを連れて逃げろ」


「む、無理だよ。父さんは?」


「俺はすぐ行く」


「嘘だ」


 ナノの声が震えた。


「父さん、今の嘘だろ」


 父は答えなかった。


 その沈黙が答えだった。


 母がナノの腕を掴む。


「ナノ、来て!」


「嫌だ! 父さんを置いてなんて」


「ナノ!」


 母の目に涙が浮かんでいた。


 それでも、母は必死にナノを引いた。


「お願い……今だけは、言うことを聞いて」


 鉱石ガキが飛びかかってきた。


 父が石槌を振る。


 鈍い音が響いた。


 魔物の頭が横に弾け、黒い血が飛び散る。


 だが、霧の奥からさらに唸り声が聞こえた。


 1匹ではない。


 何匹もいる。


 父の顔が硬くなった。


「走れ!」


 その叫び声に押され、ナノは母に引かれて走り出した。


 貧民街の路地は混乱していた。


 逃げ惑う人々。

 倒れた荷車。

 泣き叫ぶ子ども。

 霧の中で揺れる赤い火。


 遠くで家が燃えている。


 煙の匂いと血の匂いが混ざり、喉の奥にまとわりついた。ナノは何度も振り返りそうになった。だが母の手が強く引く。


「母さん、父さんが!」


「振り返らないで!」


「でも!」


「振り返ったら、あの人の覚悟が無駄になる!」


 母の声は泣いていた。


 泣きながら、それでも走っていた。


 その時、前方の路地から別の魔物が現れた。


 鉱石ガキより大きい。


 背中に鋭い黒鉱の棘を生やした、四足の魔物。


 岩牙狗。


 狼に似ているが、皮膚の一部が石のように硬化している。口からは白い蒸気のような息が漏れ、牙の根元には暗い赤の魔石が埋まっていた。


 母が立ち止まる。


「ナノ……下がって」


「母さん?」


「下がって!」


 岩牙狗が低く唸った。


 ナノの足が震える。


 母は周囲を見回し、落ちていた木の棒を拾った。


 あまりにも細い棒だった。


 魔物を止められるはずがない。


「やめて、母さん」


「ナノ、後ろへ」


「嫌だ。もう嫌だよ。父さんも、母さんも、なんで俺を置いて」


「置いていくんじゃない」


 母は振り返らずに言った。


 声が震えている。


 それでも、棒を握る手は下ろさなかった。


「あなたを、生かすの」


 岩牙狗が跳んだ。


 母が棒を振る。


 だが、魔物の体は止まらない。


 ナノは叫んだ。


「母さん!」


 その瞬間、横から父が飛び込んできた。


 血まみれだった。


 左腕から血が流れ、額も切れている。それでも父は石槌を両手で握り、岩牙狗の横腹を叩きつけた。


 鈍い音。


 魔物が横へ吹き飛ぶ。


「父さん!」


「立ち止まるな!」


 父は荒い息を吐いていた。


 肩が上下している。


 明らかに限界だった。


「この先に崖がある。古い採石場跡だ。そこまで走れ」


「崖って……逃げ場がないよ!」


「谷底に古い水脈がある。落ちれば死ぬかもしれない。だが、ここにいれば確実に死ぬ」


 ナノは言葉を失った。


 父は母を見た。


 母は泣きながら頷いた。


 2人は、もう決めていた。


 ナノだけを逃がすと。


「嫌だ」


 ナノは首を振った。


「嫌だ、嫌だ、嫌だ! 俺だけなんて嫌だ!」


 父がナノの胸ぐらを掴んだ。


「ナノ!」


 その声は、怒鳴り声だった。


 でも、父の目は泣いていた。


「生きろ」


「父さん……」


「お前のスキルが何だろうと関係ない。無能だろうが、石だろうが、笑われようが、関係ない」


 父はナノを強く抱きしめた。


 血の匂いと、石粉の匂いがした。


「生きていれば、いつか中身が分かる」


 母もナノを抱きしめた。


 冷たい手で、震えながら。


「ナノ……ごめんね。怖い思いばかりさせて」


「母さん、やめて。そんな、最後みたいな」


「最後じゃない」


 母は涙を流しながら笑った。


「あなたが生きている限り、私たちは終わらない」


 霧の奥から、魔物の群れが迫っていた。


 岩牙狗が立ち上がる。


 鉱石ガキたちも近づいてくる。


 父がナノを崖の方へ押した。


「走れ!」


「父さん!」


「走れ、ナノ!」


 ナノは走った。


 泣きながら。


 叫びながら。


 何度も振り返りそうになりながら。


 背後で父の石槌が鳴る。


 母の声が聞こえる。


 魔物の咆哮が響く。


 崖はすぐそこだった。


 霧の中に、黒い裂け目のように口を開けている。


 ナノは足を止めた。


 谷底は見えない。


 ただ、冷たい風が下から吹き上がってくる。


「無理だ……」


 ナノは震えた。


「こんなの、無理だよ……」


 その時、背後から岩牙狗が飛びかかってきた。


 父と母を抜けてきたのだ。


 ナノは振り返る。


 牙が迫る。


 黄色い目。

 黒い石の皮膚。

 血の匂い。


 ナノは腕で顔をかばった。


 衝撃。


 体が宙に浮いた。


 崖の縁が遠ざかる。


 霧に包まれた空が回転する。


 父の叫び声が聞こえた。


「ナノ!」


 母の声も聞こえた。


「生きて!」


 ナノは手を伸ばした。


 届かない。


 父も母も、霧の向こうへ消えていく。


 体が落ちる。


 風が耳を裂く。


 夜の谷が、ナノを飲み込んでいく。


「父さん……母さん……!」


 叫び声は、闇に吸い込まれた。


 そのままナノは、深い谷底へ落ちていった。


 そして彼はまだ知らなかった。


 その谷底こそが、無能スキル【石】を目覚めさせる最初の墓場であり、最初の誕生地になることを。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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