第2話 貧民街の夜
貧民街は、王都の影に押し込められた場所だった。
王城区から見れば、そこは地図の端に薄く塗られた灰色の区画にすぎない。けれど実際に足を踏み入れると、そこには人の暮らしがあった。
歪んだ木の家。
継ぎ足された土壁。
雨が降れば泥になる細い道。
乾いた魚の匂い。
古い煙突から漏れる黒い煙。
泣き声を我慢する子ども。
空腹を紛らわせるために、何度も水を飲む老人。
王都の中心では、神託の光が白く輝いている。
だが貧民街には、その光は届かない。
昼間でさえ空は狭く、建物の隙間から見える雲はいつも薄汚れて見えた。夜になると、灯りはほとんどない。窓から漏れる小さな火だけが、泥道にぼんやりと揺れていた。
ナノたちが貧民街へ移されたのは、神託から3日後のことだった。
平民街の家は取り上げられた。
父が使っていた石工場も、道具の多くも、王都管理局の兵士によって封印された。神託により階層不適合となった者に、平民街での営業権は認められない。そう告げられた時、父は拳を握ったまま何も言わなかった。
母は、工場の隅に残っていた小さな磨き石だけを布に包んだ。
それが、家から持ち出せた数少ないものだった。
貧民街の家は、家と呼ぶにはあまりにも頼りなかった。
壁は薄い木板を何枚も打ちつけただけで、隙間から冷たい風が入ってくる。屋根には穴があり、父が拾ってきた板と古い布でふさいだ。床は土のままだ。雨の日には湿気が上がり、寝ているだけで背中が冷えた。
それでも母は、初めてその家に入った時、ナノに笑ってみせた。
「ほら、意外と広いわね」
声は明るかった。
けれど、母の手は小さく震えていた。
ナノはその震えに気づいていた。
気づいていたのに、何も言えなかった。
「う、うん……そうだね」
返事をするだけで精一杯だった。
父は入口の壊れかけた扉を見て、苦笑した。
「まずは扉だな。これじゃ、風どころか猫でも入ってくる」
「猫ならまだいいわ。ネズミは嫌よ」
「ネズミか。なら、扉の下もふさがないとな」
父と母は、いつものように話そうとしていた。
何でもないことのように。
ここでも暮らせると言い聞かせるように。
その優しさが、ナノにはつらかった。
夜になると、貧民街の音が家の中まで入ってくる。
遠くの怒鳴り声。
酔った男の笑い声。
どこかの家で咳き込む音。
赤子の泣き声。
野良犬がゴミを漁る音。
平民街では聞こえなかった音ばかりだった。
ナノは薄い毛布にくるまりながら、天井の穴を見ていた。
布でふさいだはずの隙間から、夜の冷気が少しずつ落ちてくる。眠ろうとしても、神託塔で聞いた笑い声が耳から離れなかった。
無能スキル【石】。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
石。
何の役にも立たない、ただの石。
ナノは手のひらを見つめた。
神託盤に触れた時の冷たさが、まだ残っている気がした。
「眠れないのか」
父の声がした。
暗がりの中、父は壁際に座っていた。寝ていると思っていたが、起きていたらしい。小さな灯りの向こうで、父の横顔が影になっている。
「ご、ごめん。起こした?」
「起きてた」
「父さんも?」
「ああ」
父は短く答えた。
それから少し間を置いて、ナノの隣に腰を下ろした。
床の土が、わずかに軋む。
「ナノ」
「うん」
「神託のこと、まだ考えてるか」
ナノは答えられなかった。
父は急かさなかった。
ただ、黙って待っていた。
その沈黙が、ナノの胸を苦しくした。
「……俺のせいだよ」
声が震えた。
「俺が、あんな結果だったから。父さんの工場も、母さんの仕事も、全部なくなった」
「違う」
父の声は低かった。
だが強かった。
「でも、実際そうじゃん。俺が【石】なんて変なスキルで、レベルも1で、全部Fで……俺が普通だったら、こんなところに来なくてよかった」
「ナノ」
父はナノの肩を掴んだ。
暗がりの中でも分かるほど、父の目は真剣だった。
「お前が自分を責めるなら、俺は何度でも否定する」
「でも」
「でもじゃない」
父の声が少し荒くなった。
すぐに、父は息を吐いた。
怒鳴りたいのを押し殺したような息だった。
「悪い。怒ってるんじゃない。ただ……お前が自分を悪者にするのは、聞いてられない」
「父さん……」
「俺たちは家族だ。誰か1人の結果で壊れるほど、薄いものじゃない」
父はナノの手を取った。
石を削り続けてきた手だった。
硬く、ひび割れていて、温かい。
「お前のスキルが【石】なら、それでいい」
「よくないよ……」
「いいんだ」
「何に使えるかも分からないんだよ? 神官だって笑ってた。みんな笑ってた。石なんて、投げるくらいしか」
「石はな」
父はナノの手を包み込むように握った。
「地面に転がっている時は、誰にも見えない。踏まれて、蹴られて、泥をかぶる。でもな、割ってみなきゃ中身は分からない」
ナノは父を見た。
「中身……?」
「ああ。外側はただの黒い石でも、中に宝石が眠っていることがある。磨かなきゃ光らない石もある。火にくべて、叩いて、削って、ようやく価値が分かる石もある」
父は少し笑った。
「だから、お前もまだ分からないだけだ」
「俺に、宝石みたいな中身があるって?」
「ある」
父は迷わず言った。
ナノは胸の奥が熱くなるのを感じた。
嬉しいのに、痛い。
信じたいのに、信じるのが怖い。
「もし、なかったら?」
ナノが聞くと、父は少し眉を寄せた。
「なかったら、俺と母さんで磨く」
「え……?」
「それでも光らなかったら、別の使い道を探す。壁の土台でもいい。誰かの道標でもいい。石には石の役目がある」
ナノは何も言えなかった。
涙が出そうだった。
けれど、泣きたくなかった。
今泣けば、父にさらに心配をかける。
「はっ、はい……俺、頑張る」
声が詰まった。
父はナノの頭を乱暴に撫でた。
「無理に頑張らなくていい。まずは飯を食って、寝て、明日を迎えろ」
「それ、簡単そうで難しいよ」
「だろうな」
父は苦笑した。
「俺も難しい」
その時、母が寝床の方から声を出した。
「2人とも、難しい話は明日にして。寒いんだから、早く寝なさい」
寝ていると思っていた母の声だった。
ナノと父は顔を見合わせた。
「母さん、起きてたの?」
「母親はね、息子が泣きそうな声を出していたら起きるものよ」
「な、泣いてない」
「はいはい。泣いてない泣いてない」
母の声は優しかった。
でも、その声の奥にも涙が混じっていた。
ナノは毛布を引き寄せた。
その夜、すぐには眠れなかった。
けれど、父の言葉が胸に残っていた。
割ってみなきゃ中身は分からない。
泥をかぶった石の中に、宝石が眠っていることもある。
ナノは自分の手を握りしめた。
まだ何も光っていない。
けれど、ほんの少しだけ、明日を迎える理由ができた気がした。
*
貧民街での暮らしは、穏やかではなかった。
朝は、薄暗い霧と腐った水路の匂いで始まる。
王都の外壁に近いこの場所には、日差しが遅れて届く。高い壁と密集した家々が光を遮り、朝になっても路地は夜の残り香を抱えていた。
ナノは父と一緒に、壊れた建物の修理や石運びの仕事を探した。
だが、仕事は少ない。
貧民街の者に払われる賃金は安く、食べるだけで消える。時には、半日働いても固い黒パン1つ分にしかならないこともあった。
母は近所の女たちと一緒に、古い布を縫い直す仕事をした。
針を持つ指は、以前よりさらに荒れていった。
それでも3人は、なんとか暮らしていた。
笑う日もあった。
薄い麦粥に小さな芋が入っていただけで、父が大げさに喜び、母が呆れ、ナノが笑った。隙間風をふさぐ板を父が斜めに打ちつけ、母が「芸術的に曲がってるわね」と言い、父が「これは風の流れを読む設計だ」と胸を張った。
貧しくても、まだ家族だった。
まだ、終わってはいなかった。
だが、貧民街には城壁がない。
正確には、ある。
王都を守る巨大な外壁がある。
しかし、貧民街の外側だけは違った。古い防壁は崩れ、補修されないまま放置されている。平民街や貴族街を守る兵士たちは、貧民街の端まで巡回に来ない。
魔物が出た時、最初に襲われるのは貧民街。
最後に助けが来るのも、貧民街。
それが、この場所の常識だった。
その夜も、空気はおかしかった。
夕方から霧が濃かった。
雨は降っていないのに、地面がじっとりと濡れている。路地の奥には白い霧が溜まり、家々の輪郭がぼやけて見えた。犬が吠えていた。いつもなら残飯を漁っている野良犬たちが、路地の奥へ向かって低く唸っている。
ナノは薪代わりに拾った木片を抱えて家へ戻る途中だった。
遠くで、鐘が鳴った。
1回。
そして、続けて2回。
低く、割れた音。
貧民街の警鐘だった。
ナノの背筋が冷えた。
「ま、まさか……」
霧の向こうから、誰かの叫び声が聞こえた。
「魔物だ!」
次の瞬間、貧民街の夜が壊れた。
人々が走り出す。
扉が乱暴に開かれ、子どもの泣き声が響き、誰かが荷物を落とす音がした。霧の奥で、何か巨大なものが木の柵を踏み砕く音がする。
ばきん、と乾いた音。
続いて、低い唸り声。
ナノは木片を落とした。
霧の中から現れたのは、灰色の肌をした小鬼だった。
ただのゴブリンではない。
背中に黒い石のような突起があり、片目が濁った黄色に光っている。手には錆びた刃物を握り、口元から涎を垂らしていた。
鉱石ガキ。
ドワーフ領周辺で見られる、石を食う低級魔物だと父から聞いたことがある。
だが、なぜ王都の貧民街に。
考える暇はなかった。
鉱石ガキが、路地にいた老人へ飛びかかった。
「や、やめろ!」
ナノは叫んだ。
だが足が動かない。
老人の悲鳴。
血の匂い。
霧の中で、赤いものが石畳に散った。
胃の奥がひっくり返る。
「ナノ!」
父の声がした。
振り返ると、父が走ってきていた。手には仕事用の石槌を握っている。母も後ろから来ていた。顔が真っ青だった。
「父さん!」
「家へ戻れ!」
「でも」
「戻れって言ってる!」
父の怒鳴り声に、ナノは体を震わせた。
父が本気で怒鳴ることはほとんどない。
その声がどれほど危険な状況かを物語っていた。
鉱石ガキがこちらを向いた。
黄色い目が、霧の中で光る。
父はナノの前に立った。
「ナノ、母さんを連れて逃げろ」
「む、無理だよ。父さんは?」
「俺はすぐ行く」
「嘘だ」
ナノの声が震えた。
「父さん、今の嘘だろ」
父は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
母がナノの腕を掴む。
「ナノ、来て!」
「嫌だ! 父さんを置いてなんて」
「ナノ!」
母の目に涙が浮かんでいた。
それでも、母は必死にナノを引いた。
「お願い……今だけは、言うことを聞いて」
鉱石ガキが飛びかかってきた。
父が石槌を振る。
鈍い音が響いた。
魔物の頭が横に弾け、黒い血が飛び散る。
だが、霧の奥からさらに唸り声が聞こえた。
1匹ではない。
何匹もいる。
父の顔が硬くなった。
「走れ!」
その叫び声に押され、ナノは母に引かれて走り出した。
貧民街の路地は混乱していた。
逃げ惑う人々。
倒れた荷車。
泣き叫ぶ子ども。
霧の中で揺れる赤い火。
遠くで家が燃えている。
煙の匂いと血の匂いが混ざり、喉の奥にまとわりついた。ナノは何度も振り返りそうになった。だが母の手が強く引く。
「母さん、父さんが!」
「振り返らないで!」
「でも!」
「振り返ったら、あの人の覚悟が無駄になる!」
母の声は泣いていた。
泣きながら、それでも走っていた。
その時、前方の路地から別の魔物が現れた。
鉱石ガキより大きい。
背中に鋭い黒鉱の棘を生やした、四足の魔物。
岩牙狗。
狼に似ているが、皮膚の一部が石のように硬化している。口からは白い蒸気のような息が漏れ、牙の根元には暗い赤の魔石が埋まっていた。
母が立ち止まる。
「ナノ……下がって」
「母さん?」
「下がって!」
岩牙狗が低く唸った。
ナノの足が震える。
母は周囲を見回し、落ちていた木の棒を拾った。
あまりにも細い棒だった。
魔物を止められるはずがない。
「やめて、母さん」
「ナノ、後ろへ」
「嫌だ。もう嫌だよ。父さんも、母さんも、なんで俺を置いて」
「置いていくんじゃない」
母は振り返らずに言った。
声が震えている。
それでも、棒を握る手は下ろさなかった。
「あなたを、生かすの」
岩牙狗が跳んだ。
母が棒を振る。
だが、魔物の体は止まらない。
ナノは叫んだ。
「母さん!」
その瞬間、横から父が飛び込んできた。
血まみれだった。
左腕から血が流れ、額も切れている。それでも父は石槌を両手で握り、岩牙狗の横腹を叩きつけた。
鈍い音。
魔物が横へ吹き飛ぶ。
「父さん!」
「立ち止まるな!」
父は荒い息を吐いていた。
肩が上下している。
明らかに限界だった。
「この先に崖がある。古い採石場跡だ。そこまで走れ」
「崖って……逃げ場がないよ!」
「谷底に古い水脈がある。落ちれば死ぬかもしれない。だが、ここにいれば確実に死ぬ」
ナノは言葉を失った。
父は母を見た。
母は泣きながら頷いた。
2人は、もう決めていた。
ナノだけを逃がすと。
「嫌だ」
ナノは首を振った。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ! 俺だけなんて嫌だ!」
父がナノの胸ぐらを掴んだ。
「ナノ!」
その声は、怒鳴り声だった。
でも、父の目は泣いていた。
「生きろ」
「父さん……」
「お前のスキルが何だろうと関係ない。無能だろうが、石だろうが、笑われようが、関係ない」
父はナノを強く抱きしめた。
血の匂いと、石粉の匂いがした。
「生きていれば、いつか中身が分かる」
母もナノを抱きしめた。
冷たい手で、震えながら。
「ナノ……ごめんね。怖い思いばかりさせて」
「母さん、やめて。そんな、最後みたいな」
「最後じゃない」
母は涙を流しながら笑った。
「あなたが生きている限り、私たちは終わらない」
霧の奥から、魔物の群れが迫っていた。
岩牙狗が立ち上がる。
鉱石ガキたちも近づいてくる。
父がナノを崖の方へ押した。
「走れ!」
「父さん!」
「走れ、ナノ!」
ナノは走った。
泣きながら。
叫びながら。
何度も振り返りそうになりながら。
背後で父の石槌が鳴る。
母の声が聞こえる。
魔物の咆哮が響く。
崖はすぐそこだった。
霧の中に、黒い裂け目のように口を開けている。
ナノは足を止めた。
谷底は見えない。
ただ、冷たい風が下から吹き上がってくる。
「無理だ……」
ナノは震えた。
「こんなの、無理だよ……」
その時、背後から岩牙狗が飛びかかってきた。
父と母を抜けてきたのだ。
ナノは振り返る。
牙が迫る。
黄色い目。
黒い石の皮膚。
血の匂い。
ナノは腕で顔をかばった。
衝撃。
体が宙に浮いた。
崖の縁が遠ざかる。
霧に包まれた空が回転する。
父の叫び声が聞こえた。
「ナノ!」
母の声も聞こえた。
「生きて!」
ナノは手を伸ばした。
届かない。
父も母も、霧の向こうへ消えていく。
体が落ちる。
風が耳を裂く。
夜の谷が、ナノを飲み込んでいく。
「父さん……母さん……!」
叫び声は、闇に吸い込まれた。
そのままナノは、深い谷底へ落ちていった。
そして彼はまだ知らなかった。
その谷底こそが、無能スキル【石】を目覚めさせる最初の墓場であり、最初の誕生地になることを。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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