第1話 神託の朝
王都エルディアの朝は、晴れているのに薄暗かった。
空には雲が低く垂れ込めている。雨は降っていない。それなのに、石畳の隙間には昨夜の湿気が残り、路地の奥からは濡れた土と古い藁の匂いが漂っていた。
太陽は雲の向こうにある。
その光は、王都の中心にそびえる白い神託塔の先端だけを淡く照らしていた。尖塔に埋め込まれた青白い水晶が、朝霧の中でぼんやりと光っている。その光は美しいというより、どこか冷たかった。
まるで、王都に住むすべての人間を静かに選別しているようだった。
王都は5つの階層に分かれている。
王族が暮らす王城区。
大貴族たちの屋敷が並ぶ大貴族街。
下級貴族や騎士家の住む貴族街。
商人や職人、一般市民が暮らす平民街。
そして、城壁の陰に押し込められた貧民街。
どこで生きるかは、生まれた家だけでは決まらない。
15歳の春に受ける神託で、人生はほとんど決まる。
授かるスキル。
初期レベル。
魔力値。
筋力値。
敏捷値。
そして、固有アビリティ。
神託盤に映し出された数値が高ければ、平民でも騎士学校へ入れる。貴族に拾われることもある。王国軍に入れば、家族ごと階層を上がることさえある。
逆に、数値が低ければ。
たとえ平民街で生まれても、貧民街へ落とされる。
王都では、それを「神の采配」と呼ぶ。
誰もが従う。
逆らえば、神託を否定する異端者として扱われるからだ。
その日、ナノは神託塔の前に立っていた。
18歳。
本来なら15歳で受けるはずだった神託を、ナノは3年遅れて受けることになった。理由は単純だった。平民街の下層に住む者は、神託の順番すら後回しにされる。
ナノの家は、平民街の外れにある小さな石工場だった。
父は石材を削る職人。
母は細かな装飾石を磨く仕事をしていた。
裕福ではない。
けれど、貧しくても、3人で食卓を囲めるだけの暮らしはあった。朝には薄い麦粥があり、夜には父が仕事場から持ち帰った石粉の匂いが服についたまま笑っていた。
ナノはその匂いが好きだった。
父の手はいつも傷だらけで、母の指先は磨き粉で白く荒れていた。それでも2人は、ナノを見る時だけは、少しだけ柔らかい顔をした。
「ナノ」
母の声がした。
ナノは振り返った。
母のリリアは、古びた外套の胸元を両手で握っていた。朝霧で髪が少し湿っている。笑おうとしているが、唇の端がうまく上がっていない。
不安なのだ。
それでも、息子の前では不安を見せまいとしている。
「は、はい。母さん」
ナノは慌てて返事をした。
声が少し裏返った。
自分でも情けないと思ったが、神託塔を前にして平然としていられる者の方が少ない。
父のガルドが、ナノの肩を強く叩いた。
「そんな顔するな。背筋を伸ばせ、ナノ」
「父さん……でも」
「でも、じゃない。神託ってのはな、数値だけを見るもんじゃない」
父はそう言って笑った。
笑っているが、手に力が入りすぎていた。肩に置かれた指が少し痛い。
「たとえ大したスキルじゃなくても、使い方次第だ。石だってそうだ。道端に転がってりゃ誰も見向きもしないが、削り方ひとつで壁にも、剣の柄にも、墓標にもなる」
母が小さく眉を寄せた。
「あなた、朝から墓標なんて縁起でもないこと言わないで」
「あ、ああ。悪い」
父は頭を掻いた。
ナノは少しだけ笑った。
胸の奥に詰まっていた硬いものが、ほんの少しだけ緩む。
「大丈夫だよ。俺、ちゃんと受けてくる」
言った瞬間、自分の声が思ったより弱いことに気づいた。
母はその弱さに気づいたのだろう。
一歩近づき、ナノの額にそっと手を当てた。
冷たい指だった。
朝霧のせいか、それとも緊張のせいか。
「ナノ」
「うん」
「どんな結果でも、あなたは私たちの息子よ」
その言葉に、ナノは息を詰めた。
母は笑っていた。
でも、その目の奥は泣きそうだった。
「だから……だから、何が出ても、ちゃんと帰ってきて」
「はっ、はい……帰るよ。絶対、帰る」
ナノはそう答えた。
その時、神託塔の鐘が鳴った。
重く、深い音だった。
朝霧を震わせ、王都の石壁に反響し、胸の内側まで響いてくる。周囲に集まっていた少年少女たちが、一斉に顔を上げた。
神託の時間だった。
*
神託塔の内部は、外よりもさらに冷えていた。
床も壁も白い石で作られている。磨かれすぎた床は人の影を薄く映し、歩くたびに靴音が高く反響した。
塔の中央には、円形の神託盤がある。
直径3メートルほどの黒い石盤だ。その表面には無数の細い金線が刻まれ、中心には拳ほどの透明な宝石が埋め込まれている。
神託石。
王国に生まれたすべての人間の力を測る、神の目と呼ばれる宝石。
その周囲には、白い祭服を着た神官たちが並んでいた。
誰も笑っていない。
誰も怒っていない。
ただ、これから計量される麦袋でも見るような目で、神託を受ける者たちを眺めていた。
ナノの前には、貴族街から来た少年が立っていた。
金色の髪を丁寧に整え、青い刺繍の入った外套を着ている。周囲の子どもたちとは明らかに違う。隣には従者までいた。
少年が神託盤に手を置く。
神託石が強く光った。
神官の1人が、浮かび上がった文字を読み上げる。
「レベル12。筋力B。魔力A。敏捷B。固有スキル【雷槍】。適性、騎士階級上位」
塔内がざわめいた。
「すごい……」
「魔力Aだって」
「貴族街どころか、大貴族街へ上がれるんじゃないか?」
少年は当然だと言わんばかりに顎を上げた。
ナノはその背中を見て、喉の奥が乾くのを感じた。
あれが、選ばれる側。
自分は違う。
そう思ってしまった瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
「次」
神官の声が響く。
ナノの番だった。
足が重い。
たった数歩の距離なのに、神託盤までの道がひどく遠く感じた。周囲の視線が背中に刺さる。粗末な服。少し泥のついた靴。石粉の匂いがまだ残る袖。
ここに立つだけで、自分が場違いだと分かる。
「名前」
神官が言った。
声に感情はない。
「ナ、ナノです」
「家名は」
「ありません」
神官の眉がわずかに動いた。
その表情だけで、ナノは自分がどの程度の存在として見られているのか理解した。
「手を置け」
「は、はい」
ナノは神託盤に手を置いた。
石は冷たかった。
指先から体温が吸われるようだった。黒い石盤の奥で、何かがゆっくりと動き出す。金線が淡く光り、中心の神託石に青白い光が集まっていく。
ナノは息を止めた。
父の声が頭の中で響く。
使い方次第だ。
母の声も聞こえた気がした。
どんな結果でも、あなたは私たちの息子よ。
神託石が光った。
だが、その光は弱かった。
先ほどの貴族の少年とは違う。
小さく、濁った光。
まるで消えかけの灯火のようだった。
塔内が静まり返る。
神官が石盤に浮かんだ文字を見た。
そして、明らかに困惑した。
「……レベル1」
誰かが笑った。
小さな笑いだった。
それでも、ナノの耳にははっきり届いた。
神官は続ける。
「筋力F。魔力F。敏捷F。耐久F。知力……E」
ざわめきが広がる。
「全部F?」
「18歳でレベル1?」
「冗談だろ」
ナノの指先が冷えていく。
手を離したい。
でも、体が動かない。
神官は最後の項目を見た。
一瞬だけ、口を閉じた。
それから、抑えた声で読み上げる。
「固有スキル……【石】」
沈黙。
次の瞬間、塔内に笑いが広がった。
「石?」
「石って何だよ」
「投げるのか?」
「いや、置くだけだろ」
笑い声が、白い壁に反響する。
ナノは何も言えなかった。
喉が詰まり、胸の奥が冷たくなっていく。手を置いている神託盤だけでなく、自分の体そのものが石になったようだった。
「静粛に」
神官が言った。
だが、その声にもわずかな笑いが混じっていた。
ナノは見逃さなかった。
神官は石盤の下部に浮かんだ判定を確認した。
そして、事務的に告げる。
「判定、王都階層不適合」
ナノの耳が、音を拒んだ。
「え……?」
神官は淡々と続ける。
「居住区分変更。平民街から貧民街へ移籍」
「ま、待ってください」
ナノはようやく声を出した。
喉が震えていた。
「お、俺だけですか? 家族は……父さんと母さんは、関係ないですよね?」
神官はナノを見た。
人を見る目ではなかった。
書類の不備を見る目だった。
「同居家族も対象となる」
「そ、そんな……」
「神託は王国法に優先する」
「でも、父さんは職人です。母さんも仕事をしていて……俺だけなら、俺だけが」
「次」
神官はもうナノを見ていなかった。
「待ってください!」
ナノは叫んだ。
声が塔内に響く。
笑っていた者たちが一斉にこちらを見た。
神官の表情が冷える。
「神託への異議は認められない」
「い、異議じゃありません。ただ、家族は……家族だけは」
「連れて行け」
神官が短く命じた。
白い鎧を着た衛兵が2人近づいてくる。
ナノは後ずさった。
「ちょ、ちょっと待って……待ってください。お願いします。父さんと母さんは、何も悪くないんです」
衛兵が腕を掴む。
強い力だった。
「離して!」
「暴れるな」
「離せよ! 俺は、俺はただ――」
その時、入口の方から母の声が聞こえた。
「ナノ!」
振り返ると、父と母が神託塔の入口に立っていた。
母は口元を押さえている。
父は顔色を変えないようにしていたが、目だけが揺れていた。
ナノはその顔を見て、すべてを悟った。
もう戻れない。
神託は下された。
自分だけではない。
父も母も、自分と一緒に落とされる。
「母さん……」
ナノの声は、ほとんど泣き声だった。
「ごめん。俺、ごめん……」
母は首を振った。
目に涙を溜めながら、それでも必死に笑おうとしていた。
「謝らないで。ナノ、謝らないで」
父が衛兵の前へ出た。
「息子を離してくれ。逃げやしない」
「規則だ」
「だったら俺が支える。こいつは今、立ってるだけで精一杯だ」
衛兵は一瞬だけ迷った。
神官が面倒そうに手を振る。
衛兵がナノの腕を離した。
ナノはその場に崩れそうになった。
父が支えた。
大きな手だった。
傷だらけで、硬くて、石の粉の匂いがする手。
「父さん……」
「立て、ナノ」
父の声は低かった。
怒っているのではない。
泣きそうなのを、必死に押さえ込んでいる声だった。
「今は立て。倒れるのは、家に帰ってからでいい」
「でも、俺のせいで」
「違う」
父はナノの肩を強く抱いた。
「お前のせいじゃない。神託がそう言っただけだ」
「でも」
「いいから、歩け」
母が反対側からナノの手を握った。
冷たい手だった。
でも、震えている。
「帰ろう、ナノ」
「母さん……」
「大丈夫。大丈夫だから」
母はそう言った。
だが、その声は少しも大丈夫ではなかった。
神託塔の出口へ向かう。
背後から笑い声が聞こえた。
「無能スキル【石】」
「貧民街行きか」
「石工の息子が石って、できすぎだろ」
ナノは振り返らなかった。
振り返ったら、泣いてしまう。
泣いたら、父と母がもっと苦しむ。
だから、前だけを見た。
神託塔の外へ出ると、朝霧はまだ残っていた。
晴れているはずの空は、やはり薄暗い。
白い神託塔だけが、背後で冷たく光っている。
その日、ナノは王都から見捨てられた。
だがまだ、何も知らなかった。
無能と笑われた【石】が、世界のすべてを砕く力を秘めていることを。
そして、その力に目覚めるために、ナノがもう一度すべてを失わなければならないことを。
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