第10話 黒錆ゴブリン
旧採掘路へ向かう道は、黒鉄炉とはまったく違う冷たさに包まれていた。
鍛冶場では、熱が肌を刺していた。炉の火が息をし、鉄粉が舞い、誰かの槌音が常に胸の奥まで響いていた。
だが、旧採掘路へ続く坑道は静かだった。
静かすぎた。
壁に埋め込まれた灯石は間隔が広く、淡い黄色の光がところどころで途切れている。光の届かない場所には黒い闇が溜まり、水滴の音だけがその奥から返ってきた。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
地底湖の音に似ていた。
ナノは歩きながら、無意識に左手を握った。
掌の紋様が汗で湿っている。
右手には、グレンから渡された小さな鉄槌。
ドワーフの見習い用だと言われたが、ナノには十分重かった。柄の部分には古い革が巻かれており、何人もの手に使われてきた跡がある。新品ではない。けれど、その分だけ道具としての重みがあった。
「遅れるな」
前を歩くグレンが言った。
戦槌を肩に担ぎ、背中だけで坑道の空気を押しのけているようだった。
「はっ、はい」
「返事はいい。足を見ろ。濡れている場所は踏むな」
ナノは足元を見た。
黒い岩肌の床には、ところどころ赤茶色の筋が走っている。水に濡れたその筋は、血のようにも錆のようにも見えた。
「これは……赤錆鉱ですか」
「そうだ。旧採掘路の奥に多い。普通は薬や低級合金に使うが、魔物が喰うと厄介な変異を起こす」
「黒錆ゴブリンって、それを喰った魔物なんですか」
「鉄鋼ゴブリンの変異種だ」
グレンは声を低くした。
「通常の鉄鋼ゴブリンは黒錬鉱を好む。背中や腕に鉄の瘤を作るが、動きは鈍い。だが赤錆鉱を喰った個体は、血と錆に反応して凶暴化する」
ナノの喉が乾いた。
「血に……」
「傷を負った相手をしつこく追う。群れで出ると、負傷者から崩される」
ナノは自分の左足を見た。
包帯の下の傷が、急に熱を持った気がした。
血の匂い。
魔物。
追われる。
貧民街の夜が、また喉元まで迫ってくる。
ナノは呼吸が浅くなるのを感じた。
「ナノ」
グレンが立ち止まった。
「は、はい……」
「今、お前は過去を見ている」
ナノは息を呑んだ。
「……分かりますか」
「目が坑道を見ていない」
グレンは振り返った。
灯石の薄い光が、彼の顔の半分だけを照らしている。
「過去を見るなとは言わん。消せるものでもない。だが、今ここで死にたくないなら、目の前の石を見ろ。足元の水を見ろ。壁の傷を見ろ」
ナノは唇を噛んだ。
痛みで、少しだけ意識が戻る。
「……はい」
「今の返事は、悪くない」
グレンは再び歩き出した。
しばらく進むと、坑道の壁に深い爪痕が見えた。
ナノは足を止めた。
岩壁が抉れている。
爪で引っかいたというより、硬い鉱石ごと削り取ったような跡だった。周囲には赤茶色の粉が落ちている。血ではない。赤錆鉱の粉だ。
掌の紋様が熱くなる。
頭の奥に文字が浮かんだ。
――赤錆鉱の摂食痕。
――魔物個体、複数。
――黒錆ゴブリンの可能性、高。
「グレンさん」
ナノは声を抑えた。
「ここ、複数います」
「数は読めるか」
「……はっきりは。でも、爪痕の高さが違います。小さいのと、大きいのがいる」
グレンが壁を見た。
「よく見た」
短い言葉だった。
それだけで、ナノの胸に少しだけ力が入る。
その時、坑道の奥から音がした。
がり。
がり。
がりっ。
石を喰う音。
ナノの背筋が冷える。
グレンは片手を上げた。
後ろについてきていた2人のドワーフ戦士が足を止める。1人は短斧、もう1人は丸い盾を構えていた。
グレンが低く言う。
「来るぞ」
闇の奥で、赤い点が光った。
目だった。
1つ。
2つ。
いや、もっといる。
黒い影が、灯石の光の中へ這い出してきた。
黒錆ゴブリン。
身長は人族の子どもほど。だが、体つきは異様だった。灰色の皮膚の上に、黒と赤茶の鉱石瘤がいくつも盛り上がっている。背中には錆びた鉄片のような突起が並び、腕の外側は赤黒く硬化していた。
顔はゴブリンに似ている。
しかし、普通のゴブリンより目が濁っている。赤錆鉱を喰った影響なのか、唇の端から赤茶色の涎が垂れていた。
ナノは思わず後ずさった。
「っ……」
声が出そうになるのを、奥歯で噛み殺した。
グレンの言葉を思い出す。
恐怖を見ろ。
相手を見ろ。
ナノは震える目で黒錆ゴブリンを見た。
掌が熱い。
石眼が反応している。
――黒錆ゴブリン。
――鉄鋼ゴブリン変異種。
――摂食鉱物、赤錆鉱混合。
――魔石位置、腹部右下。
――背部瘤、破壊時に錆粉を散布。
「背中の瘤を壊さないでください!」
ナノは叫んだ。
ドワーフ戦士たちが一瞬だけこちらを見る。
「錆粉が出ます! たぶん、吸ったら動きが鈍る!」
グレンの目が鋭くなる。
「腹部右下か」
「はい!」
「聞いたな。背中を割るな。腹を狙え」
黒錆ゴブリンたちが一斉に走り出した。
足音は軽い。
だが、爪が石床を削る音が耳に痛い。
先頭の個体が跳ぶ。
グレンの戦槌が横から叩き込まれる。
ただし、背中ではなく、脇腹。
魔物の体が壁に叩きつけられ、腹部の魔石が砕けた。
残りが左右に散る。
ドワーフ戦士たちが前へ出た。
短斧が腹を狙い、盾が爪を受ける。
ナノは後ろで震えながら、それでも目を逸らさなかった。
見える。
完全ではない。
だが、分かる。
黒錆ゴブリンの背中の瘤は危険だ。腹部右下の魔石を砕けば止まる。足首の赤茶色の部分は脆い。そこを叩けば動きが鈍る。
「左の個体、足首が脆いです!」
ナノが叫ぶ。
盾持ちのドワーフが反応した。
盾で押し込み、短槌で足首を砕く。
黒錆ゴブリンが転倒し、腹の魔石を斧で割られる。
「右奥、背中が膨らんでます! 近づくと粉が出る!」
「下がれ!」
グレンの声。
直後、右奥の個体が自分の背中を壁に叩きつけた。
赤茶色の粉が散る。
ドワーフたちは距離を取っていたため、巻き込まれなかった。
ナノは心臓が激しく打つのを感じた。
また、役に立てた。
戦っているわけではない。
だが、見えている。
石と魔石の情報が、少しずつ自分の中で形になる。
その時、坑道の奥から低い唸り声がした。
これまでの個体とは違う。
重い。
太い。
地面そのものが唸っているような声。
グレンの表情が変わった。
「親玉か」
闇の中から、ひときわ大きな黒錆ゴブリンが現れた。
背丈はナノの胸ほどまである。通常個体より一回り大きく、右腕だけが異様に肥大していた。その腕には赤錆鉱と黒錬鉱が混じった瘤が絡み合い、まるで錆びた鉄塊を無理やり肉に埋め込んだようだった。
ナノの頭に文字が浮かぶ。
――黒錆ゴブリン上位個体。
――仮称、錆腕ゴブリン。
――右腕、異常硬化。
――魔石位置、不明。
「魔石が……見えない」
ナノは呟いた。
グレンが低く言う。
「無理に読もうとするな」
「でも」
「見えないものを見えると言うな。それが一番危ない」
錆腕ゴブリンが右腕を振り上げた。
鈍い赤茶色の粉が舞う。
次の瞬間、壁を殴った。
岩が砕ける。
破片が飛び散り、盾持ちのドワーフが後ろへ弾かれた。
「ぐっ……!」
「下がれ!」
グレンが前へ出る。
戦槌と錆腕がぶつかった。
重い音。
坑道が揺れる。
ナノはその衝撃に膝をつきそうになった。
グレンほどのドワーフが、わずかに押された。
それほどの力だった。
「硬いな」
グレンが呟く。
錆腕ゴブリンは、にやりと笑ったように見えた。
魔物なのに。
その顔に、獲物を追い詰める楽しさが浮かんでいた。
ナノの中で、恐怖が膨らむ。
見えない。
魔石が見えない。
なら、自分には何もできないのか。
その時、右手の鉄槌が重く感じられた。
黒鉄炉で叩いた感覚。
石の筋を見る。
内部の弱い場所を探る。
魔石が見えないなら、石を見る。
ナノは息を吸った。
錆腕ゴブリンの右腕を見つめる。
魔石ではなく、鉱石瘤を見る。
赤錆鉱と黒錬鉱が混じっている。
完全に一体化しているわけではない。
境目がある。
赤茶色と黒の継ぎ目。
そこが、わずかに歪んでいる。
「グレンさん!」
ナノは叫んだ。
「右腕の付け根じゃない! 黒と赤の境目です! そこ、たぶん割れます!」
グレンが戦槌を構え直した。
「場所を示せ!」
ナノは震える手で指差した。
「肘の少し上! 赤錆の線が斜めに入ってるところ!」
錆腕ゴブリンがナノを見た。
その目が、はっきりとこちらを捉えた。
嫌な汗が背中を伝う。
魔物が吠えた。
狙いをグレンからナノへ変える。
「ナノ、下がれ!」
グレンが叫ぶ。
だが、錆腕ゴブリンの動きが速い。
巨体に似合わない速度で突っ込んでくる。
ナノは足が動かない。
またか。
また、自分だけが狙われる。
父と母の時と同じように。
違う。
今回は違う。
ナノは鉄槌を握りしめた。
逃げるのではなく、横へ転がった。
錆腕がナノのすぐ横を叩き潰す。
石床が砕け、破片が頬を切った。
「っ、ああっ!」
痛みが走る。
だが、生きている。
ナノは転がった姿勢のまま、錆腕の境目へ鉄槌を叩きつけた。
弱い一撃。
グレンのような力はない。
だが、百錬成鋼が一瞬だけ反応した。
かん。
小さな音。
錆腕の境目に、細いひびが入る。
グレンがそこへ踏み込んだ。
「十分だ!」
戦槌が振り下ろされる。
「白剛震槌!」
衝撃が走った。
錆腕が砕けた。
赤茶色の粉が爆ぜ、黒い鉱石片が飛び散る。錆腕ゴブリンが悲鳴を上げ、体勢を崩した。
その瞬間、腹の奥に赤黒い魔石が見えた。
ナノの石眼が反応する。
「腹の中央! 今です!」
グレンの2撃目が入る。
魔石が砕けた。
錆腕ゴブリンの体が、糸を切られたように倒れた。
坑道に静寂が戻る。
水滴の音。
荒い呼吸。
ナノは石床に座り込んだまま、鉄槌を握りしめていた。
頬から血が流れている。
手も震えている。
でも、生きている。
「ナノ」
グレンが近づいてきた。
「はっ……はい……」
「勝手に前に出るなと言ったはずだ」
「す、すみま……」
ナノは言葉を止めた。
グレンの目を見る。
「……ごめんなさい。でも、あそこを叩かないと、見えない気がして」
「判断としては危うい」
「はい」
「だが、悪くはなかった」
グレンは錆腕ゴブリンの死骸を見下ろした。
「魔石が見えないなら鉱石構造を見る。発想はいい」
ナノの胸が小さく震えた。
「じゃあ……俺、少しは」
「少しだ」
グレンは即答した。
「ほんの少しだけだ。調子に乗れば次で死ぬ」
「は、はい……」
その返事には、恐怖と嬉しさが混ざっていた。
坑道の奥で、倒れた錆腕ゴブリンの体が崩れ始める。
腹の魔石が砕けた場所から、赤黒い破片がこぼれ落ちた。
ナノの掌が熱を持つ。
頭の奥に文字が浮かぶ。
――黒錆魔石を確認。
――吸収可能。
――ただし、現在の肉体適合率では負荷過多。
ナノは破片を見つめた。
欲しい。
そう思った自分に驚いた。
力が欲しい。
あの魔物の硬さを、強さを、少しでも自分の中に取り込みたい。
だが、同時に怖かった。
負荷過多。
今の体では危険だ。
グレンが言った。
「吸うな」
ナノはびくりと肩を震わせた。
「分かるんですか」
「顔に書いてある。欲しそうな顔と、怖がっている顔が同時に出ている」
「……はい」
「持ち帰る。鍛えてからだ」
ナノは深く息を吐いた。
我慢する。
それも訓練なのだと理解した。
グレンは黒錆魔石の破片を専用の小瓶に入れた。
「今日の採取物だ。お前の取り分にもなる」
「俺の……?」
「お前も働いた。なら、報酬がある」
報酬。
その言葉に、ナノは少しだけ呆然とした。
自分が役に立ち、何かを得る。
そんな経験は、ほとんどなかった。
グレンは坑道の出口へ向かう。
「戻るぞ。ミラに見つかる前に治療を受けろ」
「見つかる前に?」
「怒られる」
「グレンさんでも?」
「ミラの怒りは、黒錆ゴブリンより厄介だ」
ナノは思わず小さく笑った。
笑った瞬間、頬の傷が痛んだ。
「痛っ……」
「笑う余裕があるなら歩け」
「は、はい」
旧採掘路の奥から、冷たい風が吹いてきた。
ナノは振り返る。
闇はまだ深い。
そこには、まだ自分の知らない魔物がいる。
知らない石がある。
知らない危険がある。
だが、もう完全な闇ではなかった。
見ようとすれば、そこには筋がある。
石の中に走る細い線のように。
進むべき道も、きっとどこかにある。
ナノは痛む足を引きずりながら、グレンの後ろを歩き出した。
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