第11話 石眼の代償
ガルバ坑道街へ戻る頃には、ナノの足はほとんど感覚を失っていた。
痛みが消えたわけではない。
むしろ逆だった。
痛みが強すぎて、足のどこが痛いのか分からなくなっていた。左足の噛み傷、右膝の打撲、頬の切り傷、鉄槌を握り続けた手の皮。全身の小さな痛みが混ざり合い、重い泥のように体の内側へ沈んでいる。
坑道街の灯りが見えた時、ナノはほっとした。
岩壁に埋め込まれた鉱石灯。
鍛冶炉の赤い光。
遠くから聞こえる槌音。
ここへ来てまだ数日しか経っていない。それなのに、その音を聞くと少しだけ息がしやすくなった。
帰る場所。
そう呼ぶには、まだ早い。
だが、少なくとも自分を追い払う場所ではなかった。
「ナノ!」
甲高い声が響いた。
ミラだった。
治療師の白い布を頭に巻き、腰の薬草袋を揺らしながら走ってくる。その顔は心配と怒りが半分ずつ混ざっていた。
ナノは反射的に背筋を伸ばした。
「あ、あの、ミラさん……」
「座りなさい」
「は、はい……」
「今すぐ」
「はいっ」
ナノは近くの石段に腰を下ろした。
返事が情けないほど素直になった。
ミラはナノの頬の傷を見て、次に左足、最後に右手を見た。
そのたびに眉間の皺が深くなる。
「グレン」
声が低かった。
ナノは思わず肩を縮めた。
グレンは表情を変えない。
「生きて戻った」
「それを成果みたいに言わないで」
「成果だ」
「怪我人を旧採掘路に連れて行った上に、頬を切らせて、手も裂けて、足も悪化させて。これのどこが成果なの」
「黒錆ゴブリンの上位個体を処理した」
「ナノを処理する気?」
「していない」
「なら、もっと大事に扱いなさい」
ナノは2人の会話を聞きながら、どこか不思議な気持ちになった。
怒られている。
でも、そこには見捨てる冷たさがない。
王都の神官は、ナノのことを数字で見た。
平民街の管理局は、ナノの家族を階層不適合者として扱った。
だがミラは、傷を見て怒っている。
それが少しだけ、胸に痛かった。
「あの……ミラさん」
「何?」
「すみま……じゃなくて、その……ありがとうございます」
ミラの動きが止まった。
ナノは視線を落とす。
「怒ってくれて、ありがとうございます」
ミラはしばらく黙っていた。
それから、ため息をつく。
「そういうことを言われると、怒りづらくなるじゃない」
「ご、ごめんなさ……あっ」
「ふふ。まだ謝り癖は抜けないわね」
ミラは薬草袋から小瓶を取り出した。
蓋を開けると、苦い匂いが広がる。青い草と鉄錆を混ぜたような匂いだった。
「頬を出して」
「はい……」
「痛むわよ」
「だ、大丈夫です」
「それは大丈夫じゃない人の声」
薬を塗られた瞬間、ナノは声にならない声を出した。
「っ、〜〜!」
「ほら」
「い、痛いです……!」
「正直でよろしい」
ミラは淡々と処置を続ける。
頬の次は手。
裂けた皮膚を洗い、薬を塗り、包帯を巻く。ナノは何度も息を止めそうになったが、そのたびにミラに「呼吸」と言われた。
最後に左足の包帯を外した時、ミラの表情が変わった。
「……熱が増してる」
グレンも顔を向ける。
「魔石毒か」
「それだけじゃないわ」
ミラは傷の周囲に指を当てた。
ナノは痛みに顔を歪める。
「っ……」
「ナノ。旧採掘路で石眼を使いすぎた?」
ナノは一瞬答えられなかった。
「使いすぎたかどうかは……分からないです。でも、黒錆ゴブリンの時に、魔石とか、鉱石の筋とか、ずっと見ようとしてました」
「やっぱり」
ミラは小さく舌打ちした。
グレンが眉をひそめる。
「石眼の負荷か」
「たぶんね。目だけの力じゃない。体内の石紋を通して、神経や血流にも負担が出てる」
ナノは自分の掌を見た。
紋様がいつもより赤くなっている。
白い菱形の周囲に、細い赤い線が浮かんでいた。
「これ……」
触れようとすると、ミラに止められた。
「触らない」
「は、はい」
「石眼は便利な力かもしれない。でも、今のあなたの体はまだ弱い。見えすぎる情報に、体が耐えられていないの」
「見えすぎる……」
ナノは旧採掘路でのことを思い出した。
爪痕。
鉱石の摂食痕。
黒錆ゴブリンの魔石位置。
錆腕ゴブリンの右腕の継ぎ目。
見えた。
見えたから役に立てた。
でも、その代わりに体の奥がずっと熱かった。
あれは興奮ではなく、負荷だったのかもしれない。
グレンが腕を組む。
「なら、しばらく石眼は禁止だな」
「えっ」
ナノは顔を上げた。
「で、でも、それじゃ俺、何も」
「何もできないと思うか」
グレンの声が低くなった。
ナノは口を閉じた。
そう言いかけた。
石眼があるから、魔物の弱点を読めた。
百錬成鋼があるから、黒錬板を割れた。
それがなければ、自分はまた何もできない人族に戻る。
そんな恐怖が胸の奥から出てきた。
グレンはそれを見抜いたように言った。
「力を得たばかりの奴は、すぐ力に縋る。見えるから見る。叩けるから叩く。吸えるから吸う」
グレンはナノの包帯だらけの手を見た。
「だが、道具に使われる者は職人ではない」
ナノは息を呑んだ。
「道具に……使われる」
「そうだ。石眼に頼りきれば、お前は石眼がないと何もできない人間になる」
その言葉は、思った以上に重かった。
無能から抜け出したくて得た力なのに、その力に頼りすぎれば、別の意味で弱くなる。
ナノは拳を握ろうとしたが、包帯が痛んで途中で止めた。
「じゃあ……どうすればいいんですか」
声が小さくなった。
「見えない時でも考えろ」
グレンが言った。
「足跡、匂い、傷、音、相手の動き。石眼が見せる情報だけが真実じゃない」
ミラも頷く。
「それに、体を治すのも訓練よ。壊れたまま動き続けるのは、強さじゃなくて雑さ」
「雑さ……」
「そう。あなたは今、自分の体の扱いが雑」
ナノは返す言葉がなかった。
父と母に生かされた命。
それを無駄にしたくないと言いながら、焦って傷を増やしている。
それでは意味がない。
「……分かりました」
ナノはゆっくり頷いた。
「石眼、しばらく使いません」
グレンが見る。
「本当に分かっている声か?」
ナノは少し迷った。
正直、怖い。
石眼を使わない自分に価値があるのか。
でも、その怖さを隠すと、また見抜かれる気がした。
「怖いです」
ナノは言った。
「石眼がないと、俺、本当に役に立てないかもしれないって思ってます。でも……それに頼りすぎるのも、違うって分かりました」
グレンは小さく頷いた。
「その返事ならいい」
*
その夜、ナノは黒鉄炉の隅に座っていた。
訓練は禁止。
石眼も禁止。
ミラにそう言われ、寝台に戻れと言われたが、眠れる気がしなかった。
だからせめて鍛冶場の音だけでも聞いていたかった。
黒鉄炉の火は、夜になっても消えない。
昼より人は少ないが、数人のドワーフが交代で炉の番をしている。火の色を見て、鉱石の変化を読み、温度を調整する。彼らはほとんど喋らない。
だが、火と会話しているように見えた。
ナノは膝を抱えた。
今日手に入れた黒錆魔石は、グレンが保管している。
今の肉体では吸収負荷が高すぎる。
そう言われた。
力が目の前にあるのに、使えない。
もどかしい。
だが、そのもどかしさの奥に、自分への苛立ちもあった。
「焦ってるんだな、俺……」
小さく呟く。
早く強くなりたい。
早く、無能だった自分を壊したい。
早く、父と母に胸を張れる自分になりたい。
でも、石はすぐには宝石にならない。
父が言っていた。
削り方ひとつで、石は壁にも、剣の柄にも、墓標にもなる。
なら、自分は何になるのだろう。
壁か。
武器か。
墓標か。
それとも、本当に宝石になれるのか。
「ナノ」
声がした。
振り返ると、グレンが立っていた。
手には小さな黒い箱を持っている。
「寝ていなかったか」
「……眠れなくて」
「そうか」
グレンは隣に座った。
しばらく無言だった。
槌音もない。
炉の火が、ごう、と低く鳴っている。
グレンが黒い箱を開けた。
中には、小さな石片が入っていた。
透明に近いが、完全な透明ではない。内部に白い濁りがある。
「これは……」
「白鈍石だ。白剛石には遠く及ばないが、近い系統の石だ」
「吸収するんですか?」
「今はしない」
グレンは石片をナノの前に置いた。
「明日から、お前はこれを磨け」
「磨く……?」
「そうだ。石眼も百錬成鋼も使わず、ただ手で磨け。石の形を覚えろ。重さを覚えろ。表面の引っかかりを覚えろ」
ナノは石片を見た。
小さい。
地味で、特別な力があるようには見えない。
「これが訓練になるんですか」
「なる」
グレンは短く答えた。
「ドワーフの子どもは、まず石を磨く。叩く前に磨く。割る前に触る。石を知らん者が、石を鍛えることはできん」
ナノは白鈍石を手に取った。
冷たい。
少しざらついている。
掌の紋様は反応しかけたが、ナノは意識して力を抜いた。
石眼を使わない。
ただ、触る。
すると、不思議なことに、文字ではない情報が少しずつ入ってきた。
角が欠けている。
表面に細かな傷がある。
片側だけ重さが偏っている。
光に当てると、濁りの奥に小さな筋が見える。
見える、ではない。
感じる。
「……石眼を使わなくても、分かることがあるんですね」
ナノが呟くと、グレンは頷いた。
「それを忘れるな」
ナノは白鈍石を握りしめた。
焦るな。
でも、止まるな。
それが今日の答えなのかもしれない。
グレンが立ち上がる。
「明日は休養と石磨きだ」
「はい……」
「その次は、坑道街の外れにある小ギルドへ行く」
ナノは顔を上げた。
「ギルド……?」
「ああ。お前を正式に冒険者見習いとして登録する」
胸が跳ねた。
冒険者。
ギルド。
魔石。
依頼。
王都では、自分には一生関係ないと思っていた言葉だった。
「俺が……登録できるんですか」
「できるようにする」
グレンは少しだけ口元を歪めた。
「ただし、登録試験がある」
「試験……」
「安心しろ。死にはしない」
「その言い方、全然安心できません」
「なら、緊張しておけ」
グレンはそう言って去っていった。
ナノは白鈍石を見つめた。
小さく、濁った石。
今の自分に似ていると思った。
透明ではない。
強くもない。
まだ磨かれてもいない。
でも、捨てられてはいない。
ナノは石をそっと布で包んだ。
黒鉄炉の火が、彼の横顔を赤く照らしていた。
明日は戦わない。
走らない。
ただ、石を磨く。
それもまた、強くなるための一歩だった。
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