第12話 坑道ギルドの登録試験
ガルバ坑道街の朝は、今日も黒鉄炉の音で始まっていた。
かん。
かん。
かん。
鉄を叩く音が岩壁に反響し、地底の空気を低く震わせる。外の世界に太陽があるのか、雨が降っているのか、ここでは分からない。だが、炉の火が赤く強く燃え、鉱脈灯が岩壁を淡く照らし始めると、ドワーフたちはそれを朝と呼ぶらしかった。
ナノはグレンの工房の隅で、白鈍石を磨いていた。
小さな布を指に巻き、少量の磨き粉をつけて、表面をゆっくり擦る。急ぐと石の角に指が引っかかる。力を入れすぎると表面だけが削れ、内側の濁りが見えなくなる。
グレンに言われた通り、石眼は使っていない。
ただ、触る。
重さを覚える。
角の欠け方を覚える。
布越しに伝わるざらつきや、磨いたあとに残る微かな抵抗を覚える。
最初は退屈だった。
魔物と戦った直後に、ただ石を磨けと言われた時は、正直、意味が分からなかった。もっと派手な訓練をするのだと思っていた。百錬成鋼を使って岩を割るとか、魔石を吸収するとか、そういう分かりやすい強化を。
だが、今は少しだけ違う。
磨き続けていると、石の表面が変わる瞬間がある。
ざらついていたところが、ふっと滑らかになる。
濁っていた色の奥に、細い白い筋が見える。
自分の指先が、石に拒まれなくなる。
その小さな変化が、妙に嬉しかった。
「……ここ、少しだけ光が通る」
ナノは白鈍石を灯石にかざした。
濁りの中に、ほんの細い透明な線が走っている。昨日までは気づかなかった。石眼を使えばすぐ分かったのかもしれない。でも、今は自分の目と指で見つけた。
それが、少しだけ誇らしかった。
「おい、ナノ」
グレンの声がした。
ナノは慌てて顔を上げた。
「はっ、はい」
「その石を置け。今日はギルドに行く」
ナノの指が止まった。
「ギルド……登録、ですか?」
「ああ」
「本当に、俺が登録できるんですか」
「できるかどうかを確かめに行くんだ」
言い方が相変わらず容赦ない。
ナノは白鈍石を丁寧に布で包み、立ち上がった。左足の痛みはまだ残っているが、昨日よりは歩きやすい。ミラの薬が効いているのだろう。
ただ、胸の奥は落ち着かなかった。
ギルド。
王都にいた頃、冒険者は遠い存在だった。
魔物を討伐し、魔石を持ち帰り、依頼をこなして報酬を得る者たち。神託で高いステータスや戦闘向きのスキルを得た者が進む道。
自分のように、レベル1、筋力F、魔力F、固有スキル【石】と笑われた人間が行く場所ではない。
ナノの手が自然と胸元を掴んだ。
不安になると、体が勝手に小さくなろうとする。
グレンがそれを見逃すはずもなかった。
「また縮んでいるぞ」
「す、すみま……じゃなくて、癖です」
「癖なら直せ」
「はっ、はい」
「その返事は逃げだ」
ナノは口を閉じた。
少し息を吸う。
地底の空気は鉄と火の匂いがした。
「……怖いです」
正直に言った。
「登録できなかったら、また無能だって言われる気がして」
グレンは腕を組んだ。
「言われたらどうする」
「……分かりません」
「なら考えろ」
「え?」
「言われないことを祈るな。言われた時にどう立つかを考えろ」
ナノはグレンを見た。
グレンは厳しい。
優しく慰めてくれるわけではない。
だが、その言葉はナノを突き放すだけではなかった。
立つ場所を教えてくれる。
ナノは小さく頷いた。
「分かりました。言われても……逃げないようにします」
「今のは少しましだ」
グレンはそう言って、工房の扉を開けた。
*
坑道ギルドは、ガルバ坑道街の中層にあった。
岩壁をくり抜いた大きな建物で、入口には鉄板で作られた看板が掲げられている。看板には、槌と鉱石と魔石を組み合わせた紋章が刻まれていた。
中へ入ると、空気が一気に変わった。
鍛冶場の熱とは違う。
革鎧の匂い。
酒の匂い。
濡れた外套の匂い。
血を拭いたばかりの布の匂い。
そして、魔石の硬い匂い。
広い空間には、ドワーフだけでなく、少数の人族らしき者もいた。獣族の耳を持つ者もいる。壁には依頼書が貼られ、奥のカウンターでは受付係が書類を整理していた。
ナノが入ると、いくつかの視線が向いた。
人族。
細い。
若い。
傷だらけ。
そして、グレンの後ろにいる。
その情報だけで、周囲が静かにざわめいた。
「ねぇ、あれが噂の?」
「白剛石を吸った人族だってよ」
「本当かよ。あの細さで?」
ナノの肩が強張る。
グレンが低く言った。
「顔を下げるな」
「……はい」
今度は、ちゃんと前を見た。
カウンターの前に立つと、受付の女性ドワーフが顔を上げた。
黒い髪を後ろで束ね、片耳に銅色の小さな石飾りをつけている。胸元には黄褐色の石が埋まっていた。瞳は鋭いが、書類を扱う指先は丁寧だった。
「グレン。登録者を連れてくるなんて珍しいわね」
「こいつを見習い登録する」
「人族?」
「ああ」
受付係はナノを見た。
ナノは反射的に頭を下げそうになったが、途中で止めた。
「あ、あの……ナノです。よろしくお願いします」
声が少し震えた。
だが、最後まで言えた。
受付係は少しだけ目を細める。
「私はラウネ。坑道ギルド、ガルバ支部の受付兼記録係よ」
「はっ、はい。ラウネさん」
「いい返事だけど、怯えすぎね」
「す、すみ……」
ナノはまた口を止めた。
ラウネは小さく笑った。
「謝り癖がある子なのね」
グレンが横から言う。
「矯正中だ」
「あなたがやると、心まで鍛冶場に放り込みそうで怖いわ」
「必要なら放り込む」
「やめなさい」
ラウネは書類を取り出した。
「登録には試験が必要よ。読み書き、鉱石識別、簡易戦闘適性。人族だからといって免除はない」
ナノの喉が鳴った。
「分かりました」
「まずは読み書き」
差し出された石板に、ナノは名前を書いた。
ナノ。
平民街にいた頃、母が少しだけ文字を教えてくれた。綺麗な字ではない。でも、読める。
ラウネは頷く。
「問題なし。次、鉱石識別」
彼女は小さな箱を出し、中に入った3つの石を並べた。
黒い石。
青みを帯びた石。
赤茶色の石。
「名称と用途。分かる範囲で答えて」
ナノは石眼を使いかけた。
掌が熱くなる。
だが、意識して抑えた。
使うなと言われている。
見える情報に頼るな。
ナノは指で石に触れた。
黒い石は、昨日から何度も触れている黒錬鉱に似ている。だが、表面の重さが少し違う。
「これは……黒錬鉱、だと思います。でも、純度が低い」
ラウネの眉が少し動いた。
ナノは次の青い石に触れる。
水鉱魔石の感覚を思い出した。
「これは、水鋼石……ですか。水路の補強とか、冷却材に使う?」
ラウネは無言でメモする。
最後に赤茶色の石。
旧採掘路で見た赤錆鉱に似ている。
「赤錆鉱。薬や、血を止めるものに少し使える……ただ、魔物が食べると危険」
ラウネは石を箱に戻した。
「合格」
ナノは息を吐いた。
思っていたより、体に力が入っていた。
ラウネは続ける。
「最後に簡易戦闘適性。奥の試験場へ」
心臓がまた跳ねた。
戦闘。
ナノはグレンを見た。
グレンは何も言わない。
ただ、行けという目をしていた。
*
試験場はギルドの奥にあった。
床には砂が敷かれ、壁には木剣や盾、練習用の槌が並んでいる。魔物はいない。だが、ナノにとってはそれでも十分すぎるほど緊張する場所だった。
ラウネが呼んだ試験官は、片腕のドワーフだった。
右腕は肩から先がなく、代わりに鉄製の義腕が取りつけられている。義腕の関節には小さな魔石が埋め込まれ、動くたびに低い駆動音がした。
「名前は?」
試験官が聞く。
「ナ、ナノです」
「武器は?」
「鉄槌を……少しだけ」
「少しだけ、か。正直でいい」
彼は木製の短槌を投げてきた。
ナノは慌てて受け取る。
「俺はバルド。お前を殴る役だ」
「な、殴る……」
「死なない程度にな」
「全然安心できません……」
「安心する場所じゃない」
バルドは義腕を軽く回した。
「ルールは簡単だ。俺の攻撃を3回しのげ。反撃できるならしてみろ」
ナノは短槌を構えた。
足が震える。
左足はまだ完全ではない。
右手も痛む。
だが、逃げられない。
「始め」
ラウネの声。
次の瞬間、バルドが踏み込んできた。
速い。
義腕が横から飛んでくる。
ナノは短槌で受けようとした。
だが、重い。
衝撃で腕が弾かれ、体ごと砂の上に転がった。
「ぐっ……!」
「1回目。受け方が悪い」
バルドの声。
ナノは砂を噛みながら起き上がった。
「はっ……はぁ……」
怖い。
痛い。
でも、魔物よりは見える。
相手は人だ。
動きには癖がある。
ナノは短槌を握り直した。
2回目。
バルドが今度は正面から来る。
ナノは受けずに横へ転がった。
義腕が空を切る。
砂が舞う。
「おっ」
バルドの声に少しだけ驚きが混じった。
ナノはそのまま短槌を振った。
狙いは義腕ではなく、足元。
だが、遅い。
バルドは軽く足を引き、ナノの肩を義腕で押した。
どん、と胸に響く衝撃。
ナノはまた倒れる。
「2回目。避けたのはいい。反撃が素直すぎる」
「はっ……はい……」
立ち上がる。
息が苦しい。
でも、さっきより周りが見えている。
3回目。
バルドはゆっくり近づいてきた。
速く来ない。
その分、圧がある。
ナノは気づいた。
相手の義腕は重い。
正面から受ければ負ける。
避けても、次の一手で押される。
なら、受け流すしかない。
黒鉄炉で石を叩いた時の感覚。
力を真正面から返すのではなく、筋を見る。
バルドの義腕が振られる。
ナノは短槌を斜めに当てた。
がん、と音が響く。
衝撃は重い。
だが、完全には受けない。
短槌の角度をずらし、義腕の力を横へ逃がす。
同時に、ナノは体を低くした。
バルドの義腕が横へ流れる。
ナノは息を吸い、相手の義腕の肘関節へ短槌を当てた。
軽い音。
痛めるほどの攻撃ではない。
だが、当たった。
バルドが動きを止めた。
試験場が静かになる。
ナノは肩で息をしていた。
「……今の、反撃になりましたか」
声は震えていた。
バルドは義腕を見て、それからナノを見た。
「なった」
ナノの胸が熱くなる。
バルドは続けた。
「弱い。遅い。足も悪い。武器の扱いも未熟だ」
「……はい」
「だが、考えて動いた」
バルドはラウネを見た。
「合格でいい」
ナノは一瞬、言葉を理解できなかった。
「え……?」
ラウネが書類に印を押す。
「ナノ。坑道ギルド、見習い登録を認めます」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
見習い。
登録。
認められた。
ナノは短槌を握ったまま、呆然と立っていた。
「おい」
グレンの声がした。
「返事」
ナノは慌てて頭を下げた。
「はっ、はい! ありがとうございます!」
声が試験場に響いた。
震えていた。
でも、逃げる声ではなかった。
ラウネは小さな鉄の札をナノへ渡した。
そこには、坑道ギルドの紋章と、ナノの名前が刻まれている。
「見習い証よ。なくさないこと」
ナノは両手で受け取った。
鉄の札は重かった。
たった一枚なのに、今まで手にしたどんなものより重く感じた。
神託塔で押された階層不適合の烙印とは違う。
これは、自分で掴んだ最初の証だった。
グレンが言う。
「明日から依頼を受ける」
「明日から……?」
「登録だけして満足するな。見習いは働いて覚える」
ナノは鉄の札を握りしめた。
「はい」
その返事は、静かだった。
だが、確かに腹に力が入っていた。
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