第13話 初依頼は錆鳴鼠
見習い証を受け取った翌朝、ナノは坑道ギルドの掲示板の前に立っていた。
ギルドの中は、前日よりもさらに騒がしく感じた。
早朝にもかかわらず、依頼を確認する冒険者や坑道夫たちで広間は埋まっている。濡れた外套を肩にかけた獣族の男、斧を背負ったドワーフの姉弟、革袋いっぱいに魔石を詰めた人族の商人。
それぞれが依頼書を見て、報酬を確認し、仲間と短く言葉を交わしている。
ナノはその中に立っているだけで、少し息苦しくなった。
昨日、見習い登録は認められた。
だが、それで急に強くなったわけではない。
ギルドの空気は、鍛冶場とは違う圧があった。
ここでは、仕事をこなせる者だけが残る。
役に立たなければ、誰も守ってくれない。
ナノは胸元の鉄札を指で触れた。
ひんやりとした金属の感触が、少しだけ現実に引き戻してくれる。
「緊張しているな」
グレンが隣で言った。
ナノは慌てて返事をした。
「はっ、はい……かなり」
「隠さなくなっただけましだ」
「隠しても、どうせバレるので」
「分かってきたな」
グレンは掲示板の下段を指した。
「見習いが受けられるのは、この辺りだ」
下段には、比較的小さな依頼書が並んでいた。
鉱石箱の運搬。
灯石の交換。
水路の詰まり確認。
低級魔石の仕分け補助。
その中に、赤い印がついた依頼書があった。
ナノはそこに目を留めた。
「これ……」
依頼名。
旧第3水路の錆鳴鼠駆除。
報酬、小銀貨3枚。
追加報酬、錆鳴鼠の錆嚢1つにつき銅貨4枚。
危険度、F上位。
推奨人数、2名以上。
「錆鳴鼠……?」
ナノが呟くと、グレンが説明した。
「さびなきねずみ、と読む。この辺りの坑道に出る小型魔物だ。鉄粉や赤錆鉱を食って増える」
「鼠なんですか」
「見た目は鼠だ。だが、普通の鼠と思うな。鳴き声で仲間を呼び、錆の粉を撒く」
ナノは依頼書の赤印を見る。
「F上位って、見習いが受けてもいいんですか」
「普通なら早い」
「じゃあ、やめた方が」
「だが、お前には必要だ」
グレンは依頼書を剥がした。
「旧採掘路の黒錆ゴブリンよりは弱い。だが、数が多い。石眼に頼りきると情報に呑まれる。今のお前にはちょうどいい」
ナノの喉が鳴った。
ちょうどいい。
ドワーフの基準は少し怖い。
「俺、石眼はまだ使いすぎない方がいいんですよね」
「そうだ」
「でも、魔物相手に使わずに大丈夫でしょうか」
「使うなとは言っていない。使い続けるなと言っている」
グレンはナノを見た。
「一瞬だけ見ろ。そして、あとは目と耳と足で戦え」
ナノは深く息を吸った。
怖い。
でも、昨日までの怖さとは少し違う。
登録した。
依頼を受ける。
報酬を得る。
これは、ナノが自分の足で進む最初の仕事だ。
「……受けます」
ナノは言った。
声は震えていたが、言い直さなかった。
「この依頼、受けます」
グレンは頷いた。
「なら、ラウネに持っていけ」
*
旧第3水路は、ガルバ坑道街の端にあった。
昨日の旧採掘路よりは狭く、天井も低い。水路というより、古い排水坑に近かった。壁の一部は崩れ、足元には赤茶色の錆水が浅く溜まっている。
湿った空気の中に、鉄臭い匂いが濃く漂っていた。
鼻の奥が痛くなるような匂いだった。
ナノは口元に布を巻き、鉄槌を握った。
同行者はグレンではなかった。
ミラだった。
「本当にミラさんが来るんですか?」
ナノが聞くと、ミラは腰の薬草袋を叩いた。
「あなた、まだ怪我人なのよ。グレンに任せたら、倒れるまで戦わせるでしょ」
「否定できないです」
「でしょう」
ミラは短い杖を持っていた。
先端には淡い緑色の石が埋め込まれている。彼女の手の甲にある石と似た色だった。
「私も戦闘は少しできるわ。ただし、前に出るのはあなた」
「えっ」
「見習いの初依頼でしょ。後ろで見てるだけじゃ依頼にならないわ」
「は、はい……」
「大丈夫。危なくなったら止める」
ナノは頷いた。
その「大丈夫」は、昨日の自分の大丈夫よりずっと信用できた。
水路の奥から、かすかな音がした。
きぃ。
きぃ。
金属を擦ったような鳴き声。
ナノの背筋が強張る。
「来たわね」
ミラが小さく言う。
ナノは息を整えた。
石眼を使うのは一瞬だけ。
一瞬だけ見る。
掌の紋様へ意識を向ける。
水路の奥、赤錆鉱の塊の近くに、小さな影が3つ見えた。
錆鳴鼠。
体長は人の腕ほど。
灰色の毛の間に、赤茶色の錆びた針のような毛が混じっている。前歯は黄色く、先端に金属のような光沢がある。背中には小さな錆嚢があり、そこから粉を撒くらしい。
頭の奥に文字が浮かぶ。
――錆鳴鼠。
――小型群棲魔物。
――弱点、耳裏の薄皮。
――錆嚢破裂に注意。
ナノはすぐに石眼を切った。
頭が少しだけ熱くなる。
だが、昨日ほどではない。
「3匹います。背中の袋は壊さない方がいい。耳の後ろが弱いみたいです」
「上出来」
ミラが短く言う。
その言葉で、ナノの緊張が少しだけほどけた。
錆鳴鼠がこちらへ気づいた。
きぃ、と鳴く。
その声は耳の奥を引っ掻くようだった。
1匹が跳ぶ。
ナノは鉄槌を構えた。
真正面から叩かない。
袋を壊さない。
耳の後ろ。
そう思ったが、相手は小さい。
速い。
「くっ……!」
ナノは横へかわし、鉄槌の柄で体を押し返した。
錆鳴鼠が壁にぶつかる。
すぐに起き上がる。
2匹目が足元へ来る。
「ナノ、足!」
「はっ、はい!」
ナノは後ろへ跳ぼうとした。
だが左足が遅れる。
錆鳴鼠の前歯が包帯をかすめた。
布が裂ける。
冷たい汗が背中を流れた。
噛まれていたら、また魔石毒が入っていたかもしれない。
ナノは息を整える。
焦るな。
小さい魔物に振り回されるな。
見る。
音を聞く。
鳴き声の方向。
水の跳ね方。
錆の匂い。
3匹目が鳴いた。
きぃ。
他の2匹がそれに合わせて動く。
指示を出している。
「あいつ……奥のが呼んでる」
ナノは呟いた。
ミラが頷く。
「群れの鳴き役ね」
「先に、あいつを」
ナノは足元の小石を拾った。
黒鉄炉の訓練を思い出す。
石の重さ。
筋。
投げる角度。
百錬成鋼は使いすぎない。
ただ、少しだけ体の芯を固める。
ナノは小石を投げた。
狙いは鳴き役の背中ではない。
耳の後ろ。
小石はまっすぐ飛ばなかった。
だが、ナノの手から離れる瞬間、わずかに軌道を修正するような感覚があった。
石が命中した。
鳴き役の錆鳴鼠が短く悲鳴を上げて転がる。
「今!」
ミラの声。
ナノは前へ出た。
残りの2匹が一瞬動きを乱す。
その隙に、ナノは鉄槌の柄で1匹目を押さえ、耳裏へ短く打ち込んだ。
鈍い音。
錆鳴鼠が動かなくなる。
2匹目が逃げようとする。
ナノは追った。
足が痛む。
だが、無理に走らない。
逃げる先を読む。
錆鳴鼠は錆鉱のある壁際へ向かう。
ナノは先回りし、低く構えた。
「こっちだ」
声は震えていた。
でも、逃げ腰ではなかった。
錆鳴鼠が跳ぶ。
ナノは鉄槌を横へ振らず、下からすくい上げるように当てた。
背中の錆嚢を避け、耳裏へ。
命中。
魔物が水路の中へ落ちた。
動かない。
ナノは肩で息をした。
「はっ……はぁ……」
静かになった。
錆水の流れる音だけが聞こえる。
ミラが近づいてきた。
「怪我は?」
「少し、かすっただけです」
「見せて」
「だ、大丈夫です」
「その言葉は信用しません」
「……はい」
ミラは包帯を確認し、小さく頷いた。
「出血はないわね」
ナノは錆鳴鼠の死骸を見た。
小さな魔物。
黒錆ゴブリンより弱い。
錆腕ゴブリンとは比べものにならない。
それでも、これは自分で受けた初依頼の魔物だった。
ミラが言う。
「錆嚢を回収しましょう。潰さないようにね」
「はい」
ナノは慎重に錆嚢を切り取った。
薄い袋の中に赤茶色の粉が詰まっている。薬にも、錆止めにも、低級の調合素材にもなるらしい。
依頼品。
報酬になるもの。
ナノはそれを小瓶に入れた。
手が少し震えていた。
ミラが横から見て言った。
「どうしたの」
「いや……俺、初めて自分で依頼をやったんだなって」
「そうね」
「父さんと母さんに、見せたかったです」
言った瞬間、胸が痛くなった。
ミラは何も言わなかった。
ただ、少しだけ近くに立っていてくれた。
その沈黙がありがたかった。
ナノは小瓶を握った。
錆嚢3つ。
小さな成果。
でも、初めて自分で掴んだ成果。
「帰りましょう」
ミラが言った。
「ギルドに報告しないと」
「はい」
ナノは頷いた。
その返事には、少しだけ誇りが混じっていた。
*
ギルドに戻ると、ラウネが報告書を受け取った。
「錆鳴鼠3匹。錆嚢3つ。状態も良好。初依頼としては上出来ね」
ナノは鉄札を握りしめた。
「あ、ありがとうございます」
「報酬は小銀貨3枚と銅貨12枚」
ラウネは小さな革袋を差し出した。
ナノはそれを受け取った。
重い。
大金ではないのだろう。
でも、ナノにとっては初めての冒険者報酬だった。
手のひらの上で、硬貨が小さく鳴る。
ちゃり。
その音を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。
「泣く?」
ラウネが聞いた。
「な、泣きません」
「声が泣きそうよ」
「……少しだけ、泣きそうです」
ラウネは笑った。
「正直でよろしい」
ナノは革袋を胸元に抱えた。
これは食べ物に使える。
薬にも使える。
道具も買える。
自分で稼いだ金。
奪われるだけではない。
ほんの少しだけ、選べるようになった金。
ギルドの扉が開き、グレンが入ってきた。
「終わったか」
「はい。錆鳴鼠、3匹倒しました」
「そうか」
グレンはそれだけ言った。
褒め言葉はない。
だが、ナノはもう少しだけ分かってきていた。
グレンの「そうか」は、見捨てていない時の言葉だ。
ナノは小さく笑った。
「明日も、石を磨きます」
グレンの目がわずかに動く。
「依頼を受けた後に、それを言うか」
「はい。たぶん、そっちも大事だと思ったので」
グレンは短く笑った。
「少しは分かってきたな」
ナノは胸元の鉄札と、報酬の革袋を握った。
無能ではない証明は、まだ終わっていない。
むしろ、始まったばかりだ。
でも今日、ナノは初めて、自分の力で小さな報酬を得た。
地底のギルドで。
錆の匂いが残る手で。
まだ弱いまま、それでも確かに前へ進んだ。
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