第14話 黒錆魔石の誘惑
初依頼の報酬は、小さな革袋に収まる程度の重さだった。
小銀貨3枚。
銅貨12枚。
ガルバ坑道街の冒険者たちにとっては、たいした額ではないのかもしれない。ギルドの広間では、もっと大きな袋を無造作に腰へ下げている者もいた。酒場の方からは、依頼を終えたドワーフたちの笑い声が響いている。
けれど、ナノにとっては違った。
その革袋は、やけに重かった。
手のひらに乗せると、硬貨が小さく鳴る。
ちゃり。
その音を聞くたび、胸の奥に熱いものが込み上げてきた。
自分で受けた依頼。
自分で倒した魔物。
自分で持ち帰った素材。
そして、自分で得た報酬。
平民街にいた頃、ナノは父の手伝いで石を運んだことがある。母の横で装飾石を磨いたこともある。けれど、それは家の仕事だった。父と母に守られている中での手伝いだった。
今、ナノが持っている硬貨は違う。
自分の足で坑道へ入り、自分の手で錆鳴鼠を倒して得た金だ。
その事実が、嬉しくて、痛かった。
「父さん……母さん……」
ギルドの外へ出たところで、ナノは小さく呟いた。
声は誰にも届かないほど小さかった。
地底の通路には、鍛冶場から流れてくる熱と、坑道の奥から染み出す冷気が混ざっていた。岩壁に埋め込まれた鉱石灯が淡く揺れ、通路を行き交うドワーフたちの影を長く伸ばしている。
その影の中で、ナノは革袋を握ったまま立ち止まった。
もし父が見ていたら、何と言っただろう。
よくやった、と笑っただろうか。
それとも、浮かれるな、まだ最初の一歩だ、と頭を叩いただろうか。
母なら、きっと涙ぐみながらも笑ってくれた。
そして、きっとこう言う。
ちゃんと食べなさい。
ナノは思わず、小さく笑った。
笑ったあと、すぐに胸が痛くなった。
喜びは、いつも悲しみと一緒に来る。
それを、この数日で嫌というほど知った。
「ナノ」
後ろから声がした。
振り返ると、ミラが立っていた。腰に薬草袋を下げ、腕を組んでいる。優しい顔をしているが、目だけは逃げ場を塞ぐように鋭い。
「報酬をもらって、感動しているところ悪いけど」
「は、はい」
「まず治療」
「……やっぱりですか」
「やっぱりです」
ミラは即答した。
「初依頼を終えた冒険者見習いが最初に覚えることは、報酬の使い方じゃないわ。生きて戻った体の確認よ」
「はっ、はい……」
「それと、今日は石眼を使った?」
ナノは少しだけ視線を逸らした。
一瞬だけだった。
だが、ミラは見逃さない。
「使ったのね」
「い、一瞬だけです。本当に一瞬だけで……錆鳴鼠の弱点を見るために」
「一瞬ならいい、とは言っていないわ」
「すみま……」
謝りかけて、ナノは口を閉じた。
ミラが軽く眉を上げる。
「今のは?」
「……ごめんなさいじゃなくて、報告します。石眼は使いました。でも、その後は自分の目と耳で動きを追いました」
ミラは少しだけ表情を緩めた。
「よろしい。隠さなかったのは成長ね」
ナノはほっと息を吐いた。
その瞬間、左足が少し痛んだ。
顔に出たのだろう。
ミラがすぐに気づいた。
「足」
「……少しだけ」
「少しだけ、という言葉はだいたい信用できないのよね」
ミラはナノの腕を取り、治療室へ向かわせた。
*
治療室は、黒鉄炉の熱から少し離れた岩壁の中にあった。
中は薬草の匂いが濃い。
乾いた草、潰した根、鉱石粉、消毒用の酒精。それらが混ざり、鼻の奥に苦く残る。壁には小瓶が並び、棚には包帯や薬草の束が整然と置かれていた。
ナノは石の椅子に座らされ、左足の包帯を解かれた。
傷口は少し塞がっている。
だが、周囲には赤みが残っていた。
ミラは指で傷の周囲を押した。
「っ……!」
ナノは息を詰めた。
「痛い?」
「は、はい……痛いです」
「正直でよろしい」
ミラは薬を塗り直しながら言った。
「魔石毒はだいぶ抜けているわ。でも、石眼を使うと体内の魔力循環が少し乱れる。あなたの場合、石紋がまだ安定していないから、傷の治りにも影響が出る」
ナノは掌を見た。
白い菱形の紋様は、昨日より赤みが薄くなっている。だが、完全に落ち着いてはいない。指の付け根あたりが、時々じんじんと熱を持つ。
「俺の体、そんなに弱いんですね」
「弱いわ」
ミラは容赦なく言った。
ナノは少し肩を落とす。
ミラは続けた。
「でも、弱いことは悪いことじゃない。弱いのに強いふりをすることが危ないの」
「……はい」
「あなたは、すぐ無理をする顔をする」
「顔に出てますか」
「出てるわ。グレンと違って、あなたはまだ嘘が下手」
ナノは苦笑した。
「グレンさんは、嘘がうまいんですか」
「うまいというより、表情が石みたいに硬いだけ」
その言い方が少しおかしくて、ナノは小さく笑った。
笑った瞬間、ミラが満足そうに頷いた。
「今の笑い方はいいわね」
「え?」
「作っていない笑い方」
ナノは少し戸惑った。
ここ数日、自分が笑っていいのか分からなくなることが多い。
父と母のことを思い出すと、笑った瞬間に罪悪感が胸を刺す。自分だけが地底で食事をし、治療を受け、報酬を得ていることが、どこか後ろめたい。
ミラは薬瓶の蓋を閉めながら言った。
「ナノ」
「はい」
「生き残った人間が笑うことは、裏切りじゃないわ」
ナノの息が止まった。
ミラは包帯を巻き直しながら、静かに続ける。
「大切な人を失った人ほど、笑うたびに苦しくなる。こんな時に笑っていいのか、自分だけ生きていていいのかって思う。でもね、笑えなくなることを、亡くなった人が望んでいたとは限らない」
ナノは何も言えなかった。
喉が詰まる。
「あなたのご両親が、あなたに何を望んだか、私は知らない。でも、あなたを生かすために逃がしたのなら、きっと生きてほしかったはずよ。ただ息をするだけじゃなくて、食べて、眠って、痛がって、怒って、いつか笑うことも含めて」
ナノの目に涙が浮かんだ。
すぐに拭おうとしたが、ミラが止めた。
「拭かなくていいわ」
「でも……」
「治療室では泣いてもいい」
その言葉で、少しだけ涙がこぼれた。
ナノは声を出して泣くことはしなかった。
ただ、俯いたまま、ぽつりぽつりと涙を落とした。
ミラは何も言わず、包帯を最後まで巻いた。
*
治療を終えたあと、ナノは黒鉄炉の奥へ呼ばれた。
そこにはグレンがいた。
炉の前ではなく、石材置き場のそばに立っている。彼の前には、小さな黒い箱が置かれていた。
見覚えがある。
旧採掘路で倒した錆腕ゴブリンから採取した、黒錆魔石を入れた箱だった。
ナノの掌が、反射的に熱を持った。
中の魔石が呼んでいるような気がした。
グレンはその反応を見逃さない。
「欲しそうな顔をするな」
ナノはびくりとした。
「す、すみ……じゃなくて、はい。欲しいです」
「正直だな」
「隠してもバレるので」
「少し学んだか」
グレンは箱を開けた。
中には、赤黒い魔石の欠片が入っている。
黒錆魔石。
黒錬鉱と赤錆鉱を喰らった魔物の中で歪み、変質した魔石。表面はざらつき、内部には赤い筋が血管のように走っている。
ナノは息を呑んだ。
美しいとは思わなかった。
だが、目を離せない。
危険なものほど、なぜか強く引きつける。
「これは、まだ吸収するな」
グレンが言った。
「……はい」
答えたが、声に未練が混じった。
グレンは魔石の欠片を黒い鉄板の上へ置く。
「今日は、吸収ではなく観察だ」
「観察……」
「お前は力を得ることを急ぎすぎている。魔石を見たら吸う。石を見たら割る。そういう癖がつくと、いずれ自分の体を壊す」
ナノは黒錆魔石を見る。
掌が熱い。
でも、触れない。
「まず、こいつが何でできているかを考えろ。石眼は使うな」
「使わずに……ですか」
「そうだ」
ナノは魔石を見つめた。
赤黒い表面。
黒い部分は黒錬鉱に近い。
赤い筋は赤錆鉱。
だが、その2つがただ混ざっているだけではない。ねじれ、絡まり、ところどころで互いに食い合っているように見える。
「黒錬鉱の硬さと、赤錆鉱の血に反応する性質が混じっている……んだと思います」
「続けろ」
「だから、錆腕ゴブリンは傷を負った相手に反応した。右腕が硬かったのは黒錬鉱。赤錆鉱が混じったせいで、凶暴化して、動きも不安定になった」
グレンは頷いた。
「悪くない」
ナノは少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、これを俺が吸収すると……体が硬くなるんですか」
「それだけなら楽だがな」
「違うんですか」
「黒錆魔石は歪んでいる。吸えば、肉体強化だけでなく、血流や神経に負担がかかる可能性がある。今のお前が吸えば、右腕だけ硬化して動かなくなるか、石紋が暴走するかもしれん」
ナノの背筋が冷えた。
「暴走……」
「力とは、都合のいいものだけ取り込めるわけではない」
グレンは魔石を金属のピンセットでつまみ、別の小瓶へ移した。
「だから加工する」
「加工?」
「魔石をそのまま吸収するのではなく、鍛えて、削って、余計な歪みを抜く。ドワーフはそれを魔石精錬と呼ぶ」
ナノは目を見開いた。
「魔石も……鍛えるんですか」
「当たり前だ。石も鉄も魔石も、使う前に整える」
グレンは小瓶をナノへ見せた。
「これを精錬して、お前が吸える形に近づける。ただし、今日明日では無理だ」
「どれくらいかかるんですか」
「お前の体次第だ」
また、それだった。
力は目の前にある。
でも、今の体では受け止められない。
ナノは悔しさで唇を噛んだ。
グレンが言う。
「悔しいか」
「……はい」
「なら磨け。鍛えろ。食って寝ろ。石を知れ。魔石を知れ。強くなるとは、吸うことだけではない」
ナノは黒錆魔石の入った小瓶を見つめた。
欲しい。
でも、今は届かない。
その距離を埋めることが訓練なのだと、少しずつ分かってきた。
「グレンさん」
「何だ」
「俺、この魔石をいつか吸収できるようになります」
「そうか」
「でも、その時は……ただ欲しいからじゃなくて、ちゃんと扱えるようになってから吸います」
グレンの口元が少しだけ緩んだ。
「その言葉、覚えておけ」
「はい」
「力が欲しくてたまらなくなった時ほど、今日の言葉を忘れる」
ナノは胸元のギルド札に触れた。
初依頼の報酬。
錆鳴鼠の錆嚢。
黒錆魔石。
白鈍石。
百錬成鋼。
石眼。
全部が、少しずつ自分を変えている。
だが、自分を失うための力ではない。
父と母が残してくれた命を、別の何かに乗っ取らせてはいけない。
ナノは深く息を吸った。
黒鉄炉の熱い空気が肺に入る。
少し苦しい。
でも、生きている感じがした。
*
その夜、ナノは白鈍石を磨いた。
戦闘も、魔石吸収もない。
ただ、磨く。
布で擦る。
角を確かめる。
濁りの奥にある筋を見る。
黒錆魔石の誘惑は、まだ掌の奥に残っている。あの赤黒い光を思い出すたび、指先が疼いた。
だが、ナノは白鈍石を磨き続けた。
地味で、遅くて、何も変わっていないように見える作業。
それでも、石は少しずつ光を返し始めていた。
ナノはそれを見つめながら、小さく呟いた。
「俺も……こうやって磨けば、変われるのかな」
答える者はいない。
けれど、白鈍石の奥に走る細い光が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
次の日、ナノはグレンに連れられ、ガルバ坑道街のさらに奥にある訓練坑道へ向かうことになる。
そこで待っているのは、ただの訓練ではない。
ドワーフ領の黒鉄を巡る、最初の本当の試練だった。
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