第15話 黒鉄試練坑道
黒鉄炉の火が、まだ眠たげな地底の空気を赤く染めていた。
ガルバ坑道街に朝の空はない。けれど、鍛冶炉の温度が上がり、岩壁に埋め込まれた鉱脈灯が淡く明るさを増す頃、街の者たちはそれを朝と呼ぶ。
ナノは工房の隅で、白鈍石を布に包んだ。
昨夜遅くまで磨いていた石だ。最初はただ白く濁っただけの小石に見えた。だが、何度も布で擦り、指先で表面の引っかかりを覚えるうちに、少しずつ変化が見えてきた。
石の奥には、細い光の筋がある。
石眼を使えば、一瞬で分かったかもしれない。
だが、今は違う。
ナノは自分の目で見つけた。
自分の指で、石の表面の変化を感じ取った。
それが、まだ小さいながらも確かな自信になっていた。
「ナノ」
グレンの声がした。
振り返ると、工房の入口にグレンが立っていた。いつもの煤けた作業着ではなく、今日は厚手の革鎧を着ている。肩当てには黒い鉱石板が縫い込まれ、腰には戦槌が下げられていた。
鍛冶師ではなく、坑道に入る戦士の姿だった。
「準備はできたか」
「はっ、はい」
ナノは慌てて立ち上がった。
灰色の作業服の上に、昨日ラウネから渡された見習い用の革帯を巻いている。胸元には坑道ギルドの鉄札。腰には小さな鉄槌。布袋には水筒、干し肉、簡易包帯、そして磨きかけの白鈍石。
持ち物は少ない。
だが、そのひとつひとつが、今のナノにとっては重かった。
「顔が硬い」
グレンが言う。
「き、緊張してます」
「それでいい」
「いいんですか」
「緊張しない見習いは、だいたい最初の落石で死にかける」
「……もっと緊張してきました」
「なら生き残る確率が上がったな」
グレンは平然と言った。
ナノは苦笑しようとしたが、うまく笑えなかった。
今日向かうのは、黒鉄試練坑道。
ガルバ坑道街の見習いが、正式な坑道依頼へ進む前に必ず入る訓練用の坑道だと聞いている。訓練用とはいえ、完全に安全な場所ではない。弱い魔物も出る。落石もある。鉱石の見誤りで道に迷うこともある。
そして今回、ナノはそこへ入る。
目的は、黒脈石の採取。
黒錬鉱よりも細く、岩の奥に脈のように走る鉱石で、鍛錬初期の素材として使われるらしい。
グレンは出発前に、ナノへ釘を刺した。
「今日は石眼を使いすぎるな」
「はい」
「見えない時に、すぐ石眼へ逃げるな」
「……はい」
「危ない時は使え。だが、楽をするために使うな」
ナノは胸の鉄札を握った。
ひんやりとした感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「分かりました。見る前に、ちゃんと考えます」
「その言葉を坑道の中でも覚えていればいいがな」
グレンはそう言って歩き出した。
*
黒鉄試練坑道の入口は、坑道街のさらに奥にあった。
そこへ向かう道は、いつもの鍛冶場や水路とは違っていた。壁が黒い。岩肌に黒錬鉱や黒脈石の細い筋が走っているせいで、通路全体が焦げたように見える。灯石の明かりも、そこでは少し暗く吸い込まれていた。
入口の前には、数人の見習いたちが集まっていた。
全員ドワーフだった。
ナノより背は低いが、体は分厚い。腕は太く、腰には小槌や短斧を下げている。顔つきも子どもというより、小さな職人という印象だった。
その中の1人が、ナノを見るなり眉を上げた。
「おい、グレン親方。その人族も入るのか?」
声には遠慮がなかった。
年はナノと同じくらいに見える。赤茶色の短い髪、額に黒い煤跡。胸元には鈍い灰色の石が埋まっている。目は鋭く、こちらを値踏みするように見ていた。
グレンが答える。
「そうだ」
「へぇ。人族が黒鉄試練坑道に?」
少年ドワーフはナノを上から下まで見た。
「細いな。石運びの荷車の方がまだ丈夫そうだ」
周囲の見習いたちが少し笑った。
ナノの胸が縮む。
神託塔の笑い声が一瞬だけ蘇った。
石って何だよ。
投げるのか。
置くだけだろ。
ナノは拳を握った。
ここで俯けば、また同じだ。
「……ナノです」
声は少し震えていた。
でも、顔は上げた。
「今日、試練に入ります」
少年ドワーフは目を細めた。
「俺はロガ。鍛冶見習いだ」
「ロガ……」
「言っとくけど、坑道は神託塔じゃない。数値じゃなくて、足と腕と目で生き残る場所だ」
ナノは息を呑んだ。
ロガの言い方はきつい。
だが、ただ馬鹿にしているだけではない気がした。
「分かってます」
ナノが答えると、ロガは鼻を鳴らした。
「分かってる声じゃねぇな。まぁいい。泣きながら戻るなよ」
「ロガ」
グレンの低い声が落ちる。
ロガの肩が小さく跳ねた。
「な、なんだよ」
「口の軽さで鉱石は割れん」
「……分かってるよ」
ロガは気まずそうに視線を逸らした。
入口の横には、片目の長老がいた。
黒曜のような腕石を持つ、あの長老だ。彼は集まった見習いたちを見回し、低く言った。
「今日の試練は、黒脈石の採取だ」
広場が静まる。
「1人1つ。黒脈石を採って戻れ。ただし、坑道内の鉱脈を壊しすぎるな。質の悪い石を持ち帰っても不合格とする」
ナノは喉を鳴らした。
質の見極め。
石眼を使えば、おそらく分かる。
だが、使いすぎてはいけない。
長老の片目がナノを捉えた。
「ナノ」
「は、はい」
「お前は石眼を持つ。だが、それだけで試練を抜けようとするな」
心を読まれたようだった。
「石が見える者ほど、石を見失うことがある」
「石を……見失う?」
「答えを急ぐ者は、石の声ではなく、自分の都合だけを聞く」
長老の声は重かった。
ナノは白鈍石を磨いた時の感覚を思い出した。
すぐには分からないもの。
触って、磨いて、待たなければ見えないもの。
「……分かりました」
ナノはゆっくり答えた。
今度の声は、少しだけ落ち着いていた。
長老は頷く。
「では、入れ」
黒鉄試練坑道の扉が開いた。
中から冷たい風が流れてくる。
鉄の匂い。
湿った岩の匂い。
そして、わずかな魔物の匂い。
ナノの左手の紋様が、かすかに熱を持った。
ロガが先に歩き出す。
「置いていくぞ、人族」
ナノは深く息を吸った。
「……行きます」
黒い坑道の闇が、口を開けて待っていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




