第73話 風石採掘場の亡骸
翌朝、浮石鹿は自分の脚で立ち上がった。
まだ不安定だった。
前脚へ力を入れるたびに体が傾き、胸元の傷が痛むのか、短く息を吐いていた。それでも、昨夜より瞳には明らかな光が戻っている。
体の周囲に落ちていた小石も、地面から指一本分ほど浮かんでいた。
弱い。
だが、風魔石の力は消えていない。
「無理に走らなくていい」
ナノが首元を撫でる。
「群れの近くまで一緒に行く」
浮石鹿は小さく鼻を鳴らした。
5人は森を南東へ進み、やがて木々の間から複数の白い影を見つけた。
浮石鹿の群れだった。
10頭ほど。
その多くは体の周囲に大小の石を浮かべ、警戒するようにこちらを見ている。
傷ついた浮石鹿が弱く鳴いた。
「きゅう」
群れの中から、大きな角を持つ1頭が前へ出る。
風が巻き起こった。
ナノたちへ警告するように、枯れ葉と小石が宙へ舞う。
「下がれ」
グレンが全員を止めた。
傷ついた浮石鹿は、ゆっくり群れへ向かう。
途中で一度ふらついた。
大角の浮石鹿が近づき、体を支える。
2頭は鼻先を触れ合わせた。
短い鳴き声が重なる。
ナノには、その光景が再会を喜んでいるように見えた。
胸が熱くなる。
「戻れたね」
エリナが静かに言った。
「ええ」
ナノは頷いた。
浮石鹿は群れへ入る直前、もう一度振り返った。
ナノを見る。
胸元の石紋が淡く反応する。
森を抜ける風が、頬へ触れた。
「行けって言ってるのかも」
ロガが言う。
「そうかな」
「俺には鳴き声の違いなんか分からねぇ。でも、そんな顔してた」
浮石鹿の群れは風を纏い、森の奥へ駆けていった。
小石が空中を流れ、白い体と一緒に木々の間へ消える。
ナノはその姿が見えなくなるまで見送った。
「助けられて、よかった」
言葉にした瞬間、ようやく実感が湧いた。
魔物を倒さずに終えた。
魔石を取らずに終えた。
ただ命を残し、群れへ返した。
これまでとは違う結果だった。
グレンが言う。
「喜ぶのはここまでだ。工房へ向かう」
「はい」
*
北東へ進むほど、森の景色は少しずつ変わっていった。
草が減る。
木々の葉が薄くなる。
風が吹いているのに、枝の揺れが弱い。
地面には緑色の石片が増えていた。
本来なら淡く光る風石なのだろう。
だが、どれも灰色に濁り、中心に小さな穴が空いている。
「力を抜かれた風石です」
ナノは石を拾わず、距離を保って観察する。
「数が多すぎる」
セイルの顔が険しくなる。
「この辺り一帯が、旧風石採掘場だった。閉山したのは10年以上前だが、低品質の風石はまだ残っていたはずだ」
「全部吸われたのか」
ロガが周囲を見回す。
山肌の一部が大きく削られ、古い坑口がいくつも開いている。
地底の坑道と違い、支柱はほとんど腐り、入口は蔦で覆われていた。
その周囲に、動物や魔物の亡骸が転がっている。
小鳥。
野兎。
風牙鳥。
小型の浮石獣。
どれも外傷が少ない。
ただ、目や皮膚の色を失い、乾いた抜け殻のようになっていた。
エリナが口元を押さえる。
「全部……力を抜かれてる」
セイルは膝をつき、風牙鳥の胸元を確認した。
「魔石が空だ。体内に残っているのに、中身だけがない」
ナノは動けなかった。
昨日、浮石鹿を救えた。
その喜びが、目の前の亡骸によって押し潰される。
助けられなかった命が、これほど多くある。
「もっと早く来ていたら」
自分でも気づかないうちに呟いていた。
「助けられたのかな」
ロガが横を見る。
「俺たちがここを知ったのは昨日だ」
「でも、誰かがもっと早く気づいてたら」
「それを言ったら、全部の場所にずっといなきゃならねぇ」
「分かってる」
分かっている。
それでも、悔しい。
胸の奥へ冷たい重りが沈む。
グレンが亡骸の前へ立った。
「ナノ」
「はい」
「助けられなかった命を、なかったことにするな」
ナノは顔を上げる。
「だが、見つける前の責任まで自分へ背負うな。お前が背負うべきなのは、今見たものを次へ残すことだ」
記録。
ラウネの手帳。
何が起きたか。
どれほどの被害があったか。
同じことを繰り返さないために残す。
ナノは震える手で手帳を開いた。
「書きます」
旧風石採掘場。
風石の大量枯渇。
生物の亡骸、確認数17。
外傷少数。
風魔石・生命力ともに欠損。
複数の吸魔針痕。
文字を書くたび、目の前の光景を切り取っているようで苦しかった。
だが、書かなければ、この命はただ消える。
セイルが風牙鳥のそばから黒い物を拾い上げた。
「外套の切れ端だ」
黒い布。
端には銀色の刺繍がある。
宝石商ギルドの紋章ではない。
3本の線が中央へ集まり、そこからさらに上へ伸びる模様。
吸魔針の収束記号。
「工房の者が使う紋章でしょうか」
エリナが聞く。
「可能性が高い」
セイルの手が震えていた。
「先生も、これを見たはずだ」
採掘場の奥から、低い音がした。
ごうん。
岩の内部で何か大きな器が動く音。
一定の間隔で繰り返される。
ごうん。
ごうん。
ナノの石紋が熱を持つ。
地面の下から、膨大な風の力を感じる。
風石。
魔石。
奪われた命。
すべてが1つの場所へ集められている。
「工房は地下です」
ナノが言った。
採掘場中央に、古い昇降機の跡がある。
木製の足場は新しく補強され、太い鎖が地下へ伸びていた。
外から見れば廃鉱。
しかし、内部では今も何かが動いている。
グレンが戦槌を抜く。
「ここからは、敵地だ」
セイルはレオンの手帳を胸元へ入れた。
エリナは鍵を握る。
ロガはナノの隣へ立ち、小槌を構えた。
「勝手に先へ行くなよ」
「ロガも」
「俺は行かねぇ」
「怒ったら行く」
「今日は怒らねぇ」
「本当?」
「多分」
ナノは小さく笑った。
笑える余裕はほとんどない。
それでも、隣にロガがいることを確かめられた。
5人は古い昇降機へ乗り込んだ。
鎖を外すと、足場がゆっくり地下へ沈み始める。
上空の光が遠ざかる。
石壁が周囲を囲む。
ナノは久しぶりに、地底へ戻る感覚を覚えた。
だが、ガルバ坑道街とは違う。
この地下には槌音も、炉の温かさも、仲間の暮らしもない。
あるのは、奪われた風が唸る音だけだった。
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