第71話 命に食い込んだ黒い針
浮石鹿の胸に刺さった吸魔針は、呼吸に合わせて黒く脈打っていた。
どくん。
細い針とは思えないほど鈍く重い音が、静まり返った森の中へ響く。
針の根元から伸びた黒い筋は、白い毛皮の下へ入り込み、胸部の風魔石を締めつけていた。さらに何本かは血管に似た形で全身へ広がり、残った魔力だけでなく、浮石鹿自身の生命力まで吸い上げている。
獣の呼吸は浅い。
「きゅ……ぅ……」
喉から漏れる声は、鳴き声というより、息をするたびにこぼれる苦痛だった。
ナノは膝をつき、浮石鹿の目を見つめた。
薄青色だったはずの瞳は、力を失って灰色に濁っている。それでも、こちらを見ようとしていた。逃げたい。怖い。けれど、もう脚へ力が入らない。
そんな感情が、視線だけで伝わってくる。
「大丈夫とは言えない」
ナノは静かに話しかけた。
「針を外す時、たぶん痛い。俺も失敗するかもしれない。でも……このまま何もしないより、助けられる可能性を選びたい」
言葉が通じているかは分からない。
それでも、浮石鹿は目を逸らさなかった。
ロガが獣の左側へしゃがむ。
「俺が体を押さえる。暴れたら声をかけろ」
「うん。でも、強く押さえすぎないで。胸の魔石が弱ってる」
「分かってる」
ロガの声はいつもより低かった。
軽口も、照れ隠しもない。
本当に助けたいと思っている時の声だった。
セイルとエリナは、浮石鹿の周囲に広がる術式環を探していた。
肉眼では見えない。
けれど、草の倒れ方や土の乾き方が不自然だった。獣を中心として、風が円を描きながら吸魔針へ集められている。
「外側の環は3つ」
セイルが地面へ剣先を向ける。
「交易路で見たものと似ている。ただ、今回は獣の風魔石を利用して環を維持している」
エリナが地面へ手をかざす。
「最初の環は左前脚の外側。2つ目は尾の後ろ。最後の1つは……」
彼女の眉が寄る。
「見つからない」
ナノは石眼を開いた。
白い光が視界を包み、浮石鹿を中心に複数の線が浮かび上がる。
外側の術式環。
左前脚。
尾。
そして3つ目は、地面ではなかった。
「上です」
ナノは顔を上げた。
「角にあります」
浮石鹿の頭部には、まだ短い枝角が生えている。その右側へ、黒く薄い輪が絡みついていた。風魔石から奪った力を、角を通して外へ送り出している。
「角を傷つけずに環だけ切れるか?」
グレンが尋ねる。
セイルが角を睨む。
「近づけば可能だ。でも、外側の2つと同時に切らないと、残った環へ力が集中する」
「なら合図を合わせる」
グレンは地面近くの環。
エリナは尾の後ろ。
セイルは角。
それぞれ位置についた。
ナノは浮石鹿の胸へ視線を戻す。
「外側を切ったら、針からの吸引が一瞬だけ弱くなります。その時に、俺が中の接続を外します」
グレンの目が鋭くなる。
「石眼を長く使うことになる」
「はい」
「限界を感じたら言え」
「言います。助けたいから、隠しません」
以前のナノなら、助けるためなら無理をして当然だと思っていた。
今は違う。
無理を隠せば、途中で倒れる。
倒れれば、浮石鹿だけでなく、そばで支える仲間まで危険に晒す。
助けたいからこそ、自分の状態を伝える。
それも魔石狩りで学んだことだった。
「始めるぞ」
グレンの声。
ナノは採取短刃を抜いた。
刃を針の根元へ近づける。
浮石鹿の体が小さく震えた。
「怖いよな」
ナノは囁いた。
「俺も怖い。でも、1人じゃない」
ロガが獣の首元を優しく押さえた。
「こいつ、危なっかしいけど、石を壊さず取るのは上手い。少しだけ信じてやってくれ」
「それ、褒めてる?」
「今は獣に話してる。黙って集中しろ」
ナノは少しだけ笑い、呼吸を整えた。
「合図します。3、2……1、今!」
グレンの槌が地面を打つ。
白い衝撃が最初の術式環を砕いた。
エリナの風術式が尾の後ろを走り、2つ目の輪が硝子のような音を立てて割れる。
同時にセイルの剣が角の先をかすめた。
黒い輪だけが切り裂かれる。
吸魔針が激しく震えた。
浮石鹿が悲鳴を上げる。
「きゅああっ!」
「ロガ、押さえて!」
「分かってる! 大丈夫だ、暴れていい! でも胸だけは動かすな!」
針からの吸引が一瞬弱まる。
ナノは石眼をさらに深く開いた。
胸部の風魔石。
その周囲へ食い込む黒い術式線。
外側の環は消えた。
しかし、針の先端から4本の黒線が魔石へ絡みついている。
1本目は魔力。
2本目は生命力。
3本目は血流。
最後の1本だけが、魔石の奥深くまで入り込んでいた。
「4本……」
ナノは呟いた。
「3本は外せる。でも最後が、魔石の芯に刺さってる」
グレンが低く聞く。
「切ればどうなる」
「魔石まで割れる可能性があります」
「抜けば」
「針に引かれて魔石ごと抜けるかもしれない」
時間がない。
外側の環が壊れ、吸魔針は不安定になっている。黒線が暴れ、浮石鹿の体内を傷つけ始めていた。
浮石鹿の脚が震える。
目から光が消えかける。
「ナノ」
ロガの声。
「今、何が必要だ」
責める声ではなかった。
迷うなとも言わない。
答えを一緒に探す声だった。
「最後の線を、針から切り離さないといけない。でも魔石側を切ると壊れる」
「なら、針側を削れ」
セイルが言った。
「針も術式具だ。接続の根元があるはずだ」
ナノは針の内部を見る。
黒い石の中。
4本の線が集まる小さな環。
針そのものの術式核。
「ありました」
「場所は?」
「針の根元、毛皮から出ている部分のすぐ下です。でも……小さい」
数粒の砂ほどしかない。
しかも浮石鹿の胸に接している。
槌では壊せない。
強く刃を入れても危険だ。
ナノは採取短刃を持ち直した。
石を壊すための刃ではない。
魔石を残すため、肉と鉱石の境目を分ける刃。
セリカから渡されたものだ。
「俺が削ります」
「できるか」
グレンの問い。
「怖いです」
正直に答える。
「手も震えてます。でも、今の俺にできるのはこれです」
ナノは短刃の先を、吸魔針の根元へ当てた。
右手が震える。
呼吸するたび、刃先も揺れる。
「ナノ」
ロガが名前を呼ぶ。
「焦るな。俺が押さえてる」
「うん」
「獣も逃げてない」
浮石鹿の灰色の瞳が、ナノを見つめている。
完全に力を失いかけている。
それでも目を閉じてはいなかった。
「……ありがとう」
誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。
ナノは短刃を動かした。
少しずつ。
針の外側を削る。
黒い石粉が浮かび、指へまとわりつく。
掌の石紋が熱を持つが、吸収しない。
今は力を得る時ではない。
命を残す時だ。
針の表面が薄くなる。
内部の術式核が見えた。
黒い小さな環。
「見えた……!」
ナノは刃先を環の隙間へ差し込んだ。
「切ります!」
手首を僅かに捻る。
ぱきん。
小さな音。
4本の黒線が同時に消えた。
吸魔針の光が弱まる。
「今だ、抜け!」
グレンの声。
ナノは針を直接持たず、短刃で少しずつ押し上げた。
胸部の傷から、黒い針が抜けてくる。
最後の先端が外れた瞬間、浮石鹿の体が大きく跳ねた。
「きゅあっ!」
ロガが必死に押さえる。
「大丈夫だ! もう終わった! 終わったから!」
針が地面へ落ちる。
エリナが即座に封印布を被せた。
浮石鹿の胸から淡い緑色の光が漏れ始める。
弱い。
しかし、消えてはいない。
風魔石が残っている。
「助かった……?」
ナノの声が震える。
石眼で確認する。
――吸魔術式、解除。
――風属性、枯渇重度。
――生命活動、維持。
――回復可能性、あり。
「生きています」
ナノは大きく息を吐いた。
「すぐには立てない。でも、魔石は壊れてない。回復する可能性があります」
ロガの手から力が抜ける。
「よかった……」
その声は、今まで聞いたことがないほど弱かった。
ナノもその場へ座り込んだ。
手が震えている。
額から汗が落ち、湿った土へ染み込む。
「怖かった」
ナノが呟く。
「途中で、壊したらどうしようって……刃を動かせなくなりそうだった」
ロガが隣へ座る。
「でも、動かした」
「うん」
「それで助かった」
浮石鹿がゆっくり目を閉じた。
今度は力尽きたのではない。
呼吸が少し深くなっている。
安心して眠ろうとしているように見えた。
森に風が戻り始める。
浮石鹿の周囲に落ちていた小石が、ほんの僅かに浮かび上がった。
吸魔術式に奪われかけた命を、初めて救うことができた。
それはナノが得たどの魔石よりも、重く、温かい成果だった。
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