第70話 風喰らいの工房へ
翌朝、森には薄い霧が残っていた。
夜露を含んだ苔が岩の表面を覆い、踏むたびに柔らかな水音がする。礼拝所の崩れた屋根から差し込む朝日は弱く、空全体が白く曇っていた。
ナノは外で手帳へ記録を書いていた。
宝石商ギルド地下。
レオンの私室。
人造種族石計画。
神託塔の技術提供。
中央神官院研究官ヴァルガス。
吸魔針に操られた警備員。
都市からの脱出。
書くべきことが多い。
感情のまま書けば文字が乱れるため、1行ごとに息を整えた。
ラウネなら、次に読む者が理解できるように書けと言う。
自分の怒りや恐怖だけで、事実を隠してはいけない。
「ずいぶん丁寧に書くようになったな」
グレンが後ろから言った。
「ラウネさんに直されるのが怖いので」
「それだけか」
ナノは少し考えた。
「俺たちが戻れなかった時、誰かが続きを追えるようにです」
口にした瞬間、少し怖くなった。
戻れない可能性。
死ぬ可能性。
だが、考えないふりをして進むより、記録を残しておきたかった。
グレンは手帳を覗き込み、短く頷いた。
「魔石狩り班らしくなったな」
褒められた。
大げさではない一言。
それでも胸が少し温かくなった。
「ありがとうございます」
「ただし、自分たちが戻ることを最初から諦めるな」
「はい。必ず戻ります」
「必ず、は軽く言うな」
「……戻るために考えます」
「それでいい」
*
出発前、エリナが全員へレオンの地図を見せた。
風喰らいの工房は、リュネア北東の森を越えた先、旧風石採掘場の近くにあるらしい。
「街道は使えない」
エリナが言う。
「ギルドは北門を出た私たちを追っている。正式な衛兵にも、盗まれた機密資料を持つ逃亡者として連絡される可能性がある」
「盗んだのではない」
セイルが不満そうに言う。
「相手はそう発表する」
エリナの声には苦さがあった。
自分が所属していた組織が、どうやって事実を歪めるかを知っている。
「森の旧道を使います。遠回りだけど、人目は少ない」
グレンが地図を確認する。
「魔物は」
「風石採掘場の周辺には、風属性の魔物が多い。風牙鳥、浮石獣、それから……最近、風を持たない個体が見つかっている」
「風を持たない?」
ナノが尋ねる。
「本来は風魔石を持つ魔物なのに、倒しても魔石が空になっている。翠風石と同じように」
風喰らいの工房が近い証拠だ。
ロガが小槌を確かめる。
「敵はギルドだけじゃなく、力を抜かれた魔物もいるってことか」
「力を抜かれた個体が、どう変化しているか分からない」
セイルが言う。
「弱くなっているだけならいい。でも、魔石喰いみたいに別の石を求めて暴れている可能性もある」
ナノは地底の複合魔石個体を思い出した。
イシ、ヨコセ。
イシ、イラナイ。
最後の声。
欲のまま石を求め、石に喰われた魔物。
同じものが、この森にもいるかもしれない。
「見つけた時は、最初から倒すと決めないでください」
ナノが言うと、グレンが目を向ける。
「理由は」
「人工術式で変えられているなら、核や針を外せば戻る可能性があります。魔石喰いは助けられなかったけど、次も同じとは限らない」
ロガが少し心配そうに眉を寄せる。
「助けようとして止まるなよ」
「分かってる。危険なら倒す。でも、先に見ます」
「俺が声をかけたら聞け」
「うん」
セイルが静かに言う。
「師匠も同じことを言った。石を壊す前に、なぜ壊れたかを見ろって」
ナノは頷いた。
「レオンさんを見つけましょう」
「ああ」
セイルの返事には、以前より強い覚悟があった。
*
5人は礼拝所を出て、北東の森へ入った。
道と呼べるものはほとんどない。
人の背丈ほどある草。
複雑に絡む木の根。
湿った岩。
少し進むだけで衣服が濡れ、靴の中へ泥が入り込む。
ナノは地上へ出てから、空の広さに驚き続けていた。
けれど森の中は、地底の坑道に少し似ている。
木々が壁。
枝葉が天井。
光の差す場所が道。
それでも、岩とは違い、すべてが動いている。
風で揺れ、成長し、音を立てる。
「ナノ」
ロガが立ち止まった。
「何か聞こえないか」
全員が息を抑える。
遠くから、かすかな鳴き声。
きゅう。
きゅう。
鳥とも獣とも違う、苦しそうな声だった。
同時に、風が弱くなる。
葉の動きが止まる。
「近い」
セイルが剣へ手を伸ばした。
草を掻き分けると、小さな空き地へ出た。
中央に、白い獣が倒れていた。
鹿に似ている。
だが体の周囲に、浮かぶ小石がいくつもある。本来なら風の力で石を浮かせる魔物なのだろう。
今、小石は地面へ落ちていた。
獣の胸元には、黒い吸魔針が突き刺さっている。
呼吸は浅い。
目は恐怖で見開かれている。
ナノたちを見た瞬間、逃げようと脚を動かした。
だが立てない。
「生きてる」
ナノが前へ出る。
「待て」
グレンが止める。
獣の周囲の土には、黒い線が広がっている。吸魔針がまだ力を送っている証拠だ。
ナノは距離を保ったまま石眼を開いた。
――浮石鹿。
――風魔石、胸部。
――風属性、枯渇進行。
――吸魔針、外部接続中。
――生命力吸引、開始。
――残存時間、僅少。
「風の力だけじゃない。命まで吸われ始めてます」
ナノの声が震えた。
「このままだと死にます」
「針を抜けば」
ロガが聞く。
「周りの術式環を壊さないと逆流します。交易路の時と同じです。でも……今回は、術式環が体の中にも入ってる」
黒い線が、獣の血管と絡んでいる。
無理に抜けば、魔石ごと壊れるかもしれない。
浮石鹿が弱く鳴いた。
きゅう。
痛い。
助けて。
そう聞こえた。
ナノの胸が締めつけられる。
「助けたい」
ロガが横へ立つ。
「どうすればいい」
止めるのではなく、方法を聞いた。
そのことが、ナノには心強かった。
「外側の術式を切って、針への流れを弱めます。その間に、俺が魔石と針の境目を見ます」
「石眼を長く使うことになるぞ」
グレンが言う。
「分かっています」
「途中で限界が来たら」
「言います。助けたいからこそ、無理を隠しません」
グレンは数秒、ナノを見つめた。
「やれ」
短い許可。
セイルとエリナが外側の風環を探す。
ロガは浮石鹿が暴れた時に押さえる位置へ動く。
グレンは戦槌を構え、黒い線の集中点を狙う。
ナノは膝をつき、浮石鹿の目を見た。
「今から針を外します。怖いと思う。でも、できるだけ傷つけない」
言葉が通じるかは分からない。
それでも伝えたかった。
浮石鹿は逃げなかった。
弱い呼吸を繰り返しながら、ナノを見ている。
「始めます」
風喰らいの工房へ向かう森の中で、ナノたちは初めて、吸魔術式に奪われかけた命を救うための戦いへ踏み込んだ。
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