第69話 神託塔の技術
リュネアを離れて数時間後、一行は森の中にある古い礼拝所へ身を寄せた。
屋根の半分は崩れ、壁には蔦が絡みついている。かつて旅人が祈りを捧げた場所なのか、正面には顔の削れた石像が立っていた。
外はすでに暗い。
細い月が雲の間から覗き、森の地面を青白く照らしている。風が木々の間を抜けるたび、枝葉がざわざわと鳴った。
ナノはその音を聞きながら、ようやく風があることに安心している自分に気づいた。
風が動く。
音がある。
何かに吸われていない。
それだけで、少し呼吸が楽になった。
礼拝所の中央では、グレンとセイルがレオンの手帳を調べている。
エリナは崩れた祭壇に座り、膝を抱えていた。リュネアを出てから、ほとんど言葉を発していない。
ロガが小さな炉へ薪を足す。
「エリナさん、何か食べた方がいい」
差し出したのは、硬い黒麦パンだった。
エリナは反応しない。
ロガが困った顔でナノを見る。
「俺、こういう時なんて言えばいいか分からねぇ」
「俺も分からない」
「お前、いつも何か言うだろ」
「言えばいいってものじゃないと思う」
ナノはエリナの隣へ座った。
少し距離を空ける。
近づきすぎれば、慰めを押しつけるような気がした。
「食べられないなら、今は持っているだけでもいいと思います」
ナノが言うと、エリナが僅かに顔を上げた。
「持っているだけ?」
「俺も、両親を失った直後は食べられませんでした。でも、ミラさんに『食べられないなら手に持ってなさい』って言われました。匂いを嗅いで、少しずつ口へ入れればいいって」
エリナは黒麦パンを見る。
「今の私は、何を失ったのかも分からない」
掠れた声。
「ギルドを失ったのか。仲間を裏切ったのか。最初から、私が信じていたものなんて存在しなかったのか」
「分からなくてもいいと思います」
「あなたは簡単に言うのね」
声に苛立ちが混じった。
ナノは黙った。
傷ついている相手へ、自分の経験を重ねすぎたのかもしれない。
「……すみません」
「違う」
エリナが目元を押さえる。
「あなたが悪いんじゃない。私が、何を言われても受け止められないだけ」
長い息を吐く。
「ギルドには、優しい人もいた。マルクもそう。毎朝、受付へ花を持ってきてくれた。あの人が吸魔針で操られているのを見たのに、私は逃げた」
「逃げたんじゃありません」
「でも置いてきた」
ナノの胸が痛む。
自分も、父と母を置いて逃げた。
逃げろと言われた。
それでも、置いてきたという罪悪感は消えなかった。
「置いてきたことを、すぐ許さなくていいと思います」
ナノはゆっくり言った。
「俺も自分をまだ許せていません。でも、生きて戻ることが、置いてきた人を忘れることじゃないって少し分かりました」
エリナの目から涙が落ちる。
「戻れると思う?」
「分かりません」
ナノは嘘をつかなかった。
「でも、戻るために証拠を守ることはできます。マルクさんを助ける方法も、これから探せます」
エリナは手の中のパンを握った。
すぐには食べなかった。
それでも、床へ置かなかった。
*
「ナノ、来てくれ」
セイルの声がした。
手帳のページが何枚も開かれている。
インクの色は途中から薄くなり、文字も乱れていた。レオンが急いで記録したことが分かる。
「ここだ」
セイルが1つの図を指す。
円形の器。
中央に黒い人工核。
周囲に8つの石。
それぞれ異なる記号が描かれている。
人族。
ドワーフ。
エルフ。
獣族。
悪魔。
妖怪。
竜人。
ホムンクルス。
8種族の種族石を示している。
「新たな種族石の創造」
ナノが呟く。
レオンの手帳には、さらに文章が続いていた。
『計画の目的は、8種族の種族石を統合し、人工的に第9の種族石を生み出すこと。完成すれば、既存の種族制約を超え、すべての属性へ適合する器となる』
「すべての属性へ適合……」
ナノの喉が乾く。
自分の【石】に似ている。
種族石を吸収し、異なる種族の力を体へ馴染ませていく能力。
グレンも同じことを考えたのか、険しい顔でナノを見る。
「人工的に、お前と似た器を作ろうとしている」
「でも、俺は人工的に作られたわけじゃ……」
言葉が止まった。
本当にそうなのか。
自分の固有スキル【石】は、神託塔で無能と判定された。
だが、神託塔が人造種族石計画へ関わっているなら、ナノのスキルについて何か知っていた可能性がある。
無能と判定したのではなく、隠した。
王都から追い出すために。
あるいは、成長する前に処分するために。
胸の奥が冷たくなる。
「俺の神託結果は……本当に偶然だったんでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
火の弾ける音が大きく聞こえる。
グレンが低く言う。
「今ある情報だけでは断定できん」
「でも可能性はある」
「ある」
その一言が重く落ちる。
ナノは自分の掌を見る。
白い菱形の石紋。
谷底のダイヤモンドで目覚めた力。
これは自分の力だと思っていた。
けれど、誰かに作られたものだったら。
自分自身だと思っていたものまで、計画の一部だったら。
「ナノ」
ロガが呼ぶ。
「顔が真っ白だぞ」
「怖い」
言葉が自然に出た。
「自分が自分じゃないみたいで怖い。俺の力も、両親が死んだことも、全部誰かに決められていたら……」
「誰かが何かを仕組んでても、お前がここまで来たことまで、そいつらのものじゃねぇ」
ロガの声が強くなる。
「黒脈石を削ったのはお前だ。魔石を欲しがって、それでも止まったのもお前だ。俺と相棒になったのも……まあ、それは俺もだけど」
最後だけ少し声が弱くなった。
「お前が何から生まれたか知らなくても、今まで選んだことは消えねぇだろ」
ナノは目を閉じた。
自分の出自がどうであっても。
父と母を愛していたこと。
グレンに教わったこと。
ロガの声で戻ったこと。
自分で選んだことまで、人工術式には奪えない。
「……うん」
まだ怖い。
答えは出ていない。
それでも、立っていられる気がした。
セイルが次のページを開く。
そこには、神託塔の紋様と、1人の名前が記されていた。
『神託技術提供者――中央神官院研究官、ヴァルガス』
ナノはその名を知らなかった。
だが、文字を見た瞬間、石紋が僅かに熱を持った。
まるで体の奥に、その名前を知っている何かがあるように。
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