第68話 都市を出る代償
夕暮れのリュネアは、昼間とは別の顔を見せていた。
市場の露店は次々と布を下ろし、通りの両脇に並ぶ宝石灯へ火が入れられていく。赤、青、緑の光が石畳へ滲み、走るナノたちの影を何重にも伸ばした。
美しい街だった。
けれど今、その輝きのすべてが監視の目に見えた。
「西門は使えない!」
エリナが息を切らしながら叫ぶ。
「ギルドから最も近い。もう連絡が行っているはず」
「裏門は」
セイルが聞く。
「宝石搬入用の北門。夜間は閉じられるけれど、まだ間に合うかもしれない」
一行は細い路地へ入った。
店と店の間に挟まれた道は狭く、窓から干された布が頭へ触れる。夕食を作る香辛料の匂い、焼けた油、排水溝の湿った悪臭。昼間には気づかなかった都市の生活臭が、息を吸うたび胸へ入ってきた。
ロガは走りながら後方を見る。
「追ってきてるぞ!」
角を曲がった先に、白い灯石が揺れている。
ギルド警備の男たち。
少なくとも6人。
鎧の上から黒い外套を羽織り、胸元には宝石商ギルドの紋章がある。
そのうち何人が事情を知り、何人が命令へ従っているだけなのか分からない。
「戦うな」
グレンが言う。
「都市内で警備員を傷つければ、こちらが犯罪者になる」
セイルが唇を噛む。
「もう向こうは俺たちを犯罪者として追ってる」
「だからこそ証拠を持って出る。ここで戦って手帳を失えば、何も残らん」
正しい。
けれど、追跡者は確実に距離を縮めている。
ナノは胸元の護符を握り、周囲を見る。
右側に宝石加工店。
左側に空の荷車。
前方には石橋。
橋の下には都市内を流れる水路がある。
「橋を渡ったあと、荷車を倒せば道を塞げます」
「市民が巻き込まれる」
グレンが即座に答える。
確かに橋の向こうには人がいる。
買い物帰りの女性。
子ども。
荷物を運ぶ獣族。
焦りで周りが見えなくなっていた。
「……すみません」
「別の道を考えろ」
グレンは責めるのではなく、次を求めた。
ナノは息を整える。
壊す以外の方法。
追跡者を止めるのではなく、こちらを見失わせる。
石橋の欄干には、青い水石が一定間隔で埋め込まれている。夜になると水路から魔力を吸い、霧を防ぐ仕組みだろう。
「セイルさん、水石の防護を一時的に逆転できますか」
「何をする気だ」
「霧を防ぐんじゃなくて、水を霧に変える」
セイルが橋を見る。
「できるかもしれない。でも都市の設備へ勝手に触れることになる」
「もう追われています」
セイルは僅かに笑った。
「お前、思ったより言うな」
橋へ到達する。
セイルは走りながら青い水石へ手を伸ばし、胸元の鑑定石を重ねた。
「術式を読む。ナノ、向こうの石を見ろ。全部連動しているはずだ」
ナノは石眼を短く開いた。
――都市水路防護石。
――水属性。
――霧散抑制。
――接続順序、北から南。
「一番北の石が始点です! あれを逆に流せば、全部変わります!」
セイルが最初の水石へ剣先を当てる。
青い光が揺らぐ。
「術式を反転させる。少し時間を稼げ!」
追跡者が橋へ入ってきた。
「止まれ!」
先頭の男が剣を抜く。
目は正常に見える。
吸魔針で操られてはいない。
「手帳を返せ! それはギルドの所有物だ!」
エリナが立ち止まりかけた。
「ギルドの……」
長年、記録はギルドの財産だと教えられてきた。
レオンの私室も、手帳も、本来ならギルドに属する。
男の言葉が、エリナの迷いを刺激した。
セイルが声を上げる。
「先生の記録だ! 先生を消した奴らに渡せるか!」
「ギルド長は事実確認をすると言っている!」
「なら、なぜ吸魔針で警備員を操った!」
男の顔が僅かに揺れた。
「何の話だ」
知らない。
本当に何も知らないのかもしれない。
エリナは唇を震わせた。
「マルクが……首に黒い針を埋め込まれていたの。自分の意思を失って、私たちを追ってきた」
警備員たちの間に動揺が走る。
「嘘だ」
「地下換気路へ行けば分かるわ!」
「黙れ!」
後方にいた黒い外套の男が叫んだ。
他の警備員とは声が違う。
冷たく、感情がない。
男は腰から細い黒い針を取り出した。
ナノの石紋が強く熱を持つ。
「吸魔針です!」
男が針を橋の水石へ投げる。
黒い針が青い石へ突き刺さる。
水石の光が一瞬で黒く濁った。
セイルが顔を歪める。
「術式を乗っ取られた!」
水路から水が立ち上がった。
霧ではない。
細い水の槍が何本も形成され、ナノたちへ向く。
市民が悲鳴を上げる。
橋の上が混乱する。
「全員伏せろ!」
グレンが前へ出る。
戦槌を石橋へ叩きつけた。
「白剛震槌!」
白い衝撃が橋を走り、水の槍を揺らす。
完全には消えない。
ナノは水石の接続を見る。
黒い針が始点を奪い、すべての水石へ命令を流している。
「針を抜けば止まります!」
「近づけねぇぞ!」
ロガが水の槍を避けながら叫ぶ。
ナノの右腕が熱を持つ。
鉄鋼魔石と鱗硬化魔石の共鳴。
硬さを作り、水の衝撃を散らせば、針へ届く。
完全黒錆はない。
だから欲に飲まれる危険は低い。
「俺が行きます!」
「待て!」
ロガの声。
ナノは振り向く。
「正面から行くな。俺が槍を引きつける」
「危ないよ」
「お前だけが危ない役をするな!」
怒鳴り声。
そこには苛立ちだけでなく、置いていかれる恐怖があった。
「相棒なら、役を分けろ」
ナノは息を呑んだ。
「……分かった」
ロガが左へ走る。
欄干を小槌で叩き、大きな音を出す。
「こっちだ!」
水の槍がロガへ向きを変える。
ロガは小柄な体で橋の上を走り、槍をぎりぎりで避ける。
ナノは鉄鋼共鳴を発動した。
「百錬成鋼……微!」
右腕と肩に硬い膜が広がる。
水の飛沫を受けながら、水石へ走る。
黒い針が近づくほど、石紋が嫌な熱を帯びる。
吸われる。
けれど、止まらない。
針へ直接触れず、セリカから受け取った採取短刃を隙間へ差し込む。
「抜けろ……!」
針が深く刺さっている。
水の槍がナノへ戻ろうとする。
「ナノ、早く!」
ロガの声。
ナノは両手で短刃を握った。
力任せに引けば水石が割れる。
石を壊さず、異物だけを外す。
魔石狩りで学んだ手つき。
針の周囲を少しずつ緩める。
ひびを避ける。
石の声を聞くように。
「今だ」
ナノは短刃を捻った。
黒い吸魔針が抜ける。
水の槍が一斉に崩れ、雨のように橋へ落ちた。
セイルが即座に水石の術式を反転させる。
大量の霧が水路から立ち上がり、橋全体を白く包んだ。
「走れ!」
5人は霧の中を北門へ向かった。
背後で警備員たちの声が遠ざかる。
誰が味方で、誰が敵だったのか。
確かめる余裕はない。
北門を抜けた時、街の鐘が激しく鳴り始めた。
警戒を告げる音。
エリナは門の外で一度だけ振り返った。
夕闇の中に、宝石商ギルドの尖塔が見える。
「私は……もう戻れない」
声が震えていた。
ナノは軽い言葉で慰めることができなかった。
戻れると言えば嘘になる。
すべて元通りになるとも言えない。
「帰る場所は、同じ形じゃなくても作れると思います」
ナノは胸元の護符に触れた。
「俺も、王都には帰れなくなりました。でも、ガルバ坑道街が帰る場所になりました」
エリナの目に涙が浮かぶ。
「今は、そう思える気がしないわ」
「今すぐ思わなくていいです」
ナノは答えた。
「失ったって感じてもいいと思います。俺も、ずっとそうでした」
エリナは涙を拭わなかった。
都市を出るということは、ただ門を越えることではない。
自分が積み上げてきたものを背後へ置き、戻れない可能性を受け入れることだった。
一行は夜の街道を北東へ進み始めた。
目的地は、風喰らいの工房。
背後では、リュネアの警戒鐘がいつまでも鳴り続けていた。
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