第66話 地下室を包囲する者たち
扉の向こうから聞こえる足音は、ゆっくりと近づいてきた。
こつ。
こつ。
石造りの地下通路に、硬い靴底の音が乾いて響く。人数は少なくない。鎧の金具が擦れ、誰かが剣を鞘から抜く音も混じっている。
「ギルド長の命令だ」
扉越しの声が、もう一度響いた。
「室内にある手帳と試料を机へ置け。抵抗しなければ、事情を確認するだけで済む」
確認。
その言葉が、ナノには妙に冷たく聞こえた。
レオンの手帳には、宝石の力を人造の器へ集める計画と、神託塔から技術提供を受けていることが記されている。これほど重大な証拠を見つけた直後に現れた者たちが、ただ事情を聞くだけとは思えなかった。
部屋の中には、古い紙と埃の匂いが漂っている。
机の上では、淡い緑色の魔力が封じられた小瓶が、呼吸するように明滅していた。石ではなく、翠風石から抜かれた力だけが渦を巻いている。その不自然な光が、室内にいる全員の顔を青白く照らしていた。
セイルは手帳を胸へ抱き込んでいる。
指先が白くなるほど強く握りしめ、扉を睨みつけていた。
「事情を確認だって?」
声に、隠しきれない怒りが滲む。
「先生の部屋を封じて、証拠を隠しておいて、今さら何を確認するつもりだ」
「セイル、声を抑えて」
エリナが囁いた。
けれど、彼女自身の声も震えていた。顔は青ざめ、机の鍵を握った右手には汗が浮いている。
「私が案内したことは、もう知られている。外に出れば、私も拘束されるわ」
「今さら怖くなったのか」
セイルの言葉が鋭くなる。
エリナの肩が小さく揺れた。
「怖いに決まってるでしょう!」
押し殺していた感情が、一瞬だけ声になって噴き出した。
「私はここで働いてきたの。何年もよ。知っている顔ばかりなの。廊下の向こうにいる人たちだって、一緒に食事をしたことがあるかもしれない。もしかしたら、何も知らずに命令へ従っているだけかもしれない。それでも……今から、その人たちを敵として見なきゃいけないのよ」
言葉の最後が掠れた。
セイルは何も言い返せなかった。
ナノはエリナの表情を見つめた。
裏切ることを恐れているのではない。
自分が信じていた場所が、最初から正しくなかった可能性を恐れている。
もし宝石商ギルドが人造魔石計画へ関与しているなら、エリナが守ってきた記録も、鑑定士として過ごした時間も、そのすべてに嘘が混じっていたことになる。
ナノには、その痛みが少しだけ分かった。
神託塔を信じていた。
神託は絶対で、与えられた結果こそが自分の価値だと思っていた。
けれど、その神託塔が人造魔石計画へ関わっている。
自分を無能と判定した場所が、最初から何かを隠していたのかもしれない。
「エリナさん」
ナノは静かに呼びかけた。
「怖いままでいいと思います」
エリナがこちらを見る。
「俺も、神託塔が関わっていると知って怖いです。自分の人生が、最初から誰かに作られていたみたいで。でも……今ここで手帳を渡したら、怖かった理由まで消される気がします」
エリナの唇が震えた。
「だから、持って出ましょう。真実かどうか、俺たちで確かめるために」
しばらくの沈黙。
扉の外で、鎧が鳴った。
「返答がない場合、扉を開ける」
今度の声には、明確な威圧があった。
グレンが部屋を素早く見回す。
扉は1つ。
窓はない。
壁は厚い石造り。
正面から戦えば、狭い室内で追い詰められる。
「別の出口は」
エリナが首を横に振りかけ、途中で止まった。
「……先生が、地下の換気路について話していたことがある」
「どこだ」
「本棚の裏。でも、入口を開く仕掛けは分からない」
ナノは壁一面の本棚を見る。
埃を被った本。
鑑定記録。
宝石図鑑。
床には長い間動かされた形跡がない。
だが、本棚の右端だけ、床の埃がわずかに途切れている。
「右側です」
ナノが指差した。
「この棚だけ、床の傷が新しい」
ロガが棚へ駆け寄り、両手で押した。
「動かねぇぞ」
「引くんじゃなくて、どこかに留め具がある」
セイルが棚の本を乱暴に抜き始める。
「先生なら、石に仕掛けを隠す」
エリナが呟いた。
「鑑定士以外には分からないように」
ナノは本棚を見つめた。
装飾石が5つ埋め込まれている。
赤。
青。
黄。
白。
緑。
一見すると飾りだが、緑色の石だけ表面に埃が少ない。誰かが何度も触れた跡だ。
「これです」
ナノが手を伸ばしかけ、止める。
「セイルさん、鑑定できますか」
セイルが緑の石へ指を近づける。
「風石だ。ただし、魔力はほとんどない」
「力を入れるんじゃなくて、抜く仕掛けかもしれません」
「どういうことだ」
「レオンさんは、力を抜かれた石を調べていた。なら、石から魔力が消えた時に動く仕掛けを作った可能性がある」
セイルは息を呑んだ。
胸元の青い鑑定石を外し、緑の石へ近づける。鑑定石が淡く光り、緑の石に残っていた僅かな魔力を吸い上げた。
かちり。
壁の奥で、小さな金属音がした。
ロガが本棚を押す。
今度はゆっくり動いた。
埃が舞い、古い空気が流れ出す。
本棚の裏には、人ひとりが通れるほどの暗い穴が開いていた。
「換気路です」
エリナの声に、安堵と恐怖が同時に混じった。
扉が強く叩かれる。
「開けるぞ!」
木材が軋んだ。
時間がない。
グレンは即座に指示を出した。
「エリナとセイルが先。手帳と試料を持て。ナノ、ロガ、続け。俺が最後に入る」
「グレンさんが残るなら、俺も」
「残るとは言っていない」
「でも、扉を止めるんですよね」
「数秒稼ぐだけだ」
ナノは言い返そうとした。
グレンの目が鋭くなる。
「今のお前の役目は、証拠を外へ運ぶことだ。守られるのが嫌だからと、必要のない場所へ立つな」
胸へ刺さる言葉だった。
それでも、間違っていない。
「……必ず来てください」
「命令するな」
「お願いです」
グレンは一瞬だけ黙った。
「ああ」
短い返事。
それを聞いて、ナノは換気路へ入った。
内部は狭く、湿った石の匂いが濃い。膝をつかなければ進めない高さだった。
前を進むエリナの息遣いが荒い。
セイルは片手で手帳を抱え、もう片方の手で暗闇を探っている。
後ろから、扉が破られる音がした。
どん。
木片が飛び散る。
「室内を確認しろ!」
男たちの声。
直後、グレンの戦槌が石床を叩いた。
ごうん。
換気路全体が震え、後方から大量の埃が吹き込んでくる。
「グレンさん!」
ナノが振り返る。
暗闇の奥から、低い声が届いた。
「前を向け!」
その声に押され、ナノは進んだ。
狭い通路の中で、胸元の札が石壁へ当たり、かすかな音を立てる。
証拠を運ぶ。
生きて外へ出る。
今はそれが、自分に任された役目だった。




