第65話 消えた鑑定士の手帳
夕刻になっても、上級鑑定士ハイゼンは戻らなかった。
宝石商ギルドの窓から差し込む光が、白から橙色へ変わっていく。展示棚の宝石も、昼間とは異なる深い色を帯び始めていた。
ナノたちは応接室で待ち続けていた。
壁には歴代鑑定士の肖像画が並んでいる。
どの人物も豪華な服をまとい、胸元に大きな宝石をつけていた。その中に、セイルが何度も目を向ける肖像があった。
黒髪に白い筋が混じった、穏やかな目の人族男性。
「レオン先生?」
ナノが尋ねる。
セイルは頷いた。
「ああ。6年前の鑑定競技会で優勝した時の絵だ」
「優しそうな人ですね」
「優しかった。石に対しては、誰より厳しかったけどな」
「どんなふうに?」
セイルは少しだけ笑った。
「俺が高価な宝石ばかり見たがった時、道端の石を100個持ってこいと言われた」
ナノは目を瞬いた。
「100個?」
「全部の違いを説明できるまで、宝石には触らせないって」
グレンが小さく頷く。
「まともな鑑定士だ」
「当時は嫌いになりかけたけどな」
「でも、今は分かる?」
セイルの笑みが消える。
「ああ。値段の高い石だけを見る奴は、石じゃなくて価値札を見ている。先生はそう言っていた」
魔石狩りで教えられたことと似ている。
欲しい石ではなく、必要な石を選ぶ。
力だけではなく、石が生きてきた記録を見る。
レオンという鑑定士も、石を道具としてだけ扱う人物ではなかったのかもしれない。
扉が開いた。
入ってきたのはエリナだった。
顔色は昼間より悪い。
周囲を気にするように廊下を振り返り、扉を閉めて鍵をかける。
セイルが立ち上がった。
「何を隠してる」
「声を抑えて」
エリナは胸元から小さな鍵を取り出した。
「ハイゼン様は戻らない。評議会が長引いているんじゃない。あなたたちに会わせないために、別館へ移された」
「誰の指示だ」
「ギルド長よ」
室内の空気が張りつめる。
グレンが低く聞く。
「理由は」
「人工核を持ち込んだ者と接触させるな、と」
「やはり知っていたのか」
エリナは唇を噛んだ。
「私は詳しく知らない。本当に。でも、人造魔石という言葉は知っていた」
「昼間、嘘をついたな」
セイルの声に怒りが滲む。
「そうよ」
エリナは逃げずに答えた。
「嘘をついた。あの場で知っていると言えば、私もあなたたちも監視対象になる」
「もう監視されてるんじゃないのか」
「だから急いでいるの」
エリナは鍵を机へ置いた。
「先生の私室が、ギルド地下に残されている。失踪後、封鎖されたまま。でも先生は消える直前、私に『戻らなければ机の底を探せ』と言った」
セイルの呼吸が止まる。
「どうして今まで見なかった」
「見たわ。でも机の底には何もなかった」
「なら何を――」
「鍵穴がなかったの」
エリナは机の鍵を指で押す。
「この鍵は今日、私の書類棚に入っていた。誰が入れたか分からない。けれど、先生が使っていた私室の鍵と同じ紋章がある」
鍵の柄には、小さな風石の意匠が刻まれていた。
中央には、3本の線が1点へ集まる模様。
吸魔針の刻印に似ている。
「罠の可能性がある」
グレンが言う。
「分かっているわ」
「それでも行くつもりか」
「先生が残したものなら、確かめたい」
エリナの声は震えていた。
怖い。
それでも、何もしなかった後悔の方が大きいのだろう。
セイルは彼女を見つめた。
怒りと心配が入り混じった顔だった。
「どうして1人で抱えた」
「あなたが消えたからよ!」
エリナの声が大きくなる。
すぐに口を押さえ、声を落とす。
「先生が消えて、あなたまでギルドを飛び出した。私はここに残るしかなかった。何も知らないふりをして、記録を守って、いつか誰かが戻るのを待ってた」
目に涙が浮かんでいる。
「私だって、怖かったのよ」
セイルは何も言えなくなった。
怒りが消えたわけではない。
だが、エリナもまた1人で戦っていたのだと分かった。
ナノは自分とロガを思い出した。
戻してくれる声があること。
隣に誰かがいること。
それがどれほど大きいか。
「今度は1人じゃないです」
ナノが言った。
エリナがこちらを見る。
「俺たちも行きます。ただし、勝手に動かず、危険があれば全員で戻る。それでいいですか」
グレンがナノへ目を向ける。
「お前が決めることではない」
「……すみません」
「だが、判断は同じだ」
グレンは立ち上がった。
「私室へ行く。ただし、罠を前提にする。ナノは石眼を必要な時だけ使え。ロガはナノとエリナを見ろ。セイルは先走るな」
セイルが苦い顔をする。
「俺だけ言い方が厳しくないか」
「信用したい相手ほど、判断を誤る」
セイルは黙った。
その言葉を否定できなかった。
*
ギルド地下へ続く階段は、展示室の裏に隠されていた。
エリナが書棚の裏にある金具を押すと、石壁が静かに横へ動く。
暗い階段が下へ伸びていた。
湿った空気。
古い紙。
蝋。
微かな宝石粉。
灯石を持って降りると、足音が細く反響した。
地下通路には扉がいくつも並んでいる。
どれも古く、表札が外されていた。
エリナは最も奥の扉で立ち止まる。
「ここが先生の私室」
鍵を差し込む。
回す。
かちり、と小さな音。
扉が開いた。
部屋の中は、失踪した日のまま時間が止まっていた。
机。
椅子。
壁一面の本棚。
宝石を調べるための器具。
乾いたインク瓶。
埃を被った衣服。
セイルは入口で動けなくなっていた。
「先生……」
声が掠れる。
懐かしい匂いが残っているのかもしれない。
エリナは机の前へ進んだ。
「机の底を探せと言っていた」
全員で確認する。
木製の机の裏。
引き出しの奥。
床との隙間。
目に見える鍵穴はない。
ナノは机へ触れず、周囲を見た。
机の脚の1本だけ、床の埃が薄い。
誰かが動かした跡。
「この脚、少し新しい傷があります」
エリナがしゃがむ。
「本当だわ」
脚の裏側に、小さな風石の紋章が彫られていた。
鍵の柄と同じ形。
エリナが鍵を当てると、紋章部分が僅かに沈んだ。
机の底から、薄い箱が滑り出す。
セイルの手が震えた。
箱を開ける。
中にあったのは、革張りの手帳と、透明な小瓶だった。
小瓶の中には、風のように揺れる淡い緑色の光が閉じ込められている。
だが、石はない。
魔力だけが瓶の中で渦を巻いていた。
「宝石から抜いた力……」
セイルが呟く。
ナノの石紋が反応する。
翠風石から奪われたものと同じ気配。
手帳の最初のページには、レオンの筆跡で短い文が残されていた。
『宝石の力を抜き、人造の器へ集める計画が進んでいる。目的は新たな種族石の創造。主導者はギルド内部にいる』
全員の顔が強張る。
次の行。
『神託塔から提供された技術が使用されている』
ナノの心臓が強く鳴った。
「神託塔……」
自分を無能と判定した場所。
家族を貧民街へ落とした場所。
人工核に刻まれていた紋様。
すべてが繋がり始めている。
セイルは震える手でページをめくった。
最後の記録には、地図が描かれていた。
リュネアの北東。
森の奥。
赤い印。
その横に、1つの名前。
『風喰らいの工房』
その瞬間、部屋の外で足音がした。
1人ではない。
複数。
鎧が擦れる音。
扉の向こうから低い声が響く。
「ギルド長の命令だ。中にいる者は、手帳と試料を置いて出てこい」
エリナの顔が青ざめる。
「見つかった……」
グレンは戦槌を構えた。
ロガはナノの横へ立つ。
セイルは手帳を強く握った。
ナノは緑色の光が渦巻く小瓶を見つめた。
地底の魔石喰い。
力を失った宝石。
黒い吸魔針。
神託塔。
そして、風喰らいの工房。
第4章の謎は、ついにナノ自身の過去へ繋がった。
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