第61話 風の止まった交易路
交易路を北へ進むにつれ、朝の霧は少しずつ薄くなっていった。
濡れた草の葉に朝日が触れ、無数の水滴が白く光っている。道の両側には深い森が続き、枝の隙間から差し込む光が、泥の残る轍を細く照らしていた。
けれど、ナノには妙な違和感があった。
風がない。
つい先ほどまで、木々の梢は絶えず揺れていた。葉が擦れ、草が波打ち、湿った空気が髪を撫でていたはずだ。
今は何も動いていない。
枝先も、草も、道端に垂れた蜘蛛の糸さえ静止している。
「……止まってる」
ナノが足を止めると、ロガが振り返った。
「何がだ?」
「風。さっきまで吹いてたのに、急に消えた」
ロガは周囲を見回した。最初は不思議そうな顔をしていたが、次第に眉間へ深いしわが刻まれる。
「本当だな。鳥の声も聞こえねぇ」
その言葉で、ナノも気づいた。
森が静かすぎる。
羽音も、虫の声もない。遠くで流れていたはずの小川の音さえ、厚い布に包まれたように弱くなっている。
静かというより、何かに音を吸われている。
セイルが腰の剣へ手を伸ばした。
「風喰らいの痕跡に近い。師匠の記録にも、術式が動いている場所では周囲の風が死ぬと書いてあった」
「風が死ぬ……」
ナノは自分の口から出た言葉に、背筋が冷えるのを感じた。
風は目に見えない。
けれど、地上へ出てからナノは、風が常に世界を動かしていることを知った。葉を揺らし、匂いを運び、雲を流し、生き物の気配を知らせる。
それが一斉に止まっている。
空気そのものが息を潜めているようだった。
グレンは道端へしゃがみ込み、土を指でなぞった。
「荷車の跡がある」
「交易商人ですか?」
ナノも近づく。
泥の中に深い轍が2本伸びていた。その横には人の靴跡と、蹄の跡がいくつも残っている。
だが、途中から足跡が乱れていた。
蹄が横滑りし、荷車の轍が大きく蛇行している。人の足跡も、走ったように深く土へ食い込んでいた。
ロガが口元を硬くする。
「襲われた跡か」
「まだ新しい」
セイルが土を触り、指先についた泥を確かめた。
「乾いていない。今朝か、遅くても昨夜だ」
道の先は緩い下り坂になっていた。
木々が密集し、薄暗い。
その奥から、かすかな音がした。
きい……。
木が軋むような音。
次に、何かが地面を擦る音。
ずる。
ずる。
全員が武器を構えた。
「俺が先に行く」
グレンが低く告げる。
ナノは無意識に一歩前へ出た。
「俺も――」
「後ろだ」
短い言葉に止められる。
「でも、石の異変なら俺が見ないと」
「見る時はこちらから言う。先に危険へ頭を突っ込むな」
言い返したい気持ちはあった。
だが、グレンの背中を見て、ナノは唇を噛んだ。
守られていることが悔しい。
それでも、役割を間違えれば仲間を危険にする。そのことも、今は理解している。
「……分かりました」
ナノはロガの横へ戻った。
ロガが小さく肘を当ててくる。
「よく止まれたな」
「少し行きたかった」
「顔を見れば分かる」
「でも止まった」
「ああ。それでいい」
4人は足音を抑え、坂を下った。
やがて木々の間から、横倒しになった荷車が見えた。
車輪は片方が外れ、積み荷の木箱が道へ散乱している。箱の蓋は壊され、中から緑色や青色の小石が転がり出ていた。
宝石だ。
だが、どれも色が薄い。
輝きがなく、灰を被ったように濁っている。
ナノの胸がざわついた。
「全部……力が抜かれてる」
荷車の横には、2人の人族が倒れていた。
「人がいる!」
ナノが走りかける。
「待て!」
グレンの声が飛んだ。
だが、倒れていた1人がわずかに腕を動かした。
「た……助け……」
弱い声。
ナノの体は考えるより先に動いていた。
ロガも同時に走る。
「おい、ナノ! 勝手に行くな!」
「生きてる!」
「分かってる! だから一緒に行く!」
2人は倒れた男のもとへ駆け寄った。
年配の商人だった。額から血を流し、右腕を胸へ抱え込んでいる。その右手は指先から手首まで灰色に変色し、石のように硬くなっていた。
「腕が……動かねぇ……」
男の声が震えている。
ナノは手を伸ばしかけ、寸前で止めた。
魔石毒かもしれない。
黒錆や人工術式の影響なら、素手で触れるのは危険だ。
「セイルさん、この症状は?」
セイルが膝をつき、硬化した腕を観察する。
「風属性の枯渇と、何か別の魔力が混ざってる。石化に近いが、普通の呪いじゃない」
ナノの掌の石紋が熱を持った。
石眼を使えば、分かるかもしれない。
だが、倒れている男の体内を読むことになる。魔石とは違う。無理に見れば、相手にも自分にも何が起こるか分からない。
「見るなら短くしろ」
グレンが追いつき、ナノの横へ立った。
「はい」
ナノは男へ声をかける。
「腕の状態を見るために、俺の力を使います。少し気分が悪くなるかもしれません」
男は苦しそうに頷いた。
「た、頼む……切り落とすのだけは……」
「切りません。できる限り、戻す方法を探します」
自信があるわけではない。
それでも、不安に震えている相手へ「分かりません」とだけ言うことはできなかった。
ナノは深く息を吸い、石眼を開いた。
視界が白く染まる。
男の右腕に、細い灰色の線が浮かび上がった。
――外部魔力侵入。
――風属性魔力、強制吸引。
――残留術式、硬化封鎖。
――吸引経路……掌。
――術式核、存在せず。
――外部接続、切断済み。
ナノはすぐに石眼を閉じた。
頭の奥に鈍い痛みが残る。
「力を吸われたあと、腕の中の魔力の道が固められています。でも、今はもう何かと繋がってはいません」
「治るのか?」
男の声には、縋るような必死さがあった。
「俺には今すぐ治せません。でも、術式は進んでいない。治療師に診てもらえば、戻る可能性はあります」
断定はできない。
だからこそ、希望だけを言うのではなく、分かったことを正確に伝える。
男の目から力が抜け、安堵の涙が滲んだ。
「よかった……まだ、腕が……」
ロガがもう1人の倒れている若者を確認する。
「こっちは気を失ってるだけだ。頭を打ってる」
グレンが周囲を見渡した。
「襲ったものはまだ近い可能性がある。長居はできん」
ナノは散らばった宝石を見る。
翠風石。
水色の石。
乳白色の石。
どれも中心が暗く、力を失っていた。
その中に、1つだけ異様なものがあった。
割れた木箱の陰で、黒い針のような石片が土へ突き刺さっている。
人工核と同じ、光を吸い込む黒。
ナノの石紋が、警告するように強く熱を持った。
「グレンさん……あれ」
全員の視線が黒い石片へ向く。
その瞬間、止まっていた森の風が一斉に動いた。
ごうっ、と周囲の空気が黒い石片へ吸い込まれる。
木々が内側へ大きくしなる。
散らばっていた宝石が震え、地面を転がり始めた。
セイルが顔色を変えた。
「風喰らいの術式が、まだ生きてる!」
黒い石片の奥で、何かが目を覚ましたように脈打った。
ナノは倒れている商人を庇うように前へ出た。
風のない交易路で止まっていた異変が、再び動き始めた。
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