第60話 風喰らいの痕跡
夜明け前、外縁集落バルムは深い霧に包まれていた。
宿の窓の外には、薄い灰色の世界が広がっている。
家々の屋根も、門も、遠くの山も、輪郭がぼやけて見えた。湿った風が窓の隙間から入り込み、部屋に土と草の匂いを運んでくる。
ナノは寝台の上で目を覚ましていた。
隣の寝台では、ロガが毛布に包まっている。
眠っているように見えるが、時々耳が動くように顔をしかめていた。地上の風音に慣れていないのだろう。
ナノも同じだった。
窓の外で枝が鳴るたびに目が覚めた。
屋根を風が撫でる音。
遠くで家畜が鳴く声。
鳥の羽ばたき。
地底では聞いたことのない音が、夜の間ずっと続いていた。
胸元の黒脈石の護符を握る。
冷たい。
落ち着く。
けれど、昨夜見た翠風石の空洞が頭から離れなかった。
力を抜かれた石。
偽物の輝き。
人工術式。
人造魔石を作った者は、宝石の力を集めているのかもしれない。
なら、どれほど多くの石が奪われているのか。
どれほど多くの魔物や人が、魔石喰いのように作り変えられているのか。
「寝てねぇのか」
ロガの声がした。
ナノは横を見る。
ロガは毛布から顔だけ出し、眠そうにこちらを見ていた。
「起こした?」
「いや。風がうるさくて眠れねぇ」
「地上に来たことあるって言ってたのに」
「1回だけだって言っただろ」
ロガは体を起こした。
「翠風石のこと考えてたのか」
「うん」
「お前、考えても答えが出ないことを朝まで考えるよな」
「止められないんだ」
「黒錆より面倒だな」
「自分でも思う」
ロガは窓の外を見る。
「俺はセイルを信用してない」
「うん」
「でも、昨日の石を見た時の顔は嘘じゃなかったと思う。あいつも驚いてた」
「俺もそう思う」
「だからって無条件で仲間にするなよ」
「分かってる。見る」
「何を」
「石だけじゃなくて、言葉と行動」
ロガは少し目を細めた。
「ダルガ班みたいなこと言うようになったな」
「嬉しい?」
「なんで俺が嬉しいんだよ」
「相棒が成長したから」
「寝ろ」
「もう朝だよ」
窓の外が少しずつ白くなっていた。
*
出発前、集落の門前にはグレン、ナノ、ロガ、セイルが集まった。
グレンが調べたところ、セイルは交易都市リュネアの鑑定士組合に登録された見習いで、身分に問題はなかった。
ただし、半年前から組合を離れ、各地を巡っているという。
「なぜ組合を離れた」
グレンが聞く。
セイルは腰の剣を確かめながら答えた。
「師匠が消えたからだ」
「消えた?」
「宝石商ギルドの鑑定士だった。3月前、力を失った宝石を調べると言って、リュネアを出たまま戻らない」
ナノとロガが顔を見合わせる。
「力を失った宝石は、以前からあったんですか」
ナノが聞く。
「ああ。最初は小さな宝石だけだった。安い風石、水石、火石。誰も大きな問題にしなかった。粗悪品だったんだろうって」
「でも、増えた」
「そうだ。師匠は人工的に力を抜かれていると言っていた。ギルドに調査を求めたが、相手にされなかった」
セイルの声に、抑えた怒りが混じる。
「それから師匠は独自に調べ始めた。最後に残した言葉は『風が石を喰っている』だった」
「風が石を喰う……」
ナノは翠風石を思い出した。
風属性の力が抜かれていた。
長老は、雨を吸う石、風に削られる石があると言った。
だが、これは自然の風ではない。
誰かが風のように石の中へ入り込み、力だけを奪っている。
グレンが言う。
「その師匠の名は」
「レオン・アーデル」
「人族か」
「ああ」
セイルの返事は短かった。
ナノは少し気になった。
グレンも同じように感じたのか、目を細める。
「人族の鑑定士が、人造魔石に関わっていた可能性は」
「ない」
セイルの声が強くなる。
「師匠はあんなものを作る人じゃない」
「信じることと、事実は別だ」
「分かってる。だから調べる」
セイルはグレンを真っ直ぐ見た。
「もし師匠が関わっていたなら、その理由も含めて突き止める」
その言葉に、ナノは少しだけセイルを信用してもいいと思った。
自分が信じたいものだけを守るのではなく、違う答えが出る可能性も受け入れている。
それは簡単なことではない。
*
4人はバルムを出て、リュネアへ続く交易路へ入った。
霧はまだ濃い。
道の両側には背の高い草が生い茂り、露が靴へ染み込んでくる。地面は柔らかく、荷車の轍に水が溜まっていた。
セイルが先頭近くを歩き、時々周囲を見回している。
ロガはその背中を警戒していた。
ナノは道端の石へ目を向けた。
地上の石は、坑道の石と違う。
角が丸い。
表面に苔がついている。
雨に磨かれ、土に埋もれ、木の根に押されて形を変えている。
石眼を使わなくても、時間の長さが見える気がした。
その時、道の脇で何かが淡く光った。
「待ってください」
ナノは足を止めた。
草の中に、小さな緑色の石が落ちている。
翠風石に似ている。
だが、さらに小さく、表面は割れていた。
セイルがしゃがみ込む。
「触るな」
「分かってる」
ナノは少し離れた場所から見る。
石の周囲の草だけが、一定方向へ倒れている。
風が吹いた跡のように。
しかし、今の風向きとは逆だった。
「変です」
「何が」
ロガが聞く。
「草が全部、石の方へ倒れてる」
グレンが周囲を見る。
確かに、細い草葉が石へ向かって引かれている。
風で外へ倒れたのではない。
石が周囲の空気を吸い込んだような跡。
セイルの顔が変わる。
「師匠の記録にあった」
「何て?」
「力を抜かれた風石の周囲では、一時的に風向きが逆流する。術式が周囲の風まで引き込むからだ」
ナノは喉を鳴らした。
「じゃあ、ここで翠風石の力が抜かれた?」
「その可能性が高い」
ナノは石眼を開いた。
一瞬だけ。
――翠風石、破損。
――風属性、欠損。
――外部吸引痕。
――術式残滓、新しい。
――力の流出方向……北東。
ナノはすぐに閉じた。
「術式の跡は新しいです。力は北東へ流れています」
グレンが交易路の先を見る。
北東には森が広がっている。
リュネアへ向かう街道から外れた方向だ。
ロガが眉を寄せる。
「追うのか」
「今は追わない」
グレンが即答した。
「未知の術式を、準備なしで追えば罠に入る」
ナノは少し悔しかった。
目の前に手がかりがある。
今追えば、力を奪った者へ近づけるかもしれない。
けれど、グレンの判断が正しいことも分かる。
「記録します」
ナノはラウネにもらった手帳を取り出した。
場所。
時刻。
風向き。
草の倒れ方。
翠風石の状態。
術式残滓。
力の流出方向。
字が乱れないよう、ゆっくり書く。
セイルがその手元を見る。
「意外と丁寧だな」
「ラウネさんに書き直させられるので」
「誰だ、それ」
「怖い記録係」
「正確には優秀な記録係だ」
グレンが訂正する。
ロガは小さく笑った。
記録を終えたあと、グレンは翠風石の欠片を封印袋へ入れた。
「リュネアで詳しく調べる」
再び歩き出す。
だが、ナノは何度も北東の森を振り返った。
霧の向こう。
木々の影の中で、風が逆向きに揺れた気がした。
誰かが石の力を奪い、どこかへ運んでいる。
その痕跡は、今も新しい。
人造魔石を作った存在は、過去の事件の中にいるのではない。
ナノたちと同じ地上を、今も動いている。
第4章の旅は、最初の目的地へ着く前から、人工術式の影に触れ始めていた。
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