第58話 外縁集落バルム
外縁集落バルムの入口には、石と木を組み合わせた低い門が立っていた。
門の左右には、黒い山羊の角を模した飾りがつけられている。風に揺れる小さな金属板が、からからと乾いた音を立てていた。
門をくぐった瞬間、ナノは足を止めた。
匂いが多い。
焼いたパン。
煮込んだ肉。
土。
家畜。
薪の煙。
乾燥させた薬草。
地底の街にも食事や生活の匂いはあった。けれど、バルムの匂いは風によって混ざり、広がり、次々と変わっていく。
「また変な顔してるぞ」
ロガが言う。
「匂いが忙しい」
「匂いが忙しいって何だよ」
「右からパン、左から動物、前から煙。頭が追いつかない」
「そのうち慣れる」
集落の通りには、人族とドワーフが混ざって歩いていた。
背の高い人族の商人。
荷車を引くドワーフ。
頭に布を巻いた女性。
走り回る子どもたち。
耳の長い獣族らしき旅人もいる。
ナノは思わず目で追った。
獣族。
坑道ギルドでも見かけたことはあるが、近くで見るのは初めてだった。
薄茶色の耳が頭上で動き、周囲の音を拾っている。腰の後ろからは太い尾が伸び、歩くたびに左右へ揺れていた。
その旅人がナノの視線に気づき、こちらを見る。
ナノは慌てて目を逸らした。
「見すぎだ」
グレンが言う。
「すみません」
「謝る相手が違う」
ナノははっとして、獣族の旅人へ頭を下げた。
「す、すみません。珍しくて、じろじろ見てしまいました」
旅人は少し目を丸くしたあと、鼻で笑った。
「地底から出てきたばかりか?」
「分かりますか」
「顔が空を見た子どもみたいだ」
ナノは少し恥ずかしくなった。
「昨日、初めて見ました」
「なら仕方ない。次からは見る前に声をかけろ」
「はい。ありがとうございます」
旅人は片手を上げ、そのまま通り過ぎた。
ロガが小声で言う。
「お前、すぐ知らないやつに話しかけるんだな」
「謝らないと」
「王都にいた頃より、だいぶ変わったな」
その言葉に、ナノは少し黙った。
王都にいた頃なら、相手の視線を恐れて俯いていた。
謝るにしても、声が出なかったかもしれない。
今は怖くても、言葉を出せる。
それは自分でも気づいていなかった変化だった。
*
グレンが向かったのは、集落中央にある宿兼酒場だった。
石造りの1階と木造の2階を組み合わせた建物で、入口の看板には大きな鍋と山羊の角が描かれている。
中へ入ると、熱気と声に包まれた。
昼だというのに、酒を飲む者がいる。
旅人たちが地図を広げ、商人が値段交渉をし、奥の厨房では鍋が煮えている。
坑道ギルドの酒場に似ているが、天井が高い。
窓から陽光が差し込み、空気中の埃が黄金色に浮かんでいた。
ナノは窓の光を見て、また足を止める。
「光を見るたび止まるな」
ロガが呆れたように言う。
「だって、壁に穴が開いてるのに明るい」
「窓だよ」
「知識では知ってたけど、実物は初めて」
宿の主人らしき大柄な女性ドワーフが笑った。
「その様子じゃ、あんたが噂の地底育ちかい」
ナノは目を瞬く。
「噂?」
「グレンが人族の若造を連れてくるって、伝令が来てたよ」
女性は太い腕を腰に当てた。
「私はベルダ。この宿を預かってる。部屋は2つ用意してあるよ」
ロガが眉を寄せる。
「2つ?」
「グレンが1人。若いのが2人で1部屋」
「なんで俺がナノと」
「嫌なら馬小屋が空いてる」
「1部屋でいいです」
ロガは即答した。
ナノは少し笑った。
「俺は馬小屋でもいいけど」
「お前がそう言うと、俺が追い出したみたいになるだろ」
「確かに」
「確かにじゃねぇよ」
ベルダは大きく笑った。
「仲がいいじゃないか」
「よくない!」
「相棒です」
ナノが答えると、ロガが勢いよく振り向いた。
「お前、勝手に!」
「もう否定しないって前に言ったよね」
「今日は言う!」
「なんで今日だけ」
周囲の客まで笑い始めた。
ロガは顔を赤くし、荷袋を抱え直す。
「早く部屋に行くぞ!」
その時、酒場の奥で荒い声が上がった。
「だから、触ってねぇって言ってるだろ!」
視線が集まる。
人族の若い男が、商人らしき中年の男と向き合っていた。
机の上には、小さな宝石箱。
中には緑色の石が入っている。
「じゃあ、どうして石が濁った!」
商人が怒鳴る。
「朝までは澄んでいた! お前が鑑定すると言って持ったあと、急に色が死んだんだ!」
「知らねぇよ! 俺の鑑定石は本物だ!」
若い男の胸元には、淡い青色の石が埋まっている。
人族だ。
だが、ナノが王都で見た人族とは雰囲気が違う。旅装を身につけ、腰には細身の剣。目つきは鋭いが、怒りより焦りが勝っている。
ナノは机の緑色の石を見た。
掌の石紋が、かすかに反応した。
魔石ではない。
宝石。
けれど、何かが変だ。
光を反射しているのに、石の奥だけが暗い。
長老の言葉が蘇る。
答えない石ほど、何かを隠している。
「ナノ」
グレンが低く呼ぶ。
「見るなとは言わん。だが、勝手に関わるな」
「……はい」
分かっている。
知らない集落。
知らない相手。
いきなり石眼を使えば、問題になる。
それでも、緑色の石から目を離せなかった。
石眼を使っていないのに、石が自分を見返しているような感覚があった。
商人は箱を抱え、若い男を指差す。
「衛兵を呼ぶ!」
「勝手にしろ!」
若い男は怒鳴ったが、その顔は青ざめていた。
ベルダが低く唸る。
「また石の変質か……」
グレンが眉を寄せる。
「また?」
ベルダは周囲へ聞こえないよう、声を落とした。
「ここ1月で3件目だよ。宝石や魔石が、誰かに触れられたあと急に濁る。力も消える。でも、盗まれた形跡はない」
ナノの胸がざわついた。
「人造魔石と関係があるんですか」
「分からない」
グレンは短く答えた。
だが、視線は緑色の石から動かなかった。
人工核。
外部術式。
複数の魔石を繋ぎ、力を奪った何者か。
石が濁り、力だけが消える現象。
偶然とは思えない。
「グレンさん」
ナノは小さく言った。
「あの石、見た方がいいと思います」
グレンはしばらく黙った。
やがて、低く答える。
「まず事情を聞く。石眼は許可を取ってからだ」
「はい」
外界へ出て最初に訪れた集落で、すでに石の異変が起きていた。
人造魔石の謎は、ナノたちが思っていたより近くまで広がっているのかもしれなかった。
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