第57話 初めて見る空
地上へ続く道は、ナノが想像していたよりも長かった。
坂道は緩やかだったが、終わりが見えない。岩壁に沿って曲がり、何度も細い橋を渡り、崩れかけた階段を上る。上へ進むほど、空気の匂いが変わっていった。
最初は、いつもの地底の匂いだった。
湿った石。
煤。
鉄粉。
古い木の支柱。
それが少しずつ薄くなり、代わりに知らない匂いが混じり始める。
冷たい水。
濡れた土。
青い葉。
何か甘い花。
ナノは何度も鼻から息を吸った。
「変な顔してるぞ」
前を歩くロガが振り返る。
「空気に匂いが多い」
「地上はそういうもんだ」
「ロガは来たことあるの?」
「子どもの頃に1回だけ。外縁集落までだけどな」
「どうだった?」
ロガは少し考えた。
「広すぎて落ち着かなかった」
「広い……」
地底の通路には、必ず壁がある。
右にも左にも、頭上にも。
暗くても、狭くても、どこまで続くかは岩が教えてくれる。
広い場所とは、どんな感覚なのだろう。
ナノにはまだ想像できなかった。
グレンが先頭で足を止める。
「風が来る」
ナノも立ち止まった。
確かに、前方から空気が流れてくる。
坑道の空気とは違う。
冷たく、乾いていて、それなのに湿り気もある。髪を揺らし、頬を撫で、服の隙間へ入り込んでくる。
「これが風……」
「坑道にも風はあるだろ」
ロガが言う。
「でも、こんなに匂いが変わる風は知らない」
ナノは目を閉じた。
風の中に、草の匂いがある。
雨の匂い。
遠くで燃える薪の煙。
鳥か何かの羽ばたき。
地底では聞こえなかった音が、空気の中にいくつも混じっていた。
やがて、前方に白い光が見えた。
灯石ではない。
炉の火でもない。
白く、眩しく、輪郭が掴めない光。
ナノは思わず目を細めた。
「まぶしい……」
「すぐ見るな」
グレンが言う。
「長く地底にいた目には強すぎる。少しずつ慣らせ」
ナノは手で光を遮りながら、一歩ずつ進んだ。
白い光は次第に広がり、坑道の出口全体を埋める。
そして、最後の岩壁を抜けた。
足が止まった。
声が出なかった。
空があった。
どこまで続いているのか分からない。
頭上を覆う岩がない。
青白い雲が流れ、その隙間から淡い朝の光が降り注いでいる。遠くには黒い山脈が連なり、その斜面には針葉樹の森が広がっていた。
地面は湿った土と草に覆われている。
小さな水滴が草葉の上で輝き、風が吹くたびに一斉に揺れる。
鳥が鳴いた。
甲高く、短い声。
その音は岩壁へ反響せず、そのまま遠くへ消えていった。
「……怖い」
ナノの口から、思わず言葉が漏れた。
ロガが横を見る。
「綺麗じゃなくて、怖いのか?」
「綺麗だよ。すごく。でも……どこにも壁がない」
視線を上げると、体が空へ吸い込まれそうになる。
足元がなくなるような感覚。
地底では、暗闇に囲まれていても、岩が自分を支えていると分かった。
空は何も支えてくれない。
ただ、果てなく広がっている。
ナノは胸元の護符を握った。
「落ちそうだ」
ロガが吹き出した。
「空に落ちるやつはいねぇよ」
「笑うなよ。本当に変な感じなんだ」
「俺も最初はそうだった」
「ロガも?」
「ああ。上を向いたら頭が後ろへ落ちると思った」
「同じじゃん」
「俺はすぐ慣れた」
「今、少し足開いて踏ん張ってるけど」
「風が強いだけだ!」
ロガは顔を赤くした。
ナノは笑った。
胸の緊張が少しほどけた。
グレンはそんな2人を見て、口元をわずかに動かした。
「遊びに来たわけではない。進むぞ」
「グレンさんは初めて地上に出た時、怖くなかったんですか」
ナノが聞く。
「覚えていない」
即答だった。
ロガが小声で言う。
「絶対、怖かったんだろうな」
「聞こえているぞ」
「すみません」
*
地上の道は、山の斜面を縫うように続いていた。
坑道から出た直後は草地だったが、少し進むと背の高い木々が増え始める。幹は黒く湿り、枝には細い針のような葉が密集していた。
風が吹くと、葉の擦れる音がする。
ざあ。
ざあ。
坑道崩落の前兆に似た音。
ナノは何度も肩を震わせた。
「落石じゃねぇよ」
ロガが言う。
「分かってる。でも、体が勝手に」
「外は音が多いからな」
足元でも音がする。
土を踏む柔らかな感触。
枝が折れる音。
小さな虫の羽音。
遠くで流れる水。
あまりにも情報が多い。
石眼を使っていないのに、頭が少し疲れた。
「地上って、静かに見えるのにうるさいんだね」
「坑道の方がうるさいだろ」
「坑道の音は意味が分かる。槌なら鍛冶。高い鳴りならひび。擦る音なら魔物。でも、ここは何の音か分からないものが多い」
グレンが前を向いたまま言う。
「だから覚えろ」
「全部ですか」
「必要なものからだ」
突然、藪の中で枝が鳴った。
がさっ。
ナノとロガが同時に武器へ手を伸ばす。
グレンは動かなかった。
藪から出てきたのは、小さな茶色い動物だった。
長い耳。
丸い目。
柔らかそうな毛。
動物は一瞬こちらを見たあと、草の中へ跳ねて消えた。
ナノは槌を構えたまま固まっていた。
「今のは?」
「野兎だ」
「魔物じゃない?」
「違う」
「魔石は?」
「ない」
「普通の動物……」
ナノは野兎が消えた草むらを見た。
地底では、動く小さなものの多くが魔物だった。
襲うか、逃げるか、素材になるか。
けれど、今の野兎はただ生きていた。
魔石もない。
役に立つかどうかも分からない。
ただ草の中を走り、森のどこかへ消えた。
「変な感じだ」
「何が」
ロガが聞く。
「何も取らなくていい生き物がいること」
グレンがわずかに振り返った。
「地上には、石を持たない命の方が多い」
「石を持たない……」
「それを忘れるな」
ナノは胸元の護符へ触れた。
自分の世界は、石と魔石でできていた。
神託も、種族も、強さも、魔物も。
けれど、地上には石を持たない命がいる。
その事実は、空の広さと同じくらい不思議だった。
*
昼前、3人は高い崖沿いの道へ出た。
眼下には深い谷が広がっている。
白い川が森の間を縫い、遠くには煙を上げる小さな集落が見えた。
グレンが指を向ける。
「あれが外縁集落、バルムだ」
「今日の目的地?」
「ああ。あそこで一晩休む」
ナノは集落を見つめた。
坑道街のように岩の中へ作られてはいない。
木造の家が斜面に並び、屋根から細い煙が上がっている。周囲には畑らしき場所があり、小さな人影が動いていた。
その時、風に乗って鐘の音が聞こえた。
からん。
からん。
坑道の警鐘とは違う、柔らかな音。
ナノは目を細める。
「外の世界にも鐘があるんだ」
「そりゃあるだろ」
「同じ音じゃない」
風の中に溶ける鐘の音は、危険を知らせているようには聞こえなかった。
誰かの帰りを知らせる音。
昼を知らせる音。
暮らしの中へ混じる音。
ナノは初めて見た空の下で、ゆっくり息を吸った。
怖い。
広い。
分からないことばかりだ。
それでも、胸のどこかが少しだけ高鳴っていた。
自分の知らない世界が、目の前に広がっている。
その世界のどこかに、人造魔石の答えもある。
「行こう」
ナノは小さく言った。
ロガが隣で頷く。
「ああ」
3人は外縁集落へ向かい、山道を下り始めた。
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