第56話 地底の街を出る朝
出発の朝、ガルバ坑道街にはいつもと同じ槌音が響いていた。
かん。
かん。
かん。
黒鉄炉から上がる火花が、地底の天井へ向かって赤く舞う。岩壁に埋め込まれた鉱脈灯は淡い黄白色の光を放ち、街の通路には焼けた鉄と煤、湿った石の匂いが入り混じっていた。
ナノはグレンの工房の入口に立ち、その光景を黙って見つめていた。
ここへ来たばかりの頃は、槌音が恐ろしかった。
谷底から這い上がった直後で、右も左も分からず、音が鳴るたびに魔物が近づいてきたのではないかと肩を震わせていた。
今は違う。
槌音は朝を知らせる音だった。
グレンが炉へ火を入れる音。
ロガが文句を言いながら石を運ぶ音。
ミラが治療室で薬草を刻む音。
ラウネがギルドの記録板を机へ重ねる音。
いつの間にか、ナノにとってガルバ坑道街は、逃げ込んだ場所ではなく、帰る場所になっていた。
「……本当に出るんだな」
ナノが小さく呟く。
胸元には、黒脈石の護符。
その横には坑道ギルドの見習い証と、魔石狩り班の灰黒色の札が並んでいる。歩くたびに札同士が触れ、かすかな金属音を立てた。
「何だよ。昨日まで行くって言ってたくせに、今さら怖くなったのか?」
後ろからロガの声がした。
振り返ると、ロガは大きな背負い袋を肩に担いでいた。袋の口からは毛布、鉄製の水筒、採掘用の小槌が飛び出している。腰にはいつもの小槌と、自分で作った槌飾りが下がっていた。
「怖いよ」
ナノは隠さずに答えた。
「外の世界がどんな場所か分からないし、人工核を作った誰かが、本当に俺たちの近くにいるかもしれない。それに……」
「それに?」
「ここを出たら、もうグレンさんやミラさんがすぐ近くにいるわけじゃない」
言葉にすると、胸の奥が急に重くなった。
これまでナノは、危険な力に触れるたびに誰かに止めてもらっていた。
グレンは力の扱い方を教えた。
ミラは壊れかけた体を治した。
ラウネは危険を記録し、逃げ道を作った。
ロガは何度も「戻ってこい」と呼んでくれた。
そのすべてから離れることが、怖くないはずがない。
ロガは少し黙ったあと、背負い袋の肩紐を直した。
「俺はいるだろ」
「うん」
「だったら、全部なくなるわけじゃねぇ」
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、その一言が胸の重さを少しだけ軽くした。
「ありがとう」
「今のは礼を言われるようなことじゃねぇよ」
「でも、嬉しかったから」
「そういうところが面倒なんだよ、お前は」
ロガは顔を逸らした。耳が薄く赤い。
工房の奥から、グレンが出てきた。
いつもの作業着ではない。厚手の革鎧を身につけ、腰には戦槌を下げている。背中には旅用の荷袋。どう見ても、見送る者の格好ではなかった。
ナノは目を瞬いた。
「グレンさん……その格好」
「途中まで同行する」
「途中まで?」
「外縁集落までは俺が案内する。坑道街の外は、地上へ出れば終わりではない。ドワーフ領の外縁には廃鉱、崩れ道、魔物の縄張りがある」
ロガが眉を上げる。
「最初から言えよ」
「言えば、お前は準備を怠る」
「どういう理屈だよ」
「俺がいるから大丈夫だと思うだろう」
ロガは言い返そうとして、口を閉じた。
その通りだと気づいたのだろう。
グレンはナノを見る。
「完全黒錆魔石は坑道街に残す」
ナノの右手がわずかに熱を持った。
完全黒錆魔石。
資格は得た。
だが、まだ吸収していない。
手を伸ばせば届く場所に置いて出ることに、少しだけ未練があった。
「……分かっています。今の俺が持って歩いたら、ずっと引かれ続ける」
「そうだ」
「でも、必ず戻ってきます」
ナノは胸元の護符を握った。
「戻って、今度は自分の意思で吸収できるようになります」
グレンは短く頷いた。
「その時まで生きていればな」
「縁起でもないこと言わないでください」
「生きる覚悟のない旅立ちは、ただの散歩だ」
厳しい言葉だった。
だが、その言葉の底には心配があった。
グレンはいつもそうだった。
優しさを柔らかな布ではなく、硬い鉄板のように差し出す。
触れれば痛い。
けれど、その鉄板は確かにナノを守っていた。
*
坑道ギルドの前には、見送りの者たちが集まっていた。
ミラは腕を組み、治療袋を抱えている。ラウネは記録板ではなく、小さな革張りの手帳を持っていた。ダルガとセリカ、魔石狩り班の者たちもいる。
「多すぎませんか……」
ナノは足を止めた。
これほど多くの者に見送られるとは思っていなかった。
胸の奥がむず痒い。
神託塔で浴びた視線とは違う。
笑われているわけでも、値踏みされているわけでもない。
ただ、自分の出発を見届けようとしている。
そのことが、嬉しくて、少し苦しかった。
ミラが最初に近づいてきた。
「右手」
「え?」
「出発前の確認」
「今ですか」
「今だからよ」
有無を言わせず、ミラはナノの右手を取った。掌の石紋、手首の灰色の筋、指の動きを1つずつ確認する。
「痛みは?」
「ありません」
「黒錆への引かれ方は?」
「ここ数日は落ち着いてます」
「嘘は?」
「ないです」
ミラはじっと目を見る。
ナノは逸らさなかった。
「……よし」
ミラはようやく手を離した。
次に、小さな薬包をナノの荷袋へ入れる。
「石眼を使いすぎた時の薬草。黒錆共鳴後の熱を散らす薬。止血薬。魔石毒用の粉薬。全部、袋に名前を書いてあるから間違えないこと」
「ありがとうございます」
「それと」
ミラは一歩近づいた。
声が少し低くなる。
「無茶をして帰ってきたら、治療の前に怒るからね」
ナノは笑いそうになったが、ミラの目が少し潤んでいることに気づいた。
笑えなかった。
「……はい。怒られない程度に無茶をします」
「無茶をしないって言いなさい」
「完全にしないとは約束できないです。でも、隠しません」
ミラは困ったように眉を下げた。
「それなら、まだ信用できるわ」
次にラウネが手帳を差し出した。
「旅の記録帳。訪れた場所、魔物、魔石、人工核に似たもの、全部記録して」
「字が汚かったら?」
「帰ってきたら書き直させるわ」
「やっぱりですか」
「記録は次の人の命を守るものよ」
ナノは両手で手帳を受け取った。
「必ず書きます」
ダルガは言葉少なに、灰黒色の魔石狩り班札へ触れた。
「外でも、その札に恥じるな」
「はい」
「魔石を欲するなとは言わん。欲を隠すな。選べ。そして、戻れ」
短い言葉だった。
ナノは深く頭を下げた。
「教えてもらったこと、忘れません」
セリカは小さな短刃を差し出した。
ナノが石纏い蜥蜴の魔石を初めて取り出した時に使ったものと、よく似ている。
「採取用だよ。戦いに使うんじゃない。残すために使いな」
「……はい」
ナノは短刃を腰へ差した。
最後に、長老が杖をついて歩いてきた。
片目だけで、ナノをじっと見る。
「地底の石だけを知った者は、石を知ったとは言えん」
長老の声は、静かに広場へ響いた。
「地上には、雨を吸う石がある。風に削られる石がある。木の根に抱かれる石がある。人に飾られ、価値をつけられ、奪い合われる石もある」
ナノは息を詰めた。
「お前の【石】が何を選ぶか。よく見てこい」
「はい」
「そして、人の言葉より、石の沈黙を疑え」
「石の沈黙……」
「答えない石ほど、何かを隠している」
人工核の黒い石を思い出した。
石眼でも完全には読み切れなかった異物。
神託塔に似た刻印。
あの石は、何を隠しているのか。
ナノは頷いた。
「必ず調べます」
*
坑道街の外へ続く門が開かれた。
重い鉄扉の向こうに、長い上り坂が続いている。
ナノは何度か振り返った。
黒鉄炉の赤い光。
工房の煙。
治療室の小さな灯り。
ギルドの看板。
皆の顔。
ここへ来た時、自分には何もなかった。
今は違う。
護符がある。
札がある。
仲間がいる。
帰る場所がある。
「ナノ」
ロガが呼ぶ。
「行くぞ」
ナノは最後に深く頭を下げた。
「行ってきます!」
声が少し震えた。
けれど、逃げる声ではなかった。
地底の街を出る朝。
無能と呼ばれた少年は、自分で選んだ道へ足を踏み出した。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




