第52話 黒錆魔石の最終試験
最終適合試験の日、黒鉄炉の槌音は完全に止められていた。
いつもなら地底の朝を知らせる重い音がない。炉の火が燃える低い唸りと、冷却水が管を流れる音だけが精錬室へ届いている。音が少ないせいで、ナノ自身の呼吸と心臓の鼓動が異様に大きく聞こえた。
石台の上には5つの石が置かれていた。
白鈍石。
低級鉄鋼魔石。
鱗硬化魔石。
黒錆化前魔石。
そして、完全な黒錆魔石。
赤黒い欠片は、一次精錬を終えている。それでも内部に走る線は獣の血管のように脈打ち、灯石の光を押し返すような暗い艶を放っていた。
ナノは目を逸らさなかった。
右腕が熱い。
胸も苦しい。
まだ触れていないのに、体内の【石】が魔石を欲しがっている。
「ナノ」
ミラが名を呼ぶ。
ナノは彼女を見る。
「何を感じてる?」
「欲しいです。今すぐ触りたい。昨日より強いです」
「怖さは?」
「あります。でも……欲しい気持ちの方が大きくなりそうで、それが怖いです」
ミラは頷いた。
「言えているうちは戻れるわ」
壁際にはロガが立っている。緊張で顎に力が入っていた。ナノと目が合うと、彼は拳で自分の胸を軽く叩いた。
「変になったら呼ぶ」
「うん。聞く」
「絶対に聞け」
「聞くよ」
グレンが黒脈石の護符を石台中央へ置いた。
「始める。完全黒錆との共鳴時間は5つ数えるまでだ」
「5つ……」
「前段階の石で体を作り、最後に黒錆を重ねる。目的は力を出すことではない。共鳴を自分で切ることだ」
「自分で、切る」
「俺が遠ざける前に、お前自身が『終わり』を選べ」
ナノは両手を石台に置いた。
冷たい石の感触が掌へ伝わる。
白鈍石の粉が、石紋の熱を穏やかにする。
低級鉄鋼魔石が近づけられた。
硬さの芯が生まれる。
鱗硬化魔石。
熱が薄い層になり、右腕から肩、胸へ散る。
黒錆化前魔石。
赤黒い熱が層の隙間へ入り込む。荒い。けれど、今まで何度も触れてきた熱だ。
「百錬成鋼……微」
石紋が白く光った。
ここまでは耐えられる。
指も動く。呼吸もできる。右腕は重いが、自分の意思で開閉できる。
グレンの手が、完全な黒錆魔石の小瓶へ伸びた。
ナノの喉が鳴る。
「来るぞ」
小瓶が護符へ近づいた。
瞬間、赤黒い熱が右腕を貫いた。
「あっ……!」
声が漏れた。
熱ではない。
獣の牙で内側から噛まれたような痛みだった。筋肉が硬く縮み、指が勝手に握り込まれる。皮膚の下を黒い線が走る感覚。心臓の鼓動に合わせ、もっと、もっと、と力が脈打つ。
「一」
グレンの声。
ナノは歯を食いしばった。
強い。
これが欲しかった。
今なら石壁を砕ける。
鉄鋼ゴブリンも、灰鋼オークも、あの日の魔物さえ。
「二」
父と母の姿が浮かぶ。
もっと早くこの力があれば。
あの夜、自分が弱くなければ。
右手に力が集まる。
「ナノ、顔!」
ロガの声が飛んだ。
ナノは気づいた。
自分は父と母を救う想像ではなく、魔物を叩き潰す想像をしていた。
守りたいという願いが、壊したい欲へすり替わっている。
「三」
黒錆が囁く。
もっと近づけ。
瓶を掴め。
吸え。
自分のものにしろ。
ナノの左手が、石台の上を滑った。
完全黒錆魔石へ伸びていく。
「ナノ!」
ロガの怒鳴り声。
戻ってこい。
言葉にされていないのに、そう聞こえた。
ナノは伸ばした左手を止めた。
右腕は痛い。
胸が苦しい。
でも、まだ声は出る。
「欲しい……!」
震える声で叫んだ。
「すごく欲しい! 父さんと母さんを助けられなかった自分を、全部壊せるくらい……欲しい!」
ミラが息を呑む。
グレンは魔石を遠ざけなかった。
ナノ自身が選ぶのを待っている。
「四」
右腕の皮膚に、赤黒い細線が浮かぶ。
ここで続ければ、もっと力が来る。
資格が欲しい。
成功したい。
弱い自分へ戻りたくない。
けれど、黒脈石の護符が掌の下で冷たく震えた。
中心を折るな。
粗くても、弱くても、自分で選べ。
ナノは息を吸った。
喉が痛い。
声は掠れていた。
「……終わりです」
グレンの目が細くなる。
「聞こえん」
ナノは石台を握り、声を絞り出した。
「俺が終わりを決める! もう止めます!」
ナノは百錬成鋼を解除した。
鉄鋼の芯が薄れ、鱗の層がほどける。黒錆の熱が右腕へ集中しようとしたが、ナノは護符を握り、深く息を吐いた。
グレンが完全黒錆魔石を遠ざける。
赤黒い熱が一気に引いた。
ナノは石台へ崩れ落ちた。
「ナノ!」
ロガが駆け寄り、肩を抱える。
ミラはすぐに右手を開かせた。赤黒い線は手首まで伸びていたが、肘には届いていない。指は震えている。それでも動いた。
「指を開いて」
「……はい」
重い。
だが、開く。
「閉じて」
閉じる。
ミラは大きく息を吐いた。
「硬直なし。石紋の暴走も止まってる」
ナノは荒い呼吸のまま、グレンを見上げた。
「俺……止められましたか」
グレンは完全黒錆魔石を箱へ戻し、蓋を閉めた。
「ああ」
短い一言だった。
それだけで、ナノの目に涙が滲んだ。
「黒錆を宿す資格はある。ただし、吸収するにはまだ早い」
「まだ、なんですね」
「当然だ」
悔しさはあった。
だが、それ以上に安堵があった。
欲しいと認めても、従わずに戻れた。
ロガがナノの頭を軽く小突く。
「手、伸ばした時は本気で殴ろうかと思ったぞ」
「殴らなくてよかった」
「次は殴る」
「次は自分で止まるよ」
「絶対だな?」
ナノは涙を拭い、頷いた。
「絶対、とは言わない。でも、止まれなくなったら呼んで。俺は必ず聞く」
ロガは少しだけ顔を歪め、そっぽを向いた。
「……なら、何回でも呼ぶ」
黒錆魔石の最終試験は終わった。
ナノはまだ力を手に入れてはいない。
だが、力を手に入れるより先に必要なものを、自分の意思で掴んだ。
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