第51話 黒錆を宿す資格
黒錆共鳴の実戦訓練から一夜明けても、ナノの右手には魔石の感触が残っていた。
指を開けば、掌の奥で乾いた砂を擦り合わせるような違和感が鳴る。目には見えない。皮膚も人の色を保っている。それでも、拳を握るたびに薄い鉱石の膜が骨へ絡みついてくるようだった。
治療室の灯石は、いつもより弱く絞られていた。淡い黄色の明かりが石壁を撫で、棚に並んだ薬瓶の影を細長く引き伸ばしている。部屋には煎じた薬草の苦い匂いと、雨上がりの土に似た湿った匂いが籠もっていた。
「動かすたびに痛む?」
寝台の横で、ミラが右手を持ち上げた。
「痛いというより……中に何かが残ってる感じです。指を閉じると、俺より先に腕が硬くなろうとするような」
「それを違和感として感じられているなら、まだ大丈夫。自分の腕と黒錆の力を区別できている証拠だから」
「区別できなくなったら?」
口にしてから、ナノの喉がきゅっと狭くなった。
ミラは誤魔化さなかった。
「石化硬直が始まるわ。最初は指。次に手首、肘。進めば肩から胸へ入る。そこまで行ったら、呼吸も危険になる」
ナノは右手を見つめた。
黒錆の力は強い。
鉄殻鼠を潰さずに押さえ込んだ時、その硬さは確かに頼もしかった。だが一歩間違えば、守るための力が自分の胸を締めつける。
「……怖いです」
「ええ。怖がっていていいのよ」
「でも、手放したくないとも思ってます」
ナノは言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「これがあれば、前に立てる気がするんです。グレンさんや父さんみたいに、誰かを逃がす側に。でも、そう思った瞬間に、もっと欲しくなる自分もいて……それが一番怖い」
ミラは包帯を巻く手を止め、ナノの顔を見た。
「ナノ。守る側になることと、1人で全部背負うことは違うわ」
「……はい」
「その返事、まだ納得していないでしょう」
図星だった。
ナノは視線を落とした。灰色の床石に、自分とミラの影が並んでいる。自分の影は細く、頼りない。あの日、魔物の前に立った父の背中とは似ても似つかない。
「守られてばかりなのが、悔しいんです」
声が掠れた。
「父さんと母さんにも、グレンさんにも、ロガにも。俺が弱いから、いつも誰かが前に立つ。それが……情けなくて」
「だったら、守られたことを恥じるんじゃなくて、次に返せる力を育てなさい。急いで壊れるのは、恩返しじゃないわ」
優しい声だった。
けれど、その言葉は鋭く胸へ入った。
扉が軽く叩かれる。
「入っていいか?」
ロガの声だった。
以前のように、いきなり開けてこない。
ミラが小さく笑う。
「どうぞ」
ロガは扉を開け、片手に包みを持って入ってきた。焼いた黒麦パンと、肉の煮込みらしい。湯気と一緒に香草の匂いが広がった。
「グレン親方が、食わせろって」
「グレンさんが?」
「正確には『共鳴後に食わん奴は次の試験を受けさせん』だ」
「やっぱりグレンさんだね」
ナノが笑うと、ロガは包みを置き、右手を覗き込んだ。
「まだ重いのか」
「少し。動くけど」
「嘘は?」
「ない」
「なら食え」
ロガは椅子へ腰を下ろしたが、右手から視線を外さなかった。
「ロガ」
「なんだ」
「昨日、呼んでくれてありがとう」
「またそれかよ」
「潰したいって思った時、自分だけだったら止まれなかったかもしれない」
ロガは眉を寄せた。怒っているように見えたが、声は低く沈んでいた。
「……止まれなかったかもしれない、じゃなくて、止まれ。俺がいなくてもだ」
「うん」
「でも、俺がいる時は呼ぶ。何回でも」
ナノは目を瞬いた。
「面倒じゃない?」
「面倒だよ。お前は本当に面倒だ」
ロガは吐き捨てるように言い、視線を逸らした。
「でも、相棒が魔石に喰われる方が、もっと面倒だ」
胸の奥が熱くなった。
黒錆とは違う熱だった。痛みも欲もない。ただ、息をするのが少し苦しくなるほど温かい。
「……うん。俺もロガが危ない時は呼ぶ」
「俺は魔石に突っ込まねぇ」
「でも怒ると周りが見えなくなる」
「それは今関係ないだろ」
ミラが声を殺して笑った。
その時、廊下の奥から重い足音が近づいた。
グレンが扉の前に立つ。手には黒い金属箱を持っていた。
「話は終わったか」
「何の用ですか」
ナノが身を起こすと、グレンは箱を机へ置いた。
中には、精錬済みの黒錆化前魔石と、完全な黒錆魔石が別々の小瓶に収められていた。
赤黒い光を目にした瞬間、ナノの右腕が熱を帯びた。
欲しい。
反射的にそう思った。
だが、手は伸ばさなかった。
護符を握り、熱が自分のものなのか、魔石に引かれているのかを確かめる。
グレンがその様子を見ていた。
「明日、最終適合試験を行う」
ナノの心臓が大きく鳴った。
「完全な黒錆魔石を……?」
「吸収ではない。完全黒錆との共鳴を保ち、自分の意思で切る。それができれば、お前には黒錆を宿す資格がある」
「できなければ?」
「しばらく封印する」
ナノは黒い金属箱を見つめた。
ここまで積み上げてきたものが、明日試される。
怖い。
失敗したくない。
欲しい。
それでも、以前とは違う。
資格とは、力を欲しがることではない。力を前にして、自分で止まれることなのだ。
「受けます」
ナノは顔を上げた。
「怖いです。でも、欲しいだけのまま終わりたくありません。俺が黒錆を使うのか、黒錆に使われるのか……明日、確かめます」
グレンは静かに頷いた。
「その言葉を、明日も忘れるな」
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