第50話 黒錆共鳴、実戦へ
黒錆粉小鬼の依頼から2日後、ナノは再び廃坑浅層に立っていた。
前回と同じ場所だ。古い鑿跡の残る岩壁、薄く積もった石粉、弱い灯石の光。けれど、ナノの胸の中は前回とは違っていた。
怖さはある。
黒錆に触れるのは、まだ怖い。右腕が自分のものではなくなる感覚も、欲に引かれる瞬間も、思い出すだけで喉が乾く。
だが、それを隠す必要はないと知った。
怖いと言える。
欲しいと言える。
危ないと思ったら止めると言える。
そして、戻ってこいと言ってくれる声がある。
ロガが隣に立っていた。
「今日は何回止めればいい?」
「できれば止められずに終わりたい」
「できれば、か」
「絶対って言うと嘘っぽいから」
「まあ、今の方が信用できるな」
ロガは小槌を肩に乗せた。
グレンは石台の前に立っている。今回は共鳴用の魔石だけではなく、訓練用の魔物も用意されていた。
硬殻モグラに似た小型魔物、鉄殻鼠。
背中に薄い鉄殻を持ち、素早く走るが、危険度は低い。魔石も小さく、訓練用として使われることがあるらしい。
ミラは少し離れた場所で腕を組んでいる。
「ナノ。今日は実戦形式だけど、無理をしたら即終了よ」
「はい」
「右腕の硬直、胸の苦しさ、視界の白濁」
「全部、出たら言います」
「よろしい」
グレンが言う。
「目的は黒錆共鳴を保ったまま、鉄殻鼠の動きを止めること。倒す必要はない。魔石を壊さず、背殻を傷つけず、足を止める」
「はい」
「黒錆の力を攻撃に使うな。硬さを保つだけだ」
ナノは頷いた。
攻撃に使いたくなるだろう。
強く叩けば簡単に止められるかもしれない。だが、それでは黒錆に飲まれる。今日やるべきことは、強くなることではなく、保つことだ。
石台に魔石が並ぶ。
鉄鋼魔石。鱗硬化魔石。黒錆化前魔石。
ナノは右手を置いた。
硬さの芯が生まれる。
鱗の層が広がる。
黒錆の赤黒い熱が、右腕に触れる。
「っ……」
怖い。
欲しい。
だが、今日はその感情を言葉にする。
「欲しいです。でも、まだ大丈夫。右腕に来てます。肩にも散ってます」
ミラが頷く。
「続けられる?」
「続けられます。長くは無理です」
グレンが短く言う。
「始めろ」
鉄殻鼠が放たれた。
小さな体が石粉を蹴って走る。速い。背中の薄い鉄殻が灯石の光を弾き、黒い線になって視界を横切る。
ナノは槌を構えた。
黒錆共鳴を保った右腕は重い。だが、動く。指も開く。前回よりも、自分の腕として扱えている。
鉄殻鼠が左へ跳ぶ。
ナノは追いかけない。
足元を見る。
石粉の舞い方。爪の跡。体の傾き。
「右に戻る……」
小さく呟き、半歩だけ位置をずらす。
鉄殻鼠が予想通り右へ戻った。
ナノは槌を振り下ろさない。
柄を低く出し、前脚の進路を塞ぐ。
鉄殻鼠がつまずく。
背殻は傷つけない。
魔石も壊さない。
止めるだけ。
「今だ」
グレンの声。
ナノは右手で鉄殻鼠の背を押さえた。
黒錆の熱が、手の中で暴れようとする。
潰せ。
砕け。
もっと硬くなれ。
その衝動が一瞬走った。
ナノの手に力が入りかける。
「ナノ」
ロガの声。
短い。
でも、それだけで戻れた。
ナノは息を吐いた。
「……潰したくなった。でも、止めます」
力を抜く。
鉄殻鼠は押さえられたまま動けない。
背殻は割れていない。
魔石も無事。
グレンが歩み寄り、鉄殻鼠を回収した。
「成功だ」
その一言で、ナノの体から力が抜けた。
黒錆化前魔石が遠ざけられ、右腕の熱が薄れていく。ナノはその場に膝をついた。
ロガが慌てて近づく。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫……じゃなくて、疲れた。でも、戻れた」
「だな」
ロガの声には、はっきり安堵があった。
ミラが掌を確認する。
「赤みはある。でも暴走していない。右腕も動くわね」
ナノは右手を開いた。
震えている。
でも、動く。
グレンが言った。
「黒錆共鳴、実戦での初期制御に成功。まだ短時間だが、戦闘中に戻れた」
ナノは右手を見つめた。
強い技を放ったわけではない。
魔物を倒したわけでもない。
ただ、潰したい衝動を抑え、止めるだけで終えた。
けれど、それが今のナノにとっては何より大きかった。
「俺……黒錆に触っても、戻れました」
声が震えた。
ロガが小さく笑う。
「俺が呼んだからな」
「うん。聞こえた」
「なら次も聞け」
「うん」
黒鉄炉の遠い槌音が、廃坑の壁を伝って響いてきた。
黒錆魔石はまだ遠い。
けれど、ナノはその入口で、初めて自分の足で立てた気がした。
第3章の魔石狩りは、いよいよ黒錆適合の本番へ近づいていた。
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