第46話 黒錆共鳴の実地訓練
黒錆共鳴を戦闘で保つ。
グレンがそう告げた翌朝、ナノは黒鉄炉の前で右手を何度も開いたり閉じたりしていた。
炉の火はまだ朝の低い温度だった。赤というより、黒い炭の奥でじっと息を潜めるような色をしている。岩壁には薄い煤が積もり、鍛冶場の空気には鉄粉と灰の匂いが混じっていた。いつもならその匂いは落ち着く。けれど今日は、胸の奥がざらついていた。
右手の中に、昨日の黒錆化前魔石の熱がまだ残っている気がする。
痛みではない。だが、忘れようとすると、逆に思い出す。赤黒い熱。硬くなりたいという衝動。触れたい、取り込みたい、もっと先へ進みたいという欲。
ナノは胸元の黒脈石の護符を握った。
「怖い顔してんな」
横からロガの声がした。
ナノは振り向いた。ロガは小槌を腰に下げ、腕を組んで立っていた。いつものように少し不機嫌そうな顔をしているが、目はナノの右手から離れていない。
「怖いよ」
ナノは正直に答えた。
「昨日は座ってたから、止められた。でも戦いながら同じことができるか分からない」
「分からないなら、分からないって顔でいろ。できるふりするより百倍ましだ」
「ロガって、たまにちゃんといいこと言うよね」
「たまにってなんだよ」
ロガは眉を寄せたが、怒ってはいなかった。
そこへグレンが現れた。手には黒い布に包まれた小瓶を持っている。瓶の中身は見えない。それでもナノの右腕がじり、と熱を持った。
黒錆化前魔石。
精錬済みの、まだ完全ではない黒錆の力。
「今日の訓練は、実地と言っても討伐ではない」
グレンは布包みを石台に置いた。
「廃坑の浅層で、黒錆共鳴を短く発動し、硬化を保ったまま移動する。敵は出ても低級だ。目的は倒すことではない。共鳴に飲まれず、戻ることだ」
「戻ること……」
ナノは小さく繰り返した。
ミラも来ていた。薬草袋を腰に下げ、ナノを見る目はいつも以上に厳しい。
「ナノ、今日は少しでも右腕が動かしにくくなったら中止よ。『まだいけます』は禁止」
「はい。……言いそうになったら、先に言います。たぶん、言いたくなってますって」
ミラは一瞬だけ目を丸くしたあと、少し笑った。
「いいわね。それなら止めやすい」
ロガが横から言う。
「じゃあ俺は、こいつが変な目になったら止める」
「変な目って?」
「魔石を食いそうな目」
「そんな目してる?」
「してる時ある」
ナノは否定できなかった。
グレンは小瓶を持ち上げる。
「黒錆共鳴は、力を借りるだけだ。奪うな。吸うな。自分のものにしようとするな」
「借りるだけ……」
「そうだ。欲を出せば、黒錆は右腕へ偏る。恐怖で逃げれば、共鳴は崩れる。欲と恐怖の間に立て」
言葉は短いが、重かった。
欲と恐怖の間。
今の自分は、まさにそこに立っている。
*
訓練場所は、ガルバ坑道街の外れにある浅い廃坑だった。
使われなくなった採掘道で、壁には古い鑿の跡が残っている。灯石の明かりは少なく、通路は薄い灰色の闇に沈んでいた。足元には乾いた石粉が積もり、歩くたびに小さく舞い上がる。
ナノは石台の上に置かれた小瓶を見た。
瓶越しに、赤黒い光がかすかに揺れている。
グレンが言う。
「鉄鋼魔石、鱗硬化魔石、黒錆化前魔石。この順で共鳴させる。時間は十数えるまで」
ナノは頷いた。
右手を石台に置く。
鉄鋼魔石の熱が来る。硬さの芯。
鱗硬化魔石の冷たい層が重なる。硬さが右腕だけに沈まず、肩へ、胸へ、薄く広がる。
そして黒錆化前魔石。
「っ……」
赤黒い熱が右腕に噛みついた。
ナノは歯を食いしばる。欲が湧く。もっと強く。もっと硬く。今すぐ掴め。今すぐ自分のものにしろ。
だが同時に、怖さも来る。腕が自分ではなくなる感覚。黒錆に引きずられる感覚。
「ナノ」
ロガの声。
「戻ってこいよ」
その声で、ナノは息を吸った。
「……戻る」
小さく答え、百錬成鋼を微弱に発動する。
「百錬成鋼……微」
右手の皮膚の下が、薄く硬くなった。灰色の膜が張るような感覚。赤黒い熱が、その膜の奥で暴れようとする。
グレンが数える。
「一」
ナノは立ち上がった。
「二」
一歩進む。右腕が重い。だが動く。
「三」
足元の石粉が舞う。鼻の奥が乾く。
「四」
右手を開く。指は動く。
「五」
欲が囁く。もう少し強くできる。
「六」
ナノは護符を握った。
「七」
胸が苦しい。
「八」
「ナノ、顔!」
ロガの声が飛ぶ。
ナノははっとした。右腕に熱を集めすぎていた。
「……危ない、です」
自分で言えた。
グレンが即座に黒錆化前魔石を遠ざけた。
熱が引く。右腕にだるさが残る。ナノは膝をつきそうになったが、ロガが肩を支えた。
「おい、今の分かったか」
「うん……もっと強くできるって思った」
「それが危ねぇんだよ」
「分かってる。でも……言えた」
ナノの声は震えていた。
ミラが掌を確認する。
「赤みはある。でも暴走していないわ」
グレンが短く頷いた。
「今日は成功だ」
「成功、なんですか。途中で危なかったのに」
「危ないと分かり、止められた。戦闘で最初に必要なのはそれだ」
ナノは荒い息のまま右手を見た。
まだ黒錆を使えたとは言えない。
だが、黒錆に触れ、危うくなり、そして戻れた。
小さな成功。
けれど、今のナノには確かな一歩だった。
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