第45話 黒錆共鳴の入口
黒錆化前魔石の精錬は、前回の黒錆魔石よりも静かに始まった。
精錬室の炉は青白く燃えている。火は小さいのに、部屋の中の空気は張り詰めていた。白鈍石の粉が入った皿、鉄鋼魔石の粉、鱗硬化魔石を薄く削った粉、そして黒錆化前魔石。石台に並べられた素材は、どれもナノがここ数日で関わってきたものだった。
硬殻モグラの硬化魔石。
鉄鋼ゴブリンの鉄鋼魔石。
石纏い蜥蜴の鱗硬化魔石。
黒錆化前鉄鋼魔石。
それぞれの依頼が、単なる寄り道ではなかったのだと、ナノは今になって実感した。汚れた坑道を歩いたこと。魔物の目に迷ったこと。傷のない魔石を取り出したこと。ロガに止められたこと。その全部が、この石台の上に戻ってきている。
グレンが黒錆化前魔石を金属の器に置いた。
「完全な黒錆魔石よりは軽い。だが油断すれば持っていかれる」
「はい」
「今日は精錬を見たあと、短い共鳴を試す」
ナノの胸が跳ねた。
「今日、試すんですか」
「条件は揃った。だが、短い。触れるのは護符越しだ」
ミラが横から言う。
「異常が出たら即中止。ナノ、分かっているわね」
「分かっています。続けたいと思っても、危ないと思ったら言います」
「よろしい」
ロガは精錬室の壁際に立っていた。いつもより口数が少ない。ナノが見ると、ロガは小さく舌打ちした。
「なんだよ」
「緊張してる?」
「してるに決まってんだろ。お前がまた魔石の方へ歩き出したら、今度は蹴ってでも止める」
「蹴るのはやめてほしい」
「じゃあ頭を叩く」
「それも嫌だ」
「わがままだな」
そのやり取りで、少しだけ肩の力が抜けた。
精錬が始まる。
グレンは黒錆化前魔石へ白鈍石の粉をかけた。赤黒い筋が一瞬強く光り、すぐに白い膜に抑えられる。次に鉄鋼魔石の粉。硬さの芯を整えるように、黒い光が中心へ沈む。最後に鱗硬化魔石の粉が振りかけられた時、赤黒い筋が一箇所に集まらず、薄い層へ分かれていくのが見えた。
ナノは思わず息を呑んだ。
「……散ってる」
グレンが手を止めずに聞く。
「何が見える」
「赤黒い線が、右腕みたいに一箇所へ伸びるんじゃなくて、薄く重なってます。鱗みたいに」
「石眼は使っていないな」
「はい。目で見えます」
セリカが以前言った、記録の芯という言葉を思い出した。魔石はただ力を持っているだけではない。どう整えられ、どう使われるかで、進む道が変わる。
冷却水へ魔石が落とされる。
しゅう、と白い蒸気が上がった。水面に赤黒い光が揺れ、すぐに静まる。
精錬後の黒錆化前魔石は、以前よりも暗くなっていた。赤黒い光は残っているが、暴れるような鋭さは薄い。表面には、細い灰色の層が浮いていた。
グレンはそれを小皿に置き、黒脈石の護符を挟んでナノの前へ置いた。
「始める」
ナノは両手を石台に乗せた。
低級鉄鋼魔石が近づく。掌に硬さの熱が灯る。
鱗硬化魔石が近づく。熱が右腕から肩、胸へ薄く広がる。
そして、精錬済みの黒錆化前魔石が近づけられた。
ナノの呼吸が止まりかけた。
熱が来る。
右腕に、赤黒い熱が流れ込もうとした。だが、前回のように一点へ突き刺さる感じではない。鉄鋼魔石の硬さが芯になり、鱗硬化の層がそれを広げる。黒錆の熱は荒い。怖い。けれど、完全には暴れていない。
ナノは震える声で言った。
「来てます……右腕に。でも、肩にも散ってます。胸にも少し。痛いけど、前より……前より、俺の中で止まってます」
ミラがすぐに聞く。
「続けられる?」
欲が叫ぶ。
もっと。
もう少し。
ここで押せば、黒錆が自分のものになるかもしれない。
ナノの指が震えた。
その時、ロガの声が飛んだ。
「ナノ。欲しいなら欲しいって言え。でも勝手に行くな」
ナノは目を見開いた。
欲しい。
言っていい。
でも従わなくていい。
「……欲しい」
ナノは声を絞った。
「すごく欲しいです。もっと進めたい。でも、今これ以上やったら、たぶん危ない」
グレンが黒錆化前魔石を少し遠ざけた。
「なら止める」
熱が引く。
ナノは大きく息を吐いた。体の中に、赤黒い余熱が残っている。だが、右腕は動く。指も開く。胸の圧迫も軽い。
ミラが掌を確認した。
「石紋の赤みはある。でも広がりすぎていない。前よりずっと安定しているわ」
グレンは静かに頷いた。
「黒錆共鳴の入口に立ったな」
ナノは震える右手を見た。
「入口……」
「完全な適合ではない。吸収でもない。だが、黒錆の力に触れ、戻ってこられた」
戻ってこられた。
その言葉に、ナノの胸が熱くなった。
ロガが壁にもたれたまま、ほっと息を吐いた。
「まったく……見てるこっちの胃が痛くなる」
「ごめん」
「謝るなら飯おごれ」
「報酬が入ったら」
「言ったな」
ロガの顔に、ようやくいつもの調子が戻った。
ナノは黒脈石の護符を握った。冷たい。けれど、その冷たさの奥に、今は赤黒い小さな熱も混じっている気がした。
黒錆魔石はまだ遠い。
けれど、もう触れられないだけの恐怖ではない。
積み重ねれば近づける。
戻ってこられる。
その実感が、ナノの中に確かに残った。
グレンが言った。
「次は、黒錆共鳴を戦闘で崩さず保てるかを見る」
ナノの背筋が伸びた。
「戦闘で……」
「ああ。共鳴は座ってできても意味がない。坑道で、恐怖と欲の中で保てなければ使えん」
ミラがすぐに釘を刺す。
「段階を踏んでからよ」
「分かっている」
ナノは右手を握った。
まだ弱い。まだ危うい。けれど、黒錆に触れても戻ってこられた。
それは、今のナノにとって大きな証だった。
第3章の魔石狩りは、次の段階へ進もうとしていた。
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