第44話 黒錆化前魔石
坑道ギルドへ戻るまで、ナノはほとんど黒錆化前魔石を見なかった。
見ないようにしていた、と言った方が正しい。
魔石はダルガが専用の小瓶に入れ、さらに白鈍石の粉を詰めた革袋で包んでいた。それでも、腰袋の奥から赤黒い気配が滲み出してくるような気がした。ナノの右腕は、時々思い出したように熱を持つ。そのたびに黒脈石の護符を握り、ロガが横目で確認した。
「熱いのか」
「少し」
「歩けるか」
「歩ける」
「嘘なら担ぐぞ」
「それは嫌だから、本当に歩ける」
ロガは鼻を鳴らした。
「ならいい」
その短いやり取りが、ナノにはありがたかった。余計な励ましではなく、ただ隣で状態を確認してくれる。それだけで、黒錆に引かれる感覚から少し離れられた。
ギルドへ着くと、ラウネがすぐに記録室を開けた。
通常の報告カウンターではない。危険魔石を扱う時に使う、石壁に囲まれた小部屋だった。室内には冷却用の水槽、白鈍石の粉、魔石封じの金属箱が並んでいる。空気はひんやりしていて、外の広間のざわめきが厚い壁に遮られていた。
ダルガが革袋を石台に置く。
「黒錆化前鉄鋼魔石。状態は良い。粉塵散布は最小限で抑えた」
ラウネは慎重に袋を開いた。白鈍石の粉の中から、小瓶が現れる。瓶越しでも、赤黒い筋が見えた。
ナノは無意識に一歩前へ出そうになった。
ロガが肘で止める。
「近い」
「……ありがとう」
「礼はいい。目が怖いぞ」
ナノは息を吐き、半歩下がった。
ラウネは魔石を見ながら記録する。
「黒錆線は未完全。鉄鋼魔石の芯は残存。右肩硬化との連結あり。黒錆粉は少量。危険度は中。精錬すれば、黒錆魔石二次適合の橋渡しになる可能性あり」
「橋渡し……」
ナノは小さく繰り返した。
完全な黒錆魔石はまだ重すぎる。だが、この黒錆化前魔石なら、段階として使えるかもしれない。右腕が熱くなる。今度は欲だけではなく、期待もあった。
グレンが記録室へ入ってきた。
工房から直接来たのか、作業着には煤が残っている。彼は魔石を見ると、眉を少しだけ動かした。
「良い状態だ」
ダルガが頷く。
「ナノの読みが効いた。右肩を割らずに済んだ」
グレンの視線がナノへ向く。
「引かれたか」
短い問い。
ナノは誤魔化さなかった。
「かなり。戦っている途中で、魔物の方へ歩きかけました」
室内の空気が少し重くなった。
ミラも遅れて入ってきて、その言葉に眉を寄せる。
「歩きかけた?」
「はい。でも、ロガが止めてくれました。戻ってこいって言われて……それで戻れました」
ロガが気まずそうに顔を逸らす。
「別に、大げさなことじゃねぇよ」
ミラはロガを見た。
「大げさよ。よく止めたわ」
「……どうも」
ロガの耳が赤くなった。
グレンはナノの右腕を見た。
「黒錆に引かれるのは避けられん。お前の【石】は、あれを欲しがる」
「やっぱり、そうなんですね」
「ああ。だが、欲しがることと、従うことは違う」
ナノは胸元の護符を握った。
「今日は、従いかけました」
「そして戻った」
「ロガがいたからです」
「なら、それもお前の力だ」
ナノは驚いて顔を上げた。
「俺の力、ですか」
「1人で立つだけが強さではない。戻してくれる相手を持ち、その声を聞けることも強さだ」
ナノの胸に、ゆっくり熱が広がった。
父と母に逃がされた時、自分は1人だった。谷底で目を覚ました時も、1人だった。けれど今は、戻れと言ってくれる声がある。その声を聞いて戻れる自分がいる。
ラウネが記録板に印を押した。
「この魔石はグレン管理で精錬。ナノ本人の直接接触は禁止。二次適合試験に使う場合は、ミラ立ち会い必須」
「当然ね」
ミラは即答した。
ナノは苦笑した。
「逃げ場がないですね」
「逃げ場を作ったら、あなたはそっちに走るでしょう」
「否定できません」
ロガが小さく笑った。
「自覚出てきたな」
「うん。嫌だけど」
グレンは黒錆化前魔石を金属箱に入れた。
「明日は精錬だ。お前は見学だけ」
「はい」
「触れるな」
「触れません」
「欲しくなったら言え」
ナノは少し迷ってから頷いた。
「分かりました。欲しくなったら、言います」
その言葉を口にした瞬間、ナノは少しだけ楽になった。
欲を隠さなくていい。
けれど、欲に従わなくていい。
黒錆化前魔石は、金属箱の中で静かに眠っていた。赤黒い光は見えなくなった。それでもナノの右腕には、まだその熱の記憶が残っていた。
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