第43話 欲を削る戦い
戦いは、静かには始まらなかった。
ダルガ班の戦士が一歩踏み込んだ瞬間、通常の鉄鋼ゴブリン2匹が耳を裂くような声を上げた。鉄粉のついた歯を剥き、廃材置き場の鉱石箱を蹴り倒す。箱が砕け、中から鉄鉱の欠片が床へ散らばった。
黒錆化前個体は動かなかった。
ただ、右肩を震わせている。赤黒い筋が脈打つたび、細かな黒錆粉が床へ落ちた。その粉を見るだけで、ナノの右腕が熱を持つ。体の中に、触れてはいけない火種があるようだった。
「ナノ、前に出るな」
ロガが低く言った。
「分かってる」
「今の声、分かってるけど行きたい声だ」
「……分かってる」
否定できなかった。
黒錆化前個体の魔石が欲しい。あれを見れば、黒錆魔石への道が進む。そう思う自分がいる。同時に、近づけば飲まれるかもしれないという恐怖もある。
欲と恐怖が、胸の中で擦れ合っていた。
ダルガの指示が飛ぶ。
「通常個体を先に落とせ。中央はまだ触るな!」
セリカが左へ回り、通常個体の膝裏を短刃で切る。もう1人の戦士が盾で押し込み、腹部を避けて肩を打つ。魔石を壊さない、綺麗な制圧だった。
ナノはその動きを必死に追う。
倒すだけではない。壊さずに取るための戦い。ダルガ班の動きには、それが染みついていた。
通常個体の1匹が、戦士の間をすり抜けてロガへ向かってくる。
「来た!」
ロガが小槌を構えた。
ナノは石眼を使わずに見た。右腕の硬化は薄い。左膝に傷。勢いはあるが、踏み込みが浅い。
「ロガ、左膝が弱い!」
「分かった!」
ロガは正面から受けず、左へ半歩ずれた。小槌が膝へ入る。鉄鋼ゴブリンが崩れ、ロガが肩を押さえ込んだ。
「ナノ、魔石位置!」
「腹部中央、少し左!」
「取れるか?」
ナノは一瞬迷った。
戦闘禁止ではないが、前線ではない。けれど、通常個体なら取れる。手を動かせる。何より、魔石を壊したくなかった。
「行きます!」
ナノは低く走り、倒れたゴブリンの横へ滑り込んだ。鉄粉と獣の息が鼻を突く。生き物の熱がまだ残っている。ナイフを入れる手が、少し震えた。
ロガが歯を食いしばりながら押さえる。
「焦るな。俺が押さえてる」
「うん……!」
腹部中央やや左。浅く切る。硬い筋を避ける。魔石の縁を探る。指先に小さな鉄色の感触。ナノは息を止めないよう意識しながら、魔石を取り出した。
傷は浅い。
使える。
「取れた!」
「よし、下がれ!」
ロガの声に従い、ナノはすぐ後ろへ下がった。以前なら、もう少し何かできると思って残ったかもしれない。だが今は違う。役割を終えたら下がる。それも戦いだ。
その時、黒錆化前個体が動いた。
鈍い音を立てて床を蹴る。右肩を庇うように体を傾け、左脚で踏み込んでくる。ナノが見た弱点を、まるで隠すような動きだった。
「こいつ、分かってやがる!」
ロガが叫ぶ。
黒錆化前個体の右腕が振られた。ダルガが盾ではなく槌で軌道を逸らす。直接受ければ粉が散る。だから触れすぎず、流す。
セリカが左脚を狙う。
だが、黒錆化前個体は低く唸り、左脚を引いた。代わりに右肩を壁へ叩きつける。
「まずい!」
ナノが叫んだ。
右肩の瘤にひびが入る。赤黒い粉が舞った。
全員が一歩下がる。
粉塵が灯石の光を濁らせる。ナノの右腕が熱を持った。粉を吸っていないのに、石紋が反応している。
欲しい。
強くなれる。
触れろ。
ナノの足が一歩前へ出そうになった。
その瞬間、ロガの手が肩を掴んだ。
「行くな!」
怒鳴り声だった。
ナノはびくりと止まった。
ロガの顔には怒りがあった。けれど、その奥には恐怖もあった。
「お前、今、魔物の方へ歩きかけたぞ!」
「……ごめん」
「謝るな! 戻ってこい!」
戻ってこい。
その言葉が、胸を打った。
ナノは護符を握りしめた。黒脈石の冷たさが、掌の熱を抑える。自分は今、黒錆魔石に近づきたいのではない。黒錆に飲まれかけていた。
「戻る……俺は、戻る」
ナノは小さく呟いた。
視界が少しずつはっきりする。
ダルガが叫ぶ。
「ナノ、まだ読めるか!」
怖い。
でも、ここで読まなければ、戦いが長引く。
「読みます。一瞬だけ!」
石眼を開く。
黒錆化前個体の体に、赤黒い線が走っている。右肩から腹部中央の魔石へ。だが、左脚の付け根に、まだ黒錆の届いていない薄い部分がある。
――左脚付け根、硬化薄。右肩粉塵、接触危険。魔石、腹部中央。黒錆線、未完全。
ナノは閉じた。
「左脚の付け根! そこを落とせば倒れます! 右肩は触らないで!」
セリカが動いた。床を蹴り、黒錆粉の薄い場所を縫うように走る。短刃が左脚の付け根へ入った。黒錆化前個体が崩れる。
ダルガが踏み込む。
「腹を開ける。ナノ、位置だけ言え!」
「中央、少し奥! 黒い線の根元です!」
ダルガの刃が迷いなく入った。黒錆化前個体が喉を震わせる。暴れようとする右腕を、ロガと戦士が押さえる。粉が舞わないよう、肩には触れない。
やがて、腹部から赤黒い筋を持つ魔石が取り出された。
黒錆化前鉄鋼魔石。
完全な黒錆ではない。
けれど、明らかに黒錆へ向かう石。
ナノの右腕が強く熱を持つ。
ロガがすぐに言った。
「見るな、ナノ」
「見たい」
「正直すぎんだろ」
「でも、今は触らない」
ナノは震える手で護符を握った。
「今、触ったら、たぶん俺は持っていかれる」
ロガは黙って、ナノの前に立った。
魔石が見えないように。
その背中に、ナノは救われた。
欲を消すことはできない。
だが、削ることはできる。
今日の戦いで、ナノはそれを初めて体で覚えた。
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