第42話 黒錆化の前兆
黒錆化しかけた鉄鋼ゴブリン。
その名前は、坑道ギルドの依頼板でも異様に目立っていた。
札そのものは古い木札だった。けれど、依頼名の横に赤い線が引かれ、危険度の欄にはE上位と書かれている。推奨人数は3名以上。場所は北鉱道奥、廃材置き場付近。追加報酬は、黒錆化前の鉄鋼魔石、黒錆粉、変異爪。
ナノは依頼札の文字を見つめたまま、無意識に右腕を押さえていた。
昨日の二次適合の熱は、まだ完全には消えていない。痛みはない。けれど、黒錆という文字を見ただけで、右腕の奥に小さな火種が灯る。
ロガが隣で腕を組んだ。
「行きたい顔してるな」
ナノは目を逸らさずに答えた。
「行きたい。怖いけど」
「怖いって言うなら、まだいい。『大丈夫です』って言い出したら、俺はお前を椅子に縛る」
「そこまで?」
「そこまでだ」
ロガの声は冗談のようで、半分本気だった。
ラウネがカウンターから依頼札を外し、2人の前に置いた。
「これは見習いだけでは受けられないわ。ダルガ班の補助として同行。ナノは見極め役、ロガは補助戦闘とナノの監視」
「監視って言い方、完全に俺の仕事が増えてるんだけど」
「増えているわよ」
ロガはげんなりした顔をしたが、拒まなかった。
ラウネはナノを見た。
「黒錆化前の個体は危険よ。完全な黒錆ゴブリンほどではないけれど、普通の鉄鋼ゴブリンよりずっと不安定。魔石が歪みかけているから、倒し方を間違えると粉を撒く」
「粉を吸うと?」
「血流が乱れる。軽ければ痺れ、重ければ腕や足が一時的に硬直する。あなたは特に反応しやすいはず」
ナノは喉を鳴らした。
右腕が硬直する想像が浮かぶ。自分の腕が自分のものではなくなり、指が石のように固まる。昨日の怖さが、また胸に戻ってきた。
「……分かりました。粉には近づきません。石眼も、必要な時だけ使います」
ラウネは少しだけ目を細めた。
「前より、言葉に重さが出たわね」
「怖いので」
「怖さを言えるなら大丈夫。隠したら危ない」
その時、ダルガが広間へ入ってきた。セリカと、若いドワーフ戦士が2人。全員、灰色の布を口元に巻いている。
「準備はできているか」
ナノは頷いた。
「はい。……緊張しています」
ダルガは低く笑った。
「なら良い。緊張しない者より、緊張を持って歩ける者の方が使える」
セリカがナノの右腕を見た。
「昨日の共鳴の反動は?」
「少し重いです。でも、動きます」
「少し重い、ね。無理をしたらすぐ分かるからね」
「はい」
セリカの目は優しいが、見逃さない目だった。
北鉱道へ向かう道は、以前より暗く感じた。
前にも鉄鋼ゴブリンを倒した場所だ。だが、今日は空気が違う。鉄と油の匂いの中に、赤錆びた血のような匂いが混じっている。坑道の壁に走る黒い鉱脈が、灯石の光を吸い込んでいるように見えた。
ナノは足元を見ながら歩いた。
濡れた場所はない。けれど、床の隙間に赤黒い粉が溜まっている。普通の鉄粉よりも色が深い。
「これ……」
ナノがしゃがみ込む前に、セリカが止めた。
「素手で触らない」
「はい」
セリカは金属の細い棒で粉をすくい、小瓶に入れた。
「黒錆粉だね。まだ薄いけれど、間違いない」
ダルガが坑道の奥を見た。
「近いな」
その言葉の直後、奥から音がした。
がり。
がり。
がりっ。
鉱石をかじる音。だが、普通の鉄鋼ゴブリンの音よりも乱れていた。途中で爪を立てるような、壁を引っ掻くような音が混じる。
ナノの右腕が熱を帯びる。
欲ではない。
警戒だ。
ロガが小声で言った。
「ナノ、顔」
「分かってる。今、引かれかけた」
「引かれるな。見るだけだ」
「うん」
岩陰から覗くと、廃材置き場に3匹の鉄鋼ゴブリンがいた。
うち2匹は通常個体。だが中央の1匹だけが異様だった。右肩から腕にかけて、赤黒い筋が走っている。鉄色の瘤の隙間に、血管のような黒錆の線。爪の先からは、細かな赤黒い粉がこぼれていた。
黒錆化前個体。
完全な黒錆ではない。
けれど、普通でもない。
ナノの掌がじりじりと熱くなる。
ダルガが囁いた。
「ナノ、見るか」
ナノは息を吸った。
「見ます。でも、一瞬だけ」
石眼を開く。
視界が白く揺れる。
――鉄鋼ゴブリン黒錆化前個体。右腕、黒錆侵食初期。魔石位置、腹部中央。黒錆線、右肩から魔石へ伸長。右肩破壊時、粉塵散布。左脚、硬化薄。
ナノはすぐ閉じた。
頭に熱が刺す。
「右肩は壊さないでください! 粉が出ます! 左脚が薄いです。先に足を止めて、魔石は腹部中央!」
ダルガが頷いた。
「聞いたな。右肩に触るな。左脚を落として腹を取る」
戦闘班が動く。
だが、黒錆化前個体の黄色い目が、まっすぐナノを見た。
ナノの息が止まる。
魔物がこちらを見ている。
いや、正確には、ナノの石紋を見ているようだった。
黒錆化前個体が、喉の奥で笑うような音を出した。
ぎ、ぎぎ。
右腕の奥が、熱く疼いた。
欲しいだろう。
そう言われた気がした。
ナノは護符を握った。
「……欲しい。でも、今は飲まれない」
小さな呟きだった。
ロガだけがそれを聞いていた。
「なら、俺が隣で見てる」
その声に、ナノは踏みとどまった。
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