第41話 黒錆魔石の二次適合
黒錆魔石の二次適合試験は、黒鉄炉の奥にある精錬室で行われた。
朝から工房全体の音が少しだけ抑えられていた。いつもなら絶え間なく響く槌音も、今日は遠くで低く鳴るだけだ。炉の火は赤く燃えているのに、精錬室の空気は妙に冷たい。岩壁に残った煤の匂い、白鈍石の粉の乾いた匂い、魔石を冷やす水槽から立つ湿った蒸気。その全部が混ざって、ナノの喉を少しずつ狭くしていった。
石台の上には、黒錆魔石が置かれている。
一次精錬を終えた赤黒い欠片。表面には白鈍石の細い膜が浮かび、以前よりも暴れるような光は弱まっていた。けれど、近づくだけで掌の石紋がじり、と熱を持つ。まるで魔石の奥から、声にならない声が染み出してくるようだった。
欲しい。
強くなれる。
今のままでは足りない。
ナノは思わず胸元の黒脈石の護符を握った。護符は冷たかった。けれど、その冷たさがなければ、指先が勝手に黒錆魔石へ伸びていたかもしれない。
「顔が引っ張られている」
グレンが低く言った。
ナノははっとして顔を上げた。
「……すみません。見てるだけで、少し」
「謝る場面ではない。今の感覚を忘れるな。魔石に触れる前から引かれるなら、触れた時はもっと強い」
ミラが横から薬草布を並べている。いつもの穏やかさはあるが、目は笑っていなかった。
「ナノ。今日は本当に短時間よ。右腕に痛みが出たら即中止。胸が苦しくなっても中止。視界が白くなっても中止。強がったら、私が止める」
「はい。……怖いです。でも、隠しません」
ミラは少しだけ頷いた。
「その返事ならいいわ」
ロガは壁際に立っていた。腕を組んでいるが、落ち着きなく足先で床を叩いている。ナノが見ると、ロガはわざと視線を逸らした。
「なんだよ」
「いや……ロガも緊張してるんだと思って」
「当たり前だろ。お前、放っておくとすぐ無茶するからな」
「今日はしない」
「その言葉、半分くらい信用してる」
「半分なんだ」
「前よりは高い」
ナノは少し笑った。笑ったことで、胸の奥の硬さが少しだけほどけた。
グレンが石台の上に、黒脈石の護符、低級鉄鋼魔石、鱗硬化魔石を並べる。黒錆魔石との間には、白鈍石の粉が薄く敷かれていた。
「前回、お前は黒錆魔石を直接受けるには右腕への偏りが強すぎた。今回は鉄鋼魔石で硬さを作り、鱗硬化でその硬さを散らす。その上で、黒錆の反応を見る」
「吸収はしないんですよね」
「ああ。今日は共鳴だけだ」
分かっている。それなのに、ナノの胸の奥では、共鳴だけでは足りないという欲が小さく疼いていた。
グレンが低級鉄鋼魔石を護符へ近づけた。掌にじんわりと硬さの熱が広がる。次に鱗硬化魔石。右腕に集まりかけた熱が、肩と胸へ薄く散った。
ここまでは前回と同じだ。
ナノは息を整える。
「百錬成鋼……微」
白い石紋が淡く光る。右手の皮膚の下に、薄い硬さが生まれる。重いが、動かせる。怖いが、まだ自分の体だ。
グレンが黒錆魔石を、ほんの少しだけ近づけた。
瞬間、空気が変わった。
「っ……!」
ナノの右腕に、熱い針を何本も打ち込まれたような感覚が走った。硬さではない。硬くなりたいという衝動そのものが、腕の中で暴れた。指が勝手に握られる。爪が掌に食い込む。
ミラの声が飛ぶ。
「ナノ、痛みは?」
「痛い、です……でも、耐えられないほどじゃ……」
「耐えられるかじゃない。続けられるか」
ナノは奥歯を噛んだ。
続けたい。もう少しで何か掴めそうだった。右腕の奥に、黒錆魔石の力が触れている。怖い。けれど、その怖さの奥に、自分が求めていた強さの匂いがある。
だが、その欲のまま言えば、きっと嘘になる。
「……続けたいです。でも、危ない気がします」
グレンの目が細くなった。
「いい判断だ。そこで止める」
黒錆魔石が遠ざけられた。
右腕の熱が一気に引き、代わりに重だるさが残る。ナノは肩で息をした。額には汗が浮いていた。
「はっ……はぁ……」
ロガが駆け寄りかけて、ミラに目で止められた。けれど声だけは抑えきれなかった。
「おい、ナノ。今の、大丈夫じゃねぇだろ」
「うん。大丈夫じゃなかった」
「そこで素直に言うなら、まだましだな」
ミラが掌の石紋を確認する。赤黒い細線が右腕側へ伸びかけていたが、黒脈石の護符に触れると少しずつ薄れていった。
「偏りは出た。でも、前より広がり方が柔らかいわ。鱗硬化が効いてる」
グレンは黒錆魔石を見つめた。
「二次適合、失敗ではない。だが成功でもない」
ナノは息を整えながら聞いた。
「じゃあ……今の俺は、どこまで来てるんですか」
「黒錆魔石に触れられる入口に立った。だが、入ればまだ壊れる」
その言葉は悔しかった。けれど、不思議と絶望ではなかった。
入口には立った。
以前は、そこに近づくことさえできなかった。
ナノは震える右手を見た。まだ少し赤黒い熱が残っている。それでも指は動く。
「……入口なら、次は一歩入れるようにします」
グレンは短く頷いた。
「そのために、次は黒錆に近い魔石を狩る」
ミラが眉を寄せる。
「すぐには駄目よ」
「分かっている。明日ではない」
ロガが嫌そうに顔をしかめた。
「黒錆に近い魔石って、嫌な予感しかしねぇんだけど」
グレンは石台の上の黒錆魔石を小瓶へ戻しながら言った。
「北鉱道の奥で、黒錆化しかけた鉄鋼ゴブリンが出たらしい」
ナノの掌が、まだ残る熱とは別の熱を帯びた。
黒錆化しかけた鉄鋼ゴブリン。
黒錆魔石への、次の段階。
怖い。けれど、目を逸らせなかった。
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