第40話 鱗硬化の共鳴
ガルバ坑道街へ戻る頃には、ナノの服は湿った土と鉱石粉で重くなっていた。
外縁坑道の冷たい空気から黒鉄炉の近くへ戻ると、肌にまとわりついていた湿気が一気に熱を帯びる。遠くから聞こえる槌音、炉の赤い光、行き交うドワーフたちの低い声。そのすべてが、今のナノには少しだけ懐かしく感じられた。
戻ってきた。
そう思える場所が、自分にもでき始めている。
坑道ギルドでは、ラウネが待っていた。彼女はナノの記録石板を受け取ると、最初に眉を上げた。
「字が荒いわね」
横でロガが小さく吹き出す。
「ほらな」
ナノは顔を熱くした。
「読めますよね」
「読めるわ。でも記録は、次に読む人のためのものよ。自分が分かればいい、では半分足りない」
「……書き直します」
「内容は悪くないわ。魔石位置、部位の硬化、損傷の有無。見習いの初記録としては十分」
その言葉に、ナノは胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
セリカが小瓶を置いた。
「傷なしの石纏い蜥蜴魔石。ナノが取った」
ラウネの目が少し変わった。
「傷なし?」
「手は震えていたけれど、刃は乱れなかった」
ナノは俯きそうになった。褒められることに、まだ慣れていない。けれど今回は、逃げるように視線を落とさなかった。
「怖かったです。でも、雑にしたくありませんでした」
ラウネは静かに頷いた。
「その感覚は大事にして。魔石狩りで一番失ってはいけないものだから」
報告のあと、魔石はすぐにグレンの工房へ運ばれた。黒鉄炉の奥、精錬台の上に、石纏い蜥蜴の硬化魔石が置かれる。黒灰色の表面には、鱗のような層模様が浮いていた。
鉄鋼魔石とは違う。
鉄鋼魔石は、硬さをそのまま押し出すような感覚だった。真正面から固める力。対して、この魔石は薄い板を何枚も重ねるように見える。受け止めるのではなく、ずらし、散らし、衝撃を逃がす力。
ナノは思わず呟いた。
「硬いけど、違う……」
グレンが横で聞いた。
「どう違う」
「鉄鋼魔石は、ぐっと一箇所を固める感じでした。でもこれは、薄い鱗が重なるみたいです。真正面から受けるというより、力を流す感じがします」
セリカが満足そうに笑った。
「いい感覚だね」
グレンも頷く。
「鱗硬化だ。黒錆魔石へ進む前に、これは使える」
「黒錆魔石に?」
「ああ。黒錆は硬さが歪んでいる。今のお前が受けると右腕に偏る。だが鱗硬化を挟めば、硬さを層にして散らせる可能性がある」
ナノの胸が高鳴った。
昨日まで、右腕への偏りが課題だった。鉄鋼魔石で硬さを薄く乗せ、今度は鱗硬化でそれを散らす。黒錆魔石が、ただ遠い危険な石ではなく、積み重ねれば届く道に見えてきた。
ミラも工房に来ていた。
「試すなら短時間よ。ナノ、嬉しそうな顔をしているけれど、体はまだ完全じゃないからね」
「はい。無理はしません」
「その言葉、前よりは信用できるようになってきたわ」
「前よりは、なんですね」
「ええ。まだ完全には信用していないわ」
ナノは苦笑した。ミラの厳しさは痛いが、今はありがたかった。
共鳴の準備が始まる。
黒脈石の護符。白鈍石の粉。低級鉄鋼魔石。そして、石纏い蜥蜴の鱗硬化魔石。
グレンはまず鉄鋼魔石を置いた。ナノの掌に、じんわりとした硬さの熱が広がる。昨日感じた、右腕に寄る重さ。
次に、鱗硬化魔石が近づけられる。
その瞬間、熱の質が変わった。
「……っ」
ナノは小さく息を詰めた。
右腕に集まりかけていた熱が、薄く広がる。手首から肘、肩へ。さらに胸の前へ、何枚もの薄い膜が重なるような感覚。痛くはない。だが気持ち悪さはある。自分の内側に、透明な鱗が一枚ずつ浮かんでくるようだった。
「どうだ」
グレンの声。
「右腕だけじゃなくて、肩と胸にも広がってます。薄い層みたいに。少し気持ち悪いです。でも、痛くはありません」
ミラがすぐに聞く。
「息苦しさは?」
「少し。でも、続けられます。長くは無理です」
「いい判断。自分で止め時を見ているわね」
ナノは頷いた。
グレンが言う。
「百錬成鋼を微弱に」
ナノはゆっくり息を吸った。
「百錬成鋼……微」
白い石紋が淡く光る。鉄鋼魔石の硬さ。鱗硬化魔石の層。黒脈石の護符の冷たさ。それらが、ナノの掌の中でかすかに重なった。
右手の皮膚の下が硬くなる。
だが、昨日のように一点へ重く沈まない。手の甲から前腕にかけて、薄い膜が張るような感覚だった。
ナノは恐る恐る指を動かした。
動く。
重いが、固まってはいない。
「動きます……!」
声に、抑えきれない喜びが混じった。
グレンの目が細くなる。
「鱗硬化の初共鳴。成功だ」
ナノは右手を見つめた。見た目には、肌の下がほんの少し灰色に光っただけだ。けれど自分には分かる。硬さが、一箇所に偏らず広がった。
ロガが隣で息を吐いた。
「やったな、ナノ」
その声は、いつもの照れ隠しのない、まっすぐな声だった。
「うん。ロガと取った魔石だから」
「……そういうの、さらっと言うなよ」
ロガは目を逸らしたが、口元は少し緩んでいた。
その時、ナノの胸元の黒脈石の護符が冷たく震えた。頭の奥に文字が浮かぶ。
――鉄鋼魔石共鳴、安定。鱗硬化魔石共鳴、初期成功。硬化偏り、軽減。黒錆魔石、二次適合試験条件、一部達成。
ナノは息を止めた。
「グレンさん……黒錆魔石の二次適合、条件が一部達成って出ました」
工房の空気が変わった。
グレンは黒錆魔石の小瓶を見た。
「思ったより早いな」
ミラがすぐに言う。
「でも、今日はここまで」
「はい」
ナノは迷わず答えた。
もっと試したい気持ちはある。だが、今は止める。それも成長だと、少しずつ分かってきた。
グレンは小瓶を手に取り、静かに言った。
「次は、黒錆魔石の二次適合試験だ」
ナノの胸が強く鳴った。
怖い。
けれど、ただ怖いだけではない。鉄鋼魔石、石纏い蜥蜴の鱗硬化魔石、ロガとの連携、魔石狩り班の教え。全部がそこへ続いている。
ナノは右手をゆっくり開いた。
まだ弱い。まだ未熟。けれど、昨日の自分より少しだけ硬く、少しだけしなやかになっていた。
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