第38話 石纏い蜥蜴
外縁坑道は、ガルバ坑道街の中心部とはまるで空気が違っていた。
黒鉄炉の熱も、ギルドのざわめきも、ここまでは届かない。壁は湿り、黒い苔が石の割れ目に張りついている。足元には細かな砂利が積もり、一歩踏むたび、ざり、と乾いた音が鳴った。灯石の光はまばらで、奥へ進むほど青白く冷えていく。
ナノは口元の布を直した。
湿った土の匂い。その奥に、獣の生臭さと、鉱石の硬い匂いが混ざっている。鼻の奥が少し痛くなるような匂いだった。
先頭を歩くのはダルガ。片目に傷のある女ドワーフ、セリカがその横につく。ナノとロガは後方だ。戦闘役ではない。見極め役。そう何度も言われているのに、ナノの手は何度も腰の槌を探しそうになった。
「今日は前に出るなよ」
ロガが小声で言った。
「分かってる」
「その顔は、分かってるけど体が勝手に動きそうな顔だ」
「そんな顔まであるの?」
「お前にはある」
ロガの声はいつも通りぶっきらぼうだったが、言葉の奥に心配があった。ナノは胸元の黒脈石の護符を握り、ゆっくり息を吐く。
「……怖いんだと思う。役に立てなかったらどうしようって」
「役に立とうとして突っ込むな。今日は見るのが仕事だろ」
「うん」
「それに、お前が見てくれないと、俺たちの方が困る」
ナノはロガを見た。
「今の、励ましてくれた?」
「違う。事実を言っただけだ」
「そっか。じゃあ、ありがとう」
「だからそうやって素直に受け取るなって」
ロガは顔を背けた。その耳がまた少し赤い。
ダルガが片手を上げた。全員が止まる。
坑道の奥から、低い擦過音が聞こえた。ずり、ずり、と硬いものが岩肌をこする音。刃物を石で研ぐ音にも似ていた。
セリカが壁に指を這わせた。
「石纏い蜥蜴だね。爪跡は新しい。2匹……いや、3匹いるかもしれない」
ナノも壁を見た。低い位置に爪跡がある。その少し上、右側の壁だけが広く擦れていた。黒灰色の粉がわずかに残っている。
「右半身に鱗が多いかもしれません」
ナノが言うと、セリカが振り返った。
「なぜそう思う?」
「爪跡の上の擦れ方が、右側の壁にだけ強いです。体を壁に当てて歩くなら、片側の鱗が厚いのかもって」
セリカは口元を少し上げた。
「石眼は?」
「まだ使ってません」
「いい目だね」
その一言に、ナノの胸が熱くなる。けれど喜ぶ暇はなかった。
岩陰から、石纏い蜥蜴が姿を現した。
体長は人の腰ほど。蜥蜴に似ているが、右半身には黒灰色の鉱石鱗がびっしり張りついていた。鱗は灯石の光を受け、濡れた刃のように鈍く光る。黄色い目がこちらを見た。細い舌が、湿った空気を舐めるように揺れる。
ナノは息を呑んだ。
鉄鋼ゴブリンのように叫ばない。錆鳴鼠のように鳴かない。ただ、低く体を沈め、音もなくこちらを測っている。その静けさが、かえって怖かった。
「ナノ、見るなら今だ」
ダルガの声。
「はい」
ナノは石眼を開いた。
視界が白く滲む。石纏い蜥蜴の輪郭に、情報が浮かんだ。
――石纏い蜥蜴。摂食鉱物、黒砂鉱、低級鉄鉱。硬化鱗、右半身集中。魔石位置、背骨下、右寄り。尾部切断時、魔石損傷なし。左腹部、脆弱。
ナノはすぐに石眼を閉じた。頭の奥に熱が走るが、まだ浅い。
「右半身の鱗が硬いです! 魔石は背骨の下、右寄り。尾を切っても魔石は傷つきません。左腹部が薄いです!」
ダルガの指示が飛ぶ。
「右から攻めるな。左へ回せ。尾を落として動きを止める」
戦闘班が動いた。
盾を持ったドワーフが前へ出る。セリカが左側へ滑るように回り込む。石纏い蜥蜴が跳んだ。速い。黒灰色の鱗が一瞬、灯石の光を裂いた。
盾に激突する。
金属と石がぶつかる音。火花。ドワーフ戦士の足が砂利を削る。
「重いぞ!」
セリカの短刃が尾を走った。無駄のない一閃。尾が落ち、石纏い蜥蜴が甲高く鳴いた。
その悲鳴に、ナノの胸が一瞬だけ痛んだ。
まただ。
魔物の声が、ただの音ではなく聞こえる。痛い、怖い、生きたい。そう叫んでいるように聞こえてしまう。
ナノの指先が震えた。
「ナノ」
ロガの声が耳に届く。
「見るなとは言わねぇ。見たまま、戻ってこい」
ナノは小さく頷いた。
そうだ。感じたまま、仕事に戻る。
「左腹部、今です!」
ナノが叫ぶ。
セリカが踏み込み、左腹部へ短刃を入れた。石纏い蜥蜴の体が崩れる。ダルガが押さえ、魔石の位置を傷つけずに止めた。
1匹目。
だが、岩陰からさらに2匹が飛び出した。
「抜けた!」
1匹が後方へ向かってくる。ナノとロガのいる場所だ。
ナノの足が一瞬すくんだ。戦闘禁止。だが、逃げなければ噛まれる。
ロガが前へ出た。
「下がれ、ナノ!」
小槌を構えるロガの背中が、ナノの視界を塞いだ。
その背中を見た瞬間、ナノの胸が熱くなる。守られるだけは嫌だ。けれど、今ここで役割を間違えれば、ロガまで危険に晒す。
見る。
動きを見る。
石纏い蜥蜴の右半身は重い。曲がる時、左へ体が流れる。
「ロガ! 右に逃げると追われる! 左へ流して!」
「分かった!」
ロガが左へ小石を転がす。石纏い蜥蜴の黄色い目が一瞬そちらへ向く。次の瞬間、セリカの投げ刃が尾を切った。
ロガが息を吐いた。
「……助かった」
「俺じゃない。セリカさんが」
「お前が読んだんだよ!」
ロガの声には焦りと安堵が混じっていた。
ナノは護符を握った。怖い。まだ怖い。けれど、見えた。石眼だけではなく、自分の目でも。自分の言葉で、誰かの動きが変わった。
外縁坑道の冷たい空気の中で、ナノは初めて、魔石狩り班の一員として息をしている気がした。
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