第36話 右腕に残る熱
鉄鋼魔石との初共鳴を終えた翌朝、ナノは右腕の重さで目を覚ました。
治療室の天井には、淡い灯石の光が揺れていた。岩を削って作られた天井の凹凸が、薄黄色の光を受けて、眠る前よりも少し深い影を作っている。部屋の空気には薬草と鉱石粉の匂いが濃く残っていた。乾いた草を砕いたような苦い匂いと、鉄錆びに似た冷たい匂い。その奥に、昨日触れた鉄鋼魔石の熱が、まだ自分の体に残っているような気がした。
ナノはゆっくり右手を持ち上げた。指を開く。閉じる。動く。けれど、いつもの手ではなかった。皮膚の下に薄い金属膜が張りついているような、関節の奥で小さな石片がこすれるような、不思議な違和感があった。
「……俺の腕、だよな」
小さく呟いた声は、自分でも情けないほど不安そうだった。
力を得たいと思っていた。強くなりたいと願っていた。父と母に逃がされるだけだった自分を変えたいと、何度も歯を食いしばってきた。けれど、いざ体の中に違う硬さが残ると、嬉しさより先に怖さが来た。もしこのまま、自分の体が少しずつ石に寄っていったら。もし強くなる代わりに、自分ではなくなっていったら。
胸元の黒脈石の護符を握る。ひんやりとした冷たさが指先に触れ、右腕の奥で燻っていた熱を少しだけ鎮めた。
扉が静かに開いた。
「起きてると思ったわ」
ミラだった。手には湯気の立つ杯を持っている。白い治療布を肩にかけ、いつもの穏やかな表情をしていたが、ナノの右手を見る目だけは鋭かった。
「ミラさん……おはようございます」
「おはよう。で、その顔は何? 右腕が重い、怖い、でも強がろうとして失敗している顔」
ナノは苦笑した。
「そこまで顔に出てますか」
「ええ。あなた、隠すのが下手すぎるもの。グレンの十分の一でも無表情を覚えたら?」
「グレンさんみたいになれる気がしません」
「なら正直でいなさい。その方が治療師としては助かるわ」
ミラは杯を差し出した。ナノは受け取った瞬間、匂いだけで顔をしかめる。
「……昨日より苦いですか」
「よく分かったわね。昨日より苦いわ」
「そこは否定してほしかったです」
「全部飲みなさい」
「はい……」
薬草水は、舌に乗せた瞬間から苦かった。喉を通る時には、鉄粉を溶かした水を飲んでいるような渋みが広がる。ナノが思わず肩を震わせると、ミラは少しだけ笑った。
「文句を言えるなら、意識ははっきりしてるわね」
「意識はあります。でも、右腕が……少し、自分のものじゃないみたいで」
言ってから、ナノは目を伏せた。弱音のように聞こえるのが嫌だった。けれどミラは笑わなかった。彼女はナノの右手を取り、手首から肘、肩へとゆっくり触れていった。
「痛みは?」
「痛みじゃなくて、重いです。あと、硬いものが内側に残っている感じがします」
「怖い?」
その問いは短かったが、逃げ道がなかった。
ナノは少し黙った。胸の奥で、父の背中と母の声が揺れた。生きろ。生きて。強くなりたい。でも、壊れたいわけじゃない。
「……怖いです。力が入ったのは嬉しいはずなのに、体が自分じゃなくなる気がして、少し怖いです」
ミラの指が止まった。
「その怖さは、持っていていいわ」
「持っていて、いいんですか」
「ええ。怖がれない人は、自分が壊れる音にも気づけない。強くなることと、自分を粗末にすることは違うの。あなたはそこを間違えやすい」
ナノは唇を噛んだ。言い返せなかった。強くなりたい気持ちが先に立つと、痛みや疲れを無視したくなる。昨日も、もう少し共鳴を続けたいと思った。その欲は確かにあった。
「……覚えておきます」
「うん。今の返事は、ちゃんと自分に向けて言っていたわね」
その時、廊下から足音が近づいてきた。ばたばたと慌ただしい音。扉が開きかける。
「ナノ! 起きてるか!」
「ロガ」
ミラの声が低く落ちた。
扉の隙間から顔を出したロガが、ぴたりと固まった。
「……すみません。叩くのを忘れました」
「治療室では走らない。大声を出さない。扉は叩く」
「はい……」
いつもの強気なロガが、ミラの前では小さくなっている。ナノは思わず笑ってしまった。
「笑うなよ、人族」
「ごめん。ロガがそんな声出すの、初めて見たから」
「ミラさんの前で強がれるやつなんかいねぇよ」
「聞こえてるわよ」
「すみません」
ミラが軽く睨むと、ロガは背筋を伸ばした。それでもすぐにナノの右腕へ視線を向ける。
「……腕、大丈夫なのか」
ぶっきらぼうな声だったが、心配は隠しきれていなかった。
「少し重い。でも歩ける」
「本当に?」
「本当に。大丈夫って言うと怒られるから、正確に言うと、痛みはないけど違和感がある」
「お前、少し賢くなったな」
「ロガに言われると腹立つけど、ありがとう」
「褒めてねぇよ」
ロガは顔を逸らした。耳が少し赤い。
ミラはナノの右腕に包帯を巻き直しながら言った。
「今日は戦闘禁止。ギルドで話を聞くだけ。もし右腕の熱が強くなったら、すぐ戻ること」
「はい」
「ロガ、見ていて。ナノは自分で止まれない時があるから」
「分かってます。こいつが無理しそうになったら、首根っこ掴んででも戻します」
「首根っこはやめてほしい」
「じゃあ腕を引っ張る」
「右腕はやめて」
「面倒くせぇな、お前」
そのやり取りに、ミラが少し笑った。
「相棒がいるなら安心ね」
「相棒じゃ……」
ロガは反射的に否定しかけて、言葉を止めた。ナノと目が合う。気まずそうに眉を寄せる。
「……今日は、見張り役だ」
ナノは胸元の護符を握った。
「うん。頼む」
右腕はまだ重い。怖さも消えていない。けれど、1人でその重さを抱えているわけではない。そのことが、ナノには少しだけ心強かった。
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