第26話 鉱山ギルドの朝
灰鋼オーク討伐から3日が経った。
ガルバ坑道街の朝は、相変わらず黒鉄炉の音で始まる。
かん。
かん。
かん。
槌の音が岩壁を震わせ、炉の火が地底の空気を赤く染めていく。地上の朝のような眩しさはない。けれど、鉱脈灯がぼんやりと光り、炉の火が強くなるその瞬間を、ナノは少しずつ朝として受け入れ始めていた。
治療室の寝台から起き上がると、左足の痛みはかなり引いていた。
完全に治ったわけではない。
噛み傷の周囲はまだ硬く、急に走れば痛みが走る。石眼を使いすぎた反動も、完全には抜けていない。時々、視界の端が白く滲む。
それでも、以前より体は動いた。
胸元には黒脈石の護符。
自分の手で削り、自分の血を少しだけ落とし、自分のために作った最初の護符。
ナノはそれを指で押さえた。
「……今日も、行きます」
誰に向けた言葉でもない。
けれど、言わずにはいられなかった。
治療室の扉が開く。
ミラが入ってきた。
手には薬草水の入った小さな杯を持っている。顔はいつもの穏やかさを保っていたが、目だけは逃げ場を塞ぐように鋭い。
「起きていると思ったわ」
「はっ、はい。もう大丈夫です」
「その言葉は信用しないって、何回言えば覚えるの?」
「……大丈夫ではないけど、昨日よりは動けます」
「よろしい」
ミラは杯を渡した。
「飲みなさい。石眼の反動を抑える薬草水」
ナノは杯を受け取った。
匂いは相変わらず苦い。
口に含むと、舌の奥に鉄と草を混ぜたような渋みが広がる。
「う……」
「顔に出すぎ」
「す、すみ……じゃなくて、苦いです」
「正直でよろしい」
ミラは小さく笑った。
それから、ナノの掌を取る。
白い菱形の石紋は、まだ少し赤みを帯びていた。黒脈石の護符に触れるたび、石紋の赤みがわずかに落ち着くような感覚がある。
「護符は効いているみたいね」
「はい。これを握ると、少し落ち着きます」
「それはいいこと。ただし、護符があるから無茶していいわけじゃない」
「分かってます」
「本当に?」
ミラの目が細くなる。
ナノは少し考えてから答えた。
「無茶したくなる時はあります。でも、無茶して倒れたら、また誰かの手を止めることになるって……少し分かりました」
ミラはしばらくナノを見ていた。
それから、柔らかく息を吐く。
「少しずつね」
「はい」
その時、廊下からロガの声が聞こえた。
「おーい、人族。まだ寝てんのか?」
ミラの眉が上がる。
「ロガ」
扉の隙間から顔を出したロガが、びくっと肩を震わせた。
「げっ、ミラさん」
「げっ、とは何?」
「い、いや、違う。ナノを呼びに来ただけで」
「呼び方」
「……ナノを呼びに来ました」
ロガは気まずそうに言い直した。
ナノは思わず少し笑った。
ミラはため息をつきながらも、扉の前からどいた。
「今日の依頼は軽いものだけよ。灰鋼オークの直後なんだから」
ロガが頷く。
「分かってる。ラウネさんにも言われた」
「ならいいわ」
ナノは寝台から立ち上がった。
足に少し痛みが走る。
だが、立てる。
歩ける。
「行ってきます」
ミラは頷いた。
「無理はしないこと。石眼を使うなら、あとで必ず報告」
「はい」
*
坑道ギルドの広間は、今日も人で埋まっていた。
依頼板には新しい札が並び、鉱石箱を抱えたドワーフや、魔石袋を腰に下げた冒険者たちが行き交っている。灰鋼オーク討伐の話は、まだギルド中に残っているようだった。
ナノが入ると、いくつかの視線が向いた。
「あれか、灰鋼オークの弱点を読んだ人族」
「グレンと一緒にいた見習いだろ」
「まだ細いな」
「でも、生きて戻った」
ひそひそ声。
以前なら、ナノはすぐに俯いていた。
でも今日は、胸元の黒脈石の護符を握り、前を見た。
怖くないわけではない。
ただ、逃げるほどではなくなっていた。
ラウネがカウンターから顔を上げる。
「ナノ、ロガ。ちょうどよかったわ」
「依頼ですか?」
ナノが聞くと、ラウネは1枚の依頼札を差し出した。
「軽い調査依頼。ただし、これからの章に関わる大事な仕事よ」
「章?」
ロガが首を傾げる。
ラウネは気にせず続けた。
「旧鉱山ギルド倉庫の魔石仕分け補助。灰鋼オーク討伐で回収された魔石や、最近の依頼で集まった低級魔石を分類する仕事」
ナノは依頼札を受け取った。
魔石仕分け。
戦闘ではない。
だが、今のナノにとっては重要な仕事に思えた。
「俺がやっていいんですか」
「むしろ、あなたにやってほしい」
ラウネは真面目な顔で言った。
「石眼に頼りすぎず、魔石の質を見分ける訓練になる。今後、魔石狩りをするなら、倒すだけじゃ駄目。持ち帰った魔石の状態、適性、危険性を読めなければ、いつか自分の体を壊すわ」
ナノは黒錆魔石と灰鋼魔石を思い出した。
欲しい。
けれど、今は吸収できない石たち。
扱えるようになるには、まず知る必要がある。
「受けます」
ナノは答えた。
ロガが横で肩をすくめる。
「仕分けかよ。地味だな」
ラウネがにっこり笑う。
「地味な仕事を雑にする見習いは、派手な依頼で死ぬわよ」
「……受けます」
ロガはすぐに言い直した。
ナノは少しだけ笑った。
第3章。
鉱山ギルドと魔石狩り。
その最初の朝は、戦闘ではなく、山のような魔石を見分ける仕事から始まった。
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