第25話 灰鋼魔石と次の適合
灰鋼オークが倒れたあとも、灰鉱溜まりにはしばらく誰も動けなかった。
灰色の粉塵がゆっくりと落ちてくる。
灯石の光が粉に反射し、空間全体が薄い灰色の霧に包まれているようだった。足元には、砕けた灰鋼の破片と、灰鳴き石の粉が混ざって積もっている。
倒れた灰鋼オークは、もう動かなかった。
巨大な右腕は砕け、脇腹の魔石も割れている。灰色の皮膚からは熱が抜け始め、肉と鉱石が混じったような異様な匂いが広がっていた。
ナノはロガに支えられたまま、なんとか立っていた。
頭が熱い。
目の奥が痛い。
視界の端が白くぼやけている。
石眼を使いすぎた。
自分でも分かった。
だが、あの一瞬がなければ、灰鋼オークの魔石位置は分からなかったかもしれない。坑道の床が崩れる前に位置を変えることもできなかったかもしれない。
役に立った。
でも、体が悲鳴を上げている。
その両方が、今のナノの現実だった。
「ナノ」
ミラが駆け寄ってきた。
声がいつもより鋭い。
「座って」
「は、はい……」
「今すぐ」
「はい……」
ナノは灰の積もった石に座らされた。
ミラはナノの目を覗き込む。
指先でまぶたを軽く上げ、次に掌の石紋を見る。
白い菱形の紋様の周りに、赤い線が浮かんでいた。
以前より濃い。
ミラの顔が険しくなる。
「また無茶をしたわね」
「必要だったので……」
「必要と無茶は別物よ」
「……はい」
ナノは素直に頷いた。
言い返す体力もなかった。
ミラは薬草水を飲ませ、こめかみに冷たい薬布を当てる。
冷たさが染み込むと、少しだけ頭の熱が引いた。
その間に、グレンとバルドは灰鋼オークの死骸を確認していた。
グレンの顔にも疲労が濃い。
腕には傷があり、額の血もまだ完全には止まっていない。それでも彼は、いつものように戦槌を離さなかった。
バルドが灰鋼オークの脇腹から、砕け残った魔石の一部を取り出す。
それは、これまでナノが見たどの魔石とも違っていた。
赤黒い黒錆魔石よりも鈍く、重い。
灰色の表面の奥に、黒い芯があり、さらにその中心にかすかな白い光が閉じ込められている。美しいというより、圧力を閉じ込めた石だった。
灰鋼魔石。
ナノは名前を聞く前から、そう思った。
掌の石紋が反応する。
じり、と熱が走る。
欲しい。
胸の奥に、その感情が生まれた。
強い魔物の魔石。
灰鋼オークの硬さ。
あの右腕の圧力。
もし吸収できれば、自分はもっと強くなれる。
もっと硬くなれる。
もっと前に立てる。
グレンのように。
父のように。
誰かを守る側に。
「駄目」
ミラの声が鋭く飛んだ。
ナノはびくりとする。
「まだ何も言ってません」
「顔に出てる」
ロガが横から呟く。
「出てるな」
「ロガまで……」
ミラは厳しい目でナノを見た。
「今のあなたが灰鋼魔石を吸ったら、間違いなく倒れる。倒れるだけならまだいいわ。石紋が右腕か胸に偏って、体が壊れる可能性もある」
ナノは魔石を見つめた。
「でも……いつかは」
「いつかは、ね」
グレンが近づいてきた。
灰鋼魔石の欠片を小瓶に入れている。
「これは、お前にとって重要な石になる」
ナノは顔を上げた。
「俺に……?」
「ああ。黒錆魔石よりも上の段階だ。黒錆が歪んだ硬化なら、灰鋼は圧力と耐久の石だ。百錬成鋼とは相性がいい」
「じゃあ」
「だが、今ではない」
グレンの声は硬かった。
「お前はまだ黒錆魔石すら吸えていない。白鈍石を磨き、黒脈石の護符を作ったばかりだ。そこへ灰鋼魔石を入れれば、鍛える前の刃に重すぎる柄をつけるようなものだ」
ナノは唇を噛んだ。
悔しい。
目の前に力があるのに、また届かない。
でも、以前とは少し違った。
この悔しさの扱い方を、少しずつ覚えてきている。
力が欲しいから吸うのではない。
扱える体を作ってから吸う。
黒錆魔石の時に決めたことだ。
ナノは胸元の黒脈石の護符を握った。
冷たい。
中心は折らない。
「……分かりました」
ナノは言った。
声は少し震えていた。
だが、欲望に引きずられる声ではなかった。
「今は吸いません。でも、いつか吸収できるようになります」
グレンは頷いた。
「そのために鍛える」
「はい」
バルドが灰鋼オークの死骸を見ながら言った。
「しかし、見習いの情報がなければ面倒だったな」
ナノは驚いて顔を上げた。
「え……?」
「右腕を砕けば魔石が露出する。床が先に崩れるから左壁へ寄せる。その情報がなければ、長引いていた」
バルドは義腕を鳴らした。
「よく見た」
短い言葉だった。
ナノの胸が熱くなる。
「ありがとうございます……」
今度は自然に言えた。
ロガが横で小さく笑う。
「おい、泣くなよ」
「泣いてない」
「目が潤んでる」
「石眼の反動」
「便利な言い訳だな」
ナノは少しだけ笑った。
笑った瞬間、頭が痛んだ。
「痛っ……」
ミラが即座に言う。
「笑う元気があるなら、帰ったら寝なさい」
「はい……」
*
灰鋼オークの死骸からは、灰鋼魔石の欠片、硬化した灰鋼腕の破片、そして灰鋼粉が回収された。
討伐班は慎重に坑道を戻った。
第4支道は一部が崩れ、今後しばらく封鎖されることになった。灰殻蟲の巣も確認され、後日あらためて駆除班が入るらしい。
ナノは帰り道、ほとんどミラに支えられていた。
ロガは前を歩きながら、時々振り返る。
「おい、倒れるなよ」
「倒れない」
「その声、倒れるやつの声だぞ」
「……じゃあ、倒れないように歩く」
「そうしろ」
ロガの言葉は乱暴だった。
でも、心配しているのが分かった。
ガルバ坑道街へ戻ると、ギルドの前には多くの者が集まっていた。
討伐成功の報告が伝わると、広場に安堵の声が広がった。
大きな歓声ではない。
地底の者たちらしい、低く短い声だった。
「戻ったか」
「灰鋼オークをやったのか」
「第4支道は?」
「グレン、また無茶したな」
その声を聞きながら、ナノはふと立ち止まった。
自分はここに来た時、ただの人族だった。
無能と呼ばれ、谷底へ落ち、死にかけていた。
今もまだ弱い。
見習いで、怪我人で、すぐ倒れそうで、石眼を使いすぎればミラに怒られる。
それでも、今日この場に戻ってきた。
情報を伝え、作戦に関わり、灰鋼オーク討伐の一部になった。
それは小さくない。
胸元の護符が、静かに冷えている。
ナノは心の中で父と母に言った。
今日も、生きて戻りました。
そして、少しだけ誰かの役に立てました。
その夜、ナノは治療室の寝台で深く眠った。
夢の中で、彼はまた灰色の坑道に立っていた。
だが、以前のようにただ逃げている夢ではなかった。
手の中には黒脈石の護符。
遠くには白い光を閉じ込めた灰鋼魔石。
そのさらに先に、まだ見たことのない大きな石の道が続いている。
百錬成鋼。
石眼。
黒脈石の護符。
黒錆魔石。
そして、灰鋼魔石。
ナノの【石】は、少しずつ次の適合へ向かっていた。
第2章 ドワーフ領と黒鉄の試練は、まだ終わっていない。
だが、ナノは確かに、ただ守られるだけの少年から、坑道街の中で役割を持つ見習いへ変わり始めていた。
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