第21話 逃げるための一打
灰鳴き坑道が、低く唸っていた。
天井から灰色の石粉が降り続いている。灯石の黄色い光は粉塵に滲み、視界の先をぼんやりと白く濁らせていた。足元の石床には細いひびが走り、その隙間から乾いた灰が噴き出している。
ナノは走っていた。
喉が焼ける。
左足の傷が熱を持つ。
胸元の黒脈石の護符が、走るたびに服の内側で硬く揺れた。
隣ではロガも息を荒げている。
「くそっ……なんなんだよ、あれ……!」
ロガの声には、いつもの強がりがなかった。
背後から、重い足音が響く。
どん。
どん。
どん。
灰鋼オーク。
その巨体が坑道を踏みしめるたび、壁に走る灰鳴き石が悲鳴のような音を立てた。
ぎぃん。
ぎぃぃん。
まるで坑道そのものが痛がっているようだった。
「ナノ、前見ろ!」
ロガが叫んだ。
ナノははっとして顔を上げる。
前方の天井から、拳ほどの岩が落ちてきた。
「っ!」
ナノは横へ跳んだ。
岩がすぐ横の石床へ落ち、乾いた音を立てて砕ける。破片が頬をかすめた。痛みが走ったが、止まる暇はない。
背後でグレンの戦槌が鳴った。
ごうん、と腹の奥まで響く音。
振り返ると、粉塵の向こうでグレンが灰鋼オークと向き合っていた。
灰鋼オークは、ナノが想像していたオークよりもさらに異様だった。
人族の成人男性より頭ひとつ大きい。分厚い肩、短く太い首、灰色の岩に覆われたような胸板。片腕は異常に肥大し、灰鋼粉を固めたような硬い瘤が何層にも重なっている。
皮膚は灰色。
だが、ただの皮膚ではない。
石と肉が混ざったような質感だった。動くたびに表面から灰色の粉がこぼれ、足元にざらざらと積もっていく。
グレンは戦槌を両手で構えていた。
胸元の白剛石が強く光っている。
「下がれと言ったはずだ!」
グレンの怒号が飛んだ。
ナノは一瞬足を止めかけた。
「でも、グレンさんが――」
「お前が残って何になる!」
その声は、ナノの胸を叩いた。
自分が残っても足手まといになる。
分かっている。
でも、背中を向けることが怖かった。
父と母を置いて走った夜が、また喉元までせり上がる。
霧の中。
魔物の声。
父の血。
母の叫び。
崖の闇。
ナノの足が鈍る。
ロガが腕を掴んだ。
「おい、ナノ!」
「俺……また、置いて……」
「違うだろ!」
ロガの声が坑道に響いた。
「今は逃げるんじゃねぇ! 知らせに行くんだよ!」
ナノは目を見開いた。
知らせに行く。
逃げるのではなく、生きて戻って伝える。
それは、同じ走ることでも意味が違った。
グレンの戦槌が再び鳴った。
「白剛震槌!」
白い衝撃が灰鋼オークの肥大した腕に叩き込まれた。
だが、砕けない。
灰鋼オークの腕の表面にひびは入った。灰色の粉が舞う。だが、その下にはさらに硬い層があった。
グレンの顔が険しくなる。
「硬いな……」
灰鋼オークが唸った。
低く、湿った、地の底から湧くような声。
次の瞬間、灰鋼オークは反対の腕で壁を殴った。
坑道全体が揺れた。
天井に走っていたひびが広がる。
灰鳴き石が高く鳴った。
ぎぃぃぃん。
ナノの掌が熱くなった。
石眼を使うなと言われていた。
でも、今は危険だ。
見なければ、崩れる。
ナノは一瞬だけ石眼を開いた。
視界が白く滲む。
灰色の壁の中に、細い亀裂が浮かび上がる。
天井。
右壁。
奥の支柱跡。
崩落の筋が見えた。
頭の奥に文字が走る。
――灰鳴き石、過圧状態。
――第4支道入口、崩落危険。
――右壁下部、空洞化。
――退避推奨。
ナノはすぐに石眼を閉じた。
頭が熱い。
こめかみが痛む。
だが、言わなければ。
「グレンさん! 右の壁、下が空洞です! そこを強く叩かれたら崩れます!」
グレンが一瞬だけこちらを見た。
「読んだのか!」
「一瞬だけです!」
「なら走れ! お前の仕事はそれをギルドに伝えることだ!」
灰鋼オークが再び壁へ腕を振り上げる。
グレンが前へ出た。
戦槌を横から叩き込み、灰鋼オークの腕の軌道を逸らす。
衝撃でグレンの足元が沈んだ。
石床にひびが走る。
それでもグレンは退かなかった。
「ロガ! ナノを連れて戻れ!」
「分かってる!」
ロガがナノの腕を引く。
ナノはもう一度だけグレンを見た。
粉塵の中、グレンの背中は大きかった。
父の背中とは違う。
だが、誰かを生かすために前へ立つ背中だった。
胸が痛んだ。
でも、今度は足を止めなかった。
「グレンさん、必ず戻ってください!」
ナノは叫んだ。
グレンは振り返らずに言った。
「戻る。だからお前も戻れ」
その声に、ナノは走り出した。
ロガと並んで、灰に濁る坑道を駆ける。
背後で、戦槌と灰鋼の腕がぶつかる音が何度も響いた。
ごうん。
ごうん。
ごうん。
そのたびに、坑道の天井から灰が降った。
ナノは胸元の黒脈石の護符を握った。
逃げているのではない。
伝えに行く。
生きて戻る。
それが今、自分にできる一番大事なことだった。
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