第19話 灰鳴き坑道
灰鳴き坑道は、ガルバ坑道街の西側にある古い補助坑道だった。
黒鉄炉のある中心部から離れるほど、岩壁の色は変わっていく。黒錬鉱の筋が減り、代わりに灰色の粉をまぶしたような石肌が増えていった。灯石の光も弱く、道の先は常に薄い霞に包まれている。
空気が乾いていた。
地底の坑道なのに、水気が少ない。
歩くたびに、足元の灰色の粉がふわりと舞い上がる。鼻の奥にざらつく匂いが残り、喉が渇いた。
ナノは胸元の黒脈石の護符を指で押さえた。
ひんやりとした石の感触が、心臓の鼓動を少しだけ落ち着かせてくれる。
隣にはロガがいた。
今日はグレンはいない。
遠くで見張っている可能性はあるが、少なくとも一緒には歩いていない。ミラもいない。ナノとロガ、見習い2人だけの依頼だった。
依頼内容は、灰鳴き坑道の異音調査。
最近、この坑道の奥から「石が泣くような音」がするという。魔物の可能性もあるが、鉱脈の劣化や落石前兆の可能性もある。見習い向けの調査依頼として、ギルドから出されたものだった。
「なぁ、人族」
ロガが言った。
ナノは横を見る。
「ナノでいいよ」
「……ナノ」
ロガは少し言いづらそうに名前を呼んだ。
「お前、昨日の護符、ちゃんと持ってきたんだな」
「うん」
「見せびらかすなよ。まだ不格好なんだから」
「見せびらかしてないよ」
「胸元で握ってただろ」
「あれは……落ち着くから」
ナノが正直に言うと、ロガは少し黙った。
それから、小さく鼻を鳴らした。
「まぁ、初めて作った石ならそんなもんか」
「ロガの槌飾りは?」
「持ってる」
ロガは腰の小袋を軽く叩いた。
「見せないけどな」
「なんで」
「見せたら、お前が変なこと言いそうだから」
「言わないよ」
「人族はすぐ素直な顔で変なことを言う」
「それ、偏見じゃない?」
「たぶんな」
ロガは少しだけ笑った。
その笑い方は、最初に会った時よりも刺々しくなかった。
ナノは少しだけ肩の力を抜いた。
だが、その瞬間。
坑道の奥から、音が聞こえた。
きぃぃん。
細く、高い音だった。
鉄を叩いた音ではない。
石が擦れ合う音でもない。
もっと不安定で、耳の奥に残る音。
まるで、遠くの暗闇で、誰かが細い金属を爪で引っ掻いているようだった。
ナノは足を止めた。
「今の……」
ロガも表情を変える。
「鳴ったな」
「これが、灰鳴き?」
「たぶん」
2人は顔を見合わせた。
ロガは小槌を握り、ナノは鉄槌を構える。
音のした方へ、ゆっくり進む。
坑道の壁には、灰色の細い鉱脈が走っていた。表面は脆そうで、少し触れるだけで粉が落ちる。ナノは指先で触れてみた。
ざらり。
乾いた感触。
石眼を使いたくなる。
だが、まずは普通に見る。
灰色の鉱脈は、ところどころ膨らんでいる。
まるで内部から圧力がかかっているようだった。
「ロガ、これって普通?」
「普通じゃない」
ロガは壁に耳を当てた。
しばらく目を閉じる。
「中で空洞ができてるかもな。灰鳴き石は、湿気と熱で中が割れることがある。割れる前に鳴る」
「じゃあ、落石?」
「その可能性もある」
その時、また音がした。
きぃぃん。
今度は近い。
ナノの掌が熱くなる。
危険だ。
そう感じた。
「ロガ、下がった方が」
言い終わる前に、壁の一部が膨らんだ。
灰色の石肌がひび割れる。
中から、小さな黒い脚が覗いた。
ナノの背筋に冷たいものが走る。
「魔物……!」
壁を破って出てきたのは、蟲だった。
ただし、鉄殻蟲とは違う。
体は薄く、扁平で、灰色の石片を何枚も重ねたような殻をしている。脚は細く長く、動くたびに灰色の粉を撒いた。頭部には小さな顎があり、壁の灰鳴き石を削っている。
ロガが舌打ちした。
「灰殻蟲だ。こいつらが中を喰って鳴らしてたのか」
灰殻蟲。
一般的な魔物名ではない。
この坑道特有の呼び名なのだろう。
ナノは一瞬だけ石眼を使った。
視界の端が白く揺れる。
――灰殻蟲。
――摂食鉱物、灰鳴き石。
――殻、脆いが粉塵散布あり。
――弱点、腹部中央。
――大音に反応し、壁内個体を呼ぶ。
ナノはすぐに石眼を閉じた。
頭が少し熱い。
「大きな音を出すと、壁の中の仲間を呼びます!」
「じゃあ小槌で叩けねぇじゃんか」
ロガが顔をしかめる。
「粉も出ます。吸うと危ないかも」
「面倒くせぇ……」
灰殻蟲が壁から這い出してくる。
1匹。
2匹。
3匹。
ナノは口元の布を強く結び直した。
「腹を狙えばいい。でも、大きな音はダメ」
「静かに潰せってか」
「たぶん」
「試練にしては陰湿すぎるだろ」
ロガは小槌を短く持ち直した。
ナノも鉄槌の柄を握り直す。
正面から叩けば音が出る。
なら、押さえる。
転がす。
腹を狙う。
灰殻蟲が低く跳んだ。
ナノは横へ避け、鉄槌の柄で上から押さえつけた。
殻がきしむ。
きぃ、と鳴き声が漏れた。
ナノは歯を食いしばる。
「ロガ!」
「分かってる!」
ロガが小さく踏み込み、灰殻蟲の腹部へ短槌をねじ込むように当てた。
大きな音は出ない。
ぐしゃり、と鈍い音がして、灰殻蟲が動かなくなる。
1匹。
次の個体が粉を撒いた。
灰色の粉が空気に広がる。
「吸うな!」
ロガが叫ぶ。
ナノは腕で口元を覆った。
粉が目に入り、少し涙が滲む。
視界がぼやける。
だが、ここで石眼を使い続けるのは危険だ。
ナノは音を聞いた。
脚の擦れる音。
粉の落ちる音。
ロガの息遣い。
灰殻蟲は壁の近くを好む。
広い場所には出てこない。
「壁から離しましょう!」
ナノが叫ぶ。
「広いところに誘導すれば、壁の中の仲間を呼びにくい!」
「どうやって!」
ナノは足元の小石を拾った。
大きな音を出さないよう、壁ではなく床の奥へ軽く転がす。
ころころ、と乾いた音。
灰殻蟲の1匹がそちらへ向く。
音に反応する。
強すぎる音は仲間を呼ぶが、小さな音なら誘導できる。
「小石です! 叩かずに転がして!」
「なるほどな!」
ロガも小石を転がす。
灰殻蟲たちが壁から少し離れる。
その隙に、2人は左右から挟んだ。
大きく叩かない。
押さえる。
転がす。
腹を狙う。
動きは不格好だった。
何度も粉を浴びかけた。
ナノは足を滑らせ、膝を打った。
ロガも腕をかすられた。
それでも、1匹ずつ倒していく。
最後の灰殻蟲が逃げようとした時、ナノは胸元の護符を握った。
焦るな。
中心を折るな。
ナノは鉄槌を投げず、足元の石を静かに転がした。
灰殻蟲が一瞬だけ振り向く。
そこへロガが回り込み、腹部を打った。
最後の1匹が動かなくなる。
坑道に、静寂が戻った。
ナノは肩で息をした。
「はっ……はぁ……」
ロガも汗を拭った。
「地味な戦いだったな」
「でも、生きてます」
「それは大事だな」
ロガは壁を見た。
灰殻蟲が出てきた穴から、灰色の粉が少しずつ落ちている。
「この奥、かなり喰われてる」
「崩れますか」
「すぐじゃない。でも放っておくと、坑道の一部が落ちる」
ナノは灰殻蟲の死骸を見た。
「これ、依頼としては異音調査でしたよね」
「ああ」
「でも、原因は魔物で、落石の危険もある。ギルドに戻って報告した方がいい」
ロガは頷いた。
「同感だ。深入りはやめる」
その判断に、ナノは少し驚いた。
「ロガなら、もっと奥へ行くって言うかと思いました」
「俺だって馬鹿じゃねぇよ」
「ごめん」
「謝るな。今のは俺も少しそう思った」
ロガは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
2人は灰殻蟲の一部を証拠として回収し、坑道を戻り始めた。
戻る途中、ナノは何度か振り返った。
灰鳴き坑道の奥は、まだ暗い。
今回倒した灰殻蟲がすべてではない。
壁の奥には、もっといるかもしれない。
そして、なぜ急に灰殻蟲が増えたのかも分からない。
胸元の黒脈石の護符が、かすかに冷たかった。
まるで、何かがまだ終わっていないと告げているようだった。
*
ギルドへ戻ると、ラウネは2人の報告を黙って聞いた。
灰殻蟲の殻片を見た瞬間、彼女の表情が変わった。
「灰殻蟲……この数が出たの?」
ロガが頷く。
「少なくとも5匹。壁の中にはもっといるかもな」
ナノも続けた。
「坑道の壁が内側から喰われてました。灰鳴き石の脈が膨らんでいて、落石の前兆かもしれません」
ラウネはすぐに記録板へ書き込み始めた。
「これは見習い依頼から外すわ。調査隊を出す必要がある」
ナノは息を呑んだ。
自分たちの報告が、次の行動につながっている。
それは小さなことではなかった。
ラウネは顔を上げた。
「2人とも、よく戻ったわね。奥へ行かなかった判断も正しい」
ロガが少し得意げに笑う。
「まぁな」
ナノは少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
今度の言葉は、自然に出た。
その時、ギルドの奥から慌ただしい足音が聞こえた。
1人の坑道夫が駆け込んでくる。
「ラウネ! 灰鳴き坑道のさらに奥、第4支道で崩落音だ!」
広間がざわつく。
坑道夫は息を切らしながら続けた。
「それだけじゃない。崩れた奥から、妙な足跡が出てる。灰殻蟲じゃねぇ。もっとでかい」
ラウネの顔が険しくなる。
「何の足跡?」
坑道夫は震える声で言った。
「灰鋼オークだ。たぶん、坑道の奥に入り込んでる」
ロガの顔から余裕が消えた。
ナノの掌が、冷たく汗ばんだ。
灰鋼オーク。
また、新しい名前。
だが、その響きだけで分かった。
今までの錆鳴鼠や灰殻蟲とは違う。
もっと大きく、もっと危険な何かが、灰鳴き坑道の奥にいる。
ナノは胸元の護符を握った。
黒脈石は冷たいままだった。
だが、その冷たさは、これから来る試練を静かに告げているようだった。
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