第18話 黒脈石の護符
黒鉄炉の火は、朝から荒々しく燃えていた。
炉の奥で白に近い炎が揺れ、岩壁に赤い光を跳ね返している。熱気は厚い布のように空間へ垂れこめ、息を吸うたびに肺の奥まで鉄の匂いが入り込んだ。
ナノは炉の隅にある小さな作業台の前に立っていた。
目の前には、昨日の試練で採った黒脈石が置かれている。
細長く、黒く、ところどころに銀色の筋が走る石。派手な宝石ではない。ダイヤモンドのように澄んだ輝きもない。けれど、炉の火に照らされると、その奥に細い命脈のような光が浮かんだ。
ナノはそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。
父と母の声が、まだ胸の奥に残っている。
生きろ。
生きて。
あの言葉は、呪いのようでもあり、祈りのようでもあった。
自分だけが生き残った。
その事実は、何度思い返しても軽くならない。
けれど、昨日手にした黒脈石は、ナノに別のことも教えていた。
自分はまだ折れていない。
傷だらけで、未熟で、粗くて、余計な岩もたくさんまとわりついている。だが、中心だけは折らずにいる。
その石を、護符にする。
ナノはそう決めた。
「手が止まっているぞ」
背後からグレンの声がした。
ナノはびくりと肩を揺らした。
「はっ、はい。すみ……じゃなくて、考えてました」
「何を」
「どう削ればいいのかを」
「それなら考える前に触れ」
グレンは作業台の横に立ち、黒脈石を指で叩いた。
きん、と低く澄んだ音がした。
「石は頭の中で形を変えん。触って、重さを知って、削って、初めて変わる」
「……はい」
「ただし、削りすぎるな。護符は武器ではない。持ち主が折れそうな時に、中心を思い出すための石だ」
ナノは黒脈石を両手で持ち上げた。
冷たい。
だが、ただ冷たいだけではない。
昨日、坑道の奥で感じた重みがまだ残っている。鉄殻蟲の気配、ロガと並んで戦った緊張、黒い岩壁に走る細い脈を見つけた時の息苦しい喜び。
それらが石の中に沈んでいるようだった。
「石眼は使うなよ」
グレンが言った。
ナノの掌がわずかに熱くなった。
見透かされたようで、ナノは小さく息を詰める。
「……使おうとしてました」
「だろうな」
「すぐに分かるから、使いたくなります」
「便利なものは、人を甘やかす」
グレンは小さな鑿と細い磨き棒を並べた。
「今日は、手で見る。音で見る。削った粉で見る。火にかざして見る。それだけだ」
ナノは頷いた。
「分かりました」
「分かりました、だけでは足りん。やれ」
厳しい。
だが、グレンの言葉には無駄がない。
ナノは黒脈石を作業台に置き、鑿を当てた。
最初の一打。
かん。
思ったより強く入ってしまった。
石の端がわずかに欠ける。
「あっ……」
ナノの顔が青ざめた。
グレンが眉を寄せる。
「焦るな」
「は、はい……でも、今」
「端が欠けただけだ。中心は折れていない」
ナノは息を吐いた。
その言葉に、妙に救われた。
中心は折れていない。
石だけではなく、自分に言われているようだった。
ナノはもう一度鑿を当てた。
今度は浅く。
かん。
かん。
黒い石粉が少しずつ落ちる。
削るたびに、石の中の銀筋が見え隠れした。だが、手を急がせると筋を切ってしまいそうになる。ナノは何度も手を止め、指で表面を確かめた。
熱い。
炉の熱で指先が汗ばむ。
黒脈石は冷たいままなのに、握る手だけが火照っていく。
何度目かの一打で、鑿がわずかに滑った。
「っ!」
ナノの指先に小さな傷ができる。
血が滲む。
黒脈石の表面に、赤い点が落ちた。
その瞬間、掌の石紋が強く熱を持った。
黒脈石がわずかに光る。
ナノは反射的に手を引いた。
「グレンさん、今……!」
「落ち着け」
グレンは黒脈石を見た。
赤い血の点は、石の表面に残っている。だが、染み込むように消えたわけではない。
「吸収ではない。お前の石紋が、黒脈石に反応しただけだ」
「反応……」
「護符は持ち主の血や魔力に馴染ませることがある。だが、今のお前がやると石紋が暴れる。血は拭け」
「はっ、はい」
ナノは布で血を拭いた。
指先の傷がじんじん痛む。
それでも、さっきの反応は忘れられなかった。
黒脈石が、自分に応えようとした。
そんな感覚があった。
*
作業は長く続いた。
ナノは何度も失敗しかけた。
角を削りすぎそうになり、グレンに止められた。石の筋を切りかけ、炉にかざしてようやく気づいた。力を入れすぎて鑿が跳ね、額に石粉が飛んだ。
ロガならもっと早く仕上げるだろう。
そう思うと、焦りが胸に生まれる。
だが、そのたびにグレンが言った。
「石を急かすな」
ナノは何度も深く息を吸った。
急がない。
見栄を張らない。
早く強くなりたい気持ちは消えない。
でも、焦って削れば中心を折る。
それは、黒脈石だけではなく、自分も同じなのかもしれなかった。
やがて、黒脈石は手のひらに収まる大きさになった。
完全な円でも、綺麗な菱形でもない。
少し歪んだ涙型。
表面にはまだ細かな傷が残り、端の一部も欠けている。だが、中央には銀の筋がまっすぐ残っていた。
ナノはそれを持ち上げた。
「……できた」
声が掠れた。
思っていたよりも、胸が熱かった。
グレンが石を受け取り、じっと見る。
ナノは息を止める。
「粗い」
「……はい」
「形も歪んでいる」
「はい」
「磨きも甘い。市場に出せば二束三文だ」
ナノの肩が少し落ちる。
だが、グレンは続けた。
「だが、護符としては悪くない」
ナノは顔を上げた。
「本当ですか」
「中心を残している。お前が何を残したかったかは分かる」
グレンは革紐を取り出し、黒脈石に通した。
護符として首に掛けられる形になる。
ナノは両手で受け取った。
黒脈石は、胸元に当たるとひんやり冷たかった。
その冷たさが、心臓の熱を少しだけ落ち着かせる。
「父さん、母さん……」
ナノは小さく呟いた。
声は炉の音に紛れた。
だが、自分には聞こえた。
「俺、これを持って進むよ」
掌の石紋が淡く光った。
頭の奥に文字が浮かぶ。
――黒脈石の護符を作成。
――自己鍛錬補助、微弱。
――精神安定補助、微弱。
――百錬成鋼との相性、良。
ナノは息を呑んだ。
「グレンさん、これ……」
「何か出たか」
「精神安定補助、微弱。百錬成鋼との相性、良って」
グレンは目を細めた。
「いい護符になったな」
その一言で、ナノの喉が詰まった。
褒められた。
大げさな言葉ではない。
だが、グレンのその一言は、どんな賞賛より重かった。
ナノは黒脈石の護符を握った。
少し歪で、粗くて、未完成。
でも、自分の手で作った。
自分の過去と、これからを繋ぐ石。
その時、工房の入口からロガの声がした。
「おい、人族。まだ終わってないのかよ」
ナノが振り返ると、ロガが立っていた。
手には自分で作ったらしい小さな槌飾りを持っている。
ナノの胸元の護符を見ると、ロガは少しだけ目を丸くした。
「……へぇ」
「何?」
「いや。思ったより悪くない」
ナノは少しだけ笑った。
「それ、半分褒めてる?」
「3割くらいだ」
「少ないな」
「人族にしては多い方だろ」
ロガは照れ隠しのようにそっぽを向いた。
グレンが低く言う。
「明日から、お前たちは組で動け」
ナノとロガは同時に声を上げた。
「えっ?」
「はぁ?」
グレンは表情を変えなかった。
「見習い依頼は、単独より組の方が学ぶことが多い」
ロガが顔をしかめる。
「なんで俺が人族と」
ナノも少し戸惑った。
「あの、俺もロガの足を引っ張るかもしれません」
「自覚があるならましだ」
グレンは言った。
「明日は小依頼を2人で受けろ。場所は灰鳴き坑道だ」
ロガの顔が変わった。
「灰鳴き坑道? あそこ、最近変な音がするって」
「ああ。だから行く」
ナノは胸元の護符を握った。
灰鳴き坑道。
聞いたことのない名前だ。
だが、その響きには、どこか不吉なものがあった。
ロガが小さく舌打ちした。
「最初から面倒なところに行かせるなよ……」
グレンは短く言った。
「生きた坑道は、だいたい面倒だ」
ナノは黒脈石の護符を握りしめた。
胸元で冷たい石が、静かに存在を主張している。
明日から、また新しい試練が始まる。
だが今日は、この護符がある。
折れない石ころ。
その小さな証を胸に、ナノは初めて、自分で作ったものの重みを感じていた。
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