優しさと厳しさ
その日から私は、家の外へ出ることを目標にしてリハビリを始めた。
まずは立つこと。
次に歩くこと。
そして、トイレ、食事、身支度といった、当たり前だったはずの日常を、一つずつ取り戻していくこと。
身体は驚くほど言うことを聞かなかった。
一歩踏み出すだけで息が上がり、手を伸ばすだけで筋肉は震えた。
それでも私は、毎日それを繰り返した。
そして、ハズはずっと隣でそれを支えてくれた。
その距離感は、最初こそ居心地が悪かった。
けれど次第に、それが“監視”ではなく“見守り”なのだと分かってきた。
私はハズの本当の妻ではない。
それでも、彼は離れずに側で支えてくれた。
心が折れそうにならなかったと言えば嘘になる。
でも、私が日本の障害福祉課で出会った人々は、これを乗り越えてきたのかもしれないと思うと、初めて当事者としての意識が芽生え、頑張らなくちゃいけないと私を奮い立たせてくれた。
一か月ほど経ち、気づけば私は、家の中をゆっくりと移動できるようになっていた。
それだけのことなのに、この世界に慣れてきた気がした。
ある日、私はハズに尋ねた。
「この村って、どういうところなんですか」
ハズは少し考えてから答える。
「アーブ村だ」
「それは知ってます。その、もう少し詳しく」
ハズは窓の外へ目を向ける。
「山の中腹にある。王都からは遠いし、近くの街へ出るにも山を一つ越える」
淡々とした説明だった。
「昔は薬師の村だった。薬草が豊富で、周辺の街へ医術や薬を売って成り立っている村だ」
「今は?」
問い返すと、ハズは一瞬だけ言葉を探した。
「今も基本は変わらない。薬草も果物もある。土も悪くない」
そこで一度、言葉が切れる。
「ただ、それしかない。病人がいなければそれまでだ」
「……収入がない、ということですか」
「そうだ」
ハズは頷いた。
「王都には、学術院出の医術師や薬師がゴロゴロいる。この辺鄙な村の医術は求められない。薬は卸しているが、輸送費ばかりかかって微々たる収入にしかならない」
静かな声だった。
責めるでも、嘆くでもない。
ただ事実としてそこにあるものを口にしているだけだった。
私は少し黙ってから、もう一つ聞いた。
「ハズは、ここで何をしているんですか」
「役人だ」
「役人……」
「村の中の調整だな。税の取りまとめ、王都への報告、周辺の街との連絡」
――同じだ。転生前、市役所職員だった私と。
村は小さい。
だからこそ、役人の仕事は“派手な政治”ではなく、“日常の整理”に近いのだと分かる。
「忙しいんですか」
「忙しい時もある。災害の後とか、物資が止まった時とか」
そこで少しだけ、声の温度が変わった。
私はそれに気づく。
この人は、この村の“問題が起きた時”を知っている。
そして、それを止めきれなかった時間も。
それ以上は聞けなかった。
代わりに、別のことを聞く。
「村の人たちは、どんな人たちなんですか」
ハズは少しだけ間を置いてから言った。
「普通だ」
「普通、ですか」
「働いて、食って、子どもを育てて、年を取る。それだけだ」
その言い方には、嫌味も理想もなかった。
ただ、そこに暮らしている人たちを、そのまま言葉にしただけだった。
私はゆっくりと頷く。
その“普通”が、今の私にはまだ見えていない。
でも、これから少しずつ知っていくことはできる気がした。
それからの日々は、少しずつ変わっていった。
私は歩く練習を続けながら、ハズの話を聞いた。
村の構造。
季節ごとの仕事。
近くの街との関係。
王都との距離。
役場の仕事の一部。
ハズは多くを語るタイプではなかったけれど、聞けば必要なことは教えてくれた。
そして時々、何も言わずに黙って隣に座る時間があった。
その沈黙が、いつの間にか怖くなくなっていた。
ある日、私はふと気づく。
この人は、ずっとイフとこうして過ごしてきたのだろうか。
でも今隣にいるのは私だ。
まだ、少し慣れない。
それでも、少しずつ彼を知り始めている。
それだけで、この関係はすでに変わり始めているように思えた。
私はゆっくりと息を吐く。
まだ外には出られない。
まだ何もできない。
それでも。
この場所のことを知ることは、もう始まっている。
イフの身体が回復してきた頃、季節は一つ変わり、春になっていた。
私はドアを開けて外へ出る。
空気は日本とはどこか違った。
風はまだ少し涼しいが、日差しは温かい。
深く息を吸うと、薬草畑の匂いが混ざっているような気がした。
「あれ? イフかい?」
通りがかった老婆がこちらへ歩いてくる。
「イフ、起き上がれるようになったのかい?」
老婆はこちらへ駆け寄ると、イフの手を握る。
私が少し戸惑って身を強張らせると、老婆は困った顔で動きを止めた。
その時、後ろから声が落ちる。
「ランマ婆ちゃん。イフだよ。でも、記憶をなくしてしまったんだ」
ハズはランマお婆さんに目線の高さを合わせながら優しく答える。
「あぁ……そうだったね。でも、元気になったんだね」
ランマお婆さんは、イフの回復を喜んでくれた。
イフがこの村で愛されていたことが分かり、胸が苦しくなった。
「ランマ婆ちゃん、イフにこの村を案内しようと思うんだ。……記憶がないから」
「そうだね。それがいい……」
「イフ、こちらはランマ婆ちゃん。村長の奥さんで、昔は薬師だった。今は、ランマ婆ちゃんの子どもや孫たちが薬師をやってる」
「……ランマお婆さん、私……記憶をなくしてしまって……でも、あらためてよろしくお願いします」
ランマお婆さんは少し戸惑っていた。
それでも、優しい言葉で受け入れてくれた。
「そうだね。よろしく。困った時は、いつでも声を掛けてね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、ランマ婆ちゃん、次の案内へ行くから」
「あの、失礼します」
ペコリと頭を下げて、ハズの後ろをついていく。
ランマお婆さんは、ゆっくりと手を振って見送ってくれた。
次にハズが向かったのは、役場の前だった。
役場は、村の規模が分かる小さな建物だった。
長年使われてきた建物を修繕しながら使っている。
村の財政的なゆとりのなさも感じられる。
「おう、ハズ。今日は非番じゃなかったのか?」
ハズと同年代の男性が声を掛ける。
「非番だよ。……イフに村を案内してる」
男性の視線がこちらへ向く。
「イフか!? やっと元気になってきたらしいな! ……と、そういや、記憶がないんだっけか?」
「……はい」
「俺ぁ、ハズの同僚のリーグだ。……イフとも子どもの頃から一緒に育ったんだが……まぁ、それは追々だな」
「ごめんなさい……」
「いいって。元気になりゃ、そのうち思い出すかもしれねぇし」
「……はい」
「ところで、役場を案内すんのか?」
「いや、村の案内を」
そう言って、役場の前の木製看板に描かれた地図を指差す。
「あぁ……村のことも、国のことも丸っと忘れちまったんだっけか? じゃあ、俺は仕事に戻るけど、イフはごゆっくりな」
「はい。ありがとうございます」
リーグが去ると、ハズは地図を見ながら説明する。
アーブ村の周りには街が一つと村が二つ。
王都は、その街の先にあった。
村の周りは山々に囲まれ、その小さな盆地に開拓された村のようだった。
村の周囲を薬草畑や果実園が取り囲み、その外側を山々が囲んでいる。
これ以上、開拓の余地はなさそうだった。
「次は、薬草畑を案内する」
ハズはそう言って歩き始める。
少し歩いては振り返り、追いかける私を待ってくれる。
もし私が転んでも、すぐに手を差し伸べられる距離を保ってくれているのが分かる。
ハズは優しい人だ。
そして、薬草畑に到着する。
ドアを開けて一歩踏み出した瞬間に感じたものと同じ、薬草の匂いが風に乗って強く鼻をくすぐる。
何人かの女性が薬草を採取していた。
「ハズ、どうしたの? 街から大口発注でもあった?」
一人の大柄な女性がこちらに気付いて声を掛けてくる。
「いや……その……妻と散歩に……」
「あらやだ。仲がいいわね」
そこで、別の柔らかな雰囲気の女性が気付いてこちらへ来る。
「イフを連れてきたの? イフ! あなた……体は?」
「あの……」
私が戸惑っていると、ハズはまた間に入ってくれる。
「イフの体調はよくなってきています。ですが、記憶をなくしました」
「……そうなの。記憶が……。イフ、私はフレン。あなたのお母さんの友人だったの」
「友人『だった』……?」
「あぁ……まだ話していなかったのね、ハズ。ごめんなさい」
フレンさんは戸惑いながらハズをみる。
「大丈夫です。タイミングがなくて話していなかっただけです」
ハズは、落ち着いた表情でフレンさんに返す。
フレンさんは、言葉を選びながら、私の目を見て伝えてくれた。
「イフ、あなたのお母さんはもう亡くなっているの。……お父さまもね」
「……そんな気はしていました。……だって、会いに来ないから」
私は、フレンさんに気を遣わせないよう、柔らかく笑ってみせた。
「えぇ……そうね。あなたの両親が生きていたら、きっとあなたを支えようとしたと思うわ」
「……はい」
「でも、あなたにはハズがいるものね。記憶をなくしても、きっと大丈夫よ」
「ありがとうございます」
この村の人々の優しさに、心が温かくなる。
それと同時に、イフがこの村で受け取ってきた愛に胸がずしりと重くなる。
「ハズ、あなたが言ったとおり普通の村ね。みんな優しい。穏やかに生きてる」
「……あぁ、今はな」
「今は……」
「二年前に山火事があった。薬草畑も燃えて、その年は果実だけで飢えを凌いだ」
「……二年前……」
「ここは、薬草で儲けた金で米や肉を賄っている。山火事一つで生活は立ち行かなくなってしまう」
「……それは、どうにかしたいですね」
「……あぁ、蓄えをしておけばいいのかもしれないが、周りは山だから、これ以上畑を増やすこともできない。これ以上の発展は望めないんだ」
「……そんな……何か他に方法は……」
「ない」
即答だった。
「仮に薬や果物を量産したところで、人の多い王都に届く頃には腐ってしまう。時々、近くの村から医術師の真似事を求められて薬師が稼ぎに行くが、病人なんて本当はいない方がいいくらいだ」
ハズは遠い目で呟くように言う。
「この村は、ずっとこのままなんだ」
「……そんな……」
「それでも、この村の人間は贅沢を望まない。忍耐強い。だから、大丈夫だ。イフが気に病む必要はない」
――だからって……このままでいいとは思えない。
何か。
この優しい村に何かをしたいと、この時、私は強く思った。




