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イフと私

扉が閉まったあともしばらく、私は動けなかった。


震える息を吐きながら、ゆっくりと自分の手を見る。


白くて、細い指。


記憶にある自分の手とは違う。


私は、こんな手じゃなかった。


けれど、


もし、この身体が“イフ”という女性のものなのだとしたら、その人はどこへ行ったのだろう。


身体だけ残して。


中身だけ、消えてしまったのだろうか。


それとも——。


胸の奥が、ひどく冷えた。


じゃあ、私の身体は?


市役所で仕事をしていたはずの、元の私は。


倒れたのか。


死んだのか。


誰かが見つけてくれたのか。


家族は。


職場は。


考えようとした瞬間。


——悲しい。


不意に、頭の奥へ何かが流れ込んできた。


声ではない。


言葉でもない。


ただ、感情だけがそこにあった。


悲しい。


胸を掻き毟るような悲しみ。


呼吸ができなくなるほどの喪失感。


冷たい泥の中へ沈んでいくような絶望。


苦しい。


つらい。


もう無理だ。


そんな感情だけが、濁流のように流れ込んでくる。


「……っ」


思わず頭を押さえる。


違う。


これは私の感情じゃない。


けれど、あまりにも生々しかった。


そのとき、不意にハズの言葉が蘇る。


『まだ解毒しきれていない』


毒。


息が止まった。


「……まさか」


イフは——本来のこの身体の持ち主は、自ら毒を飲んだのか。


そして、壊れてしまったのか。


あの悲しみは、もう“生きたい”という形を残していなかった。


まるで、心だけが先に死んでしまったみたいだった。


私は、震える指を強く握る。


分からない。


どうして自分がここにいるのか。


どうして、この身体なのか。


でも、


もし、イフという人の心が壊れ、その空いた場所へ、自分が流れ込んだのだとしたら。


「……そんなの」


言葉にならなかった。


自分が誰かの人生へ入り込んでしまったことが、急に現実味を帯びる。


私は、この人の代わりになどなれない。


まして——


「……妻、なんて」


小さく呟いた時。


扉が開く音がした。


反射的に顔を上げる。


戻ってきたハズは、木の盆を片手に部屋へ入ってきた。


薬草を煎じた湯気の立つ器が乗っている。


そして私の顔を見るなり、わずかに眉を寄せた。


「……顔色が悪い」


「元から良くないです」


思ったより冷たい声が出た。


ハズは何も言わず、ベッド脇へ器を置く。


薬草の苦い匂いが広がった。


しばらく沈黙が落ちる。


私は迷ってから、ゆっくり口を開く。


「……聞きたいことがあります」


ハズがこちらを見る。


「イフについて、教えてください」


空気が止まった気がした。


ハズの目がわずかに細くなる。


「……どうしてそんなことを聞く」


「知りたいんです。この身体の持ち主だった人のことを」


“だった”。


その言葉に、ハズの表情がわずかに揺れた。


けれど否定はしなかった。


長い沈黙のあと、ハズは低く息を吐く。


「……イフは、俺の妻だ」


静かな声だった。


「このアーブ村で生まれて育った。俺も同じだ」


椅子に腰を下ろしながら、ハズはゆっくり続ける。


「小さい頃からずっと一緒だった。特別派手な女じゃなかったが、よく笑うやつだった」


その声は穏やかだった。


けれど、その穏やかさが逆に痛かった。


「二年前、子どもが生まれた」


私は息を呑む。


「だが去年、災害があった。この辺り一帯の畑が駄目になって、村中が酷い状態だった」


ハズの視線が落ちる。


「その頃、子どもが病気になった」


低い声だった。


「俺は村の仕事で家を空けることが多くて……戻れなかった」


そこで一度言葉が止まる。


静かな沈黙。


「……間に合わなかった」


胸が痛んだ。


「それからイフは、少しずつ壊れていった」


感情を押し殺すような声だった。


「笑わなくなって、眠らなくなって、食べなくなった」


ハズの指先がわずかに握られる。


「昨日、薬庫から毒草がなくなっているのに気付いた時には、もう遅かった」


私は息を止める。


「解毒薬を飲ませて、一晩つきっきりで看て……目を覚ましたと思ったら」


ハズがこちらを見る。


青い目だった。


「“自分はイフじゃない”って言い出した」


部屋の空気が重く沈む。


私は何も言えなかった。


ハズも、それ以上は続けなかった。


ただ疲れ切った顔で、小さく息を吐く。


「……正直、まだ状況が理解できてない」


低い声だった。


「でも、確かに君はイフとは違う」


「……え?」


ハズは続ける。


「でも、『イフ』と呼び続けてもいいか。名前も分からないみたいだし」


私は一瞬戸惑い、そして応える。


「……そうしてください」


「それに、村の皆に説明できる自信はない。しばらくはイフとして扱うしかない」


「……」


「君にとっては苦しいかもしれないが」


ハズの声には、私への否定はなかった。


「はい」


ハズはわずかに目を伏せる。


「……知らない世界に迷い込んでしまったのだろう。心細いよな」


静かな青い眼差しがこちらを見た。


私は小さく息を呑む。


「……あの、どうして急に、私をイフではないと認めてくれたんですか」


ハズはしばらく言葉を探す。


「……正直、認めたわけじゃない。でもな」


短く息を吐く。


「イフなら、君みたいに過去のことを聞いてこない」


「……」


「子を失ってからのイフは、正気じゃなかった。……それも、どんどん悪くなっていって……最近のイフは、こちらの声すら届いていないかのようだった」


青い瞳がこちらへ向く。


「でも、君は違う。言っていることは信じられない。でも、何を言いたいかは分かってしまう。会話は、成立してしまっている」


再び視線は下を向き、そして、諦めたように呟く。


「……少なくとも、君は俺の知っているイフではない」


「……話してくれて、ありがとうございます」


「……イフは」


声がかすれる。


「イフは、どこへ行ったんだろうな」


一粒の涙が頬を伝う。


「……あの……イフさんは……私の中に……」


「……いるのか?」


「……いえ……その……感情だけ……『悲しい』って……」


「……それは、イフだ。俺が知ってる」


青い瞳が僅かな期待にすがるようにこちらへ向く。


「戻ってくることは、ないのか?」


「……分かりません」


私はそう答えるしかなかった。


イフさんの心は死んでいる。そう直感した。


でも、それを伝える勇気はなかった。


ハズは静かに目を閉じる。


「……俺のせいだ」


そう呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。

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