第三幕 薔薇色の銀河系
私の足は一時停止した。
私有地という言葉を耳から脳へと伝える間、他の身体機能に労力を割けなかったのだ。
「おいおい、そんなに心配するな。
警察もいないし、警備会社もいない」
山口は笑いながら私の背中をさする。
確かに警察に捕まるということはないだろう。
しかし、私の未熟で不完全なリーガルマインドはそれを良しとしなかった。
未成年は酒を飲めないし、不純異性交友などもっての他。
そういった保守的、頑固、マニュアル人間と言われるようなものが私の核となる精神であり、美学なのだ。
「橋本先輩、私は良くないと思います。
頂上でなくとも、さっきの駐車場で星が見える。」
「まぁ、そんなに心配しなくていいよ。
“今は私有地”というような感じだからね。」
「天文部というのはね、意外と歴史があるんだよ。
この山はOB達からずっと続く伝統ある場所なんだ。
だから、最近OB達が立ち上がってこの山を買い取ろうとしている。」
「色々面倒な手続きがあるからね。
今すぐとはいかないが、もう天文部の所有物みたいなもんだ」
天文部の面々を私は低く見積もっていたのかもしれない。
そんな恥ずかしさが私を襲った。
それからの私は罪滅ぼしのつもりで黙々とダンボールを頂上へ運んだ。
私たちが頂上に近づくにつれて、やけに明るい気配がしてきた。
最終的に頂上に着いた際、そこは既にキャンプ場を思わせる様子だった。
他の部員たちが手際よく設営を済ませていたのだ。
「お〜、みんな早いなぁ」
橋本先輩がのんきに声をかける。
小さな焚き火台や大型のタープ付きテント、木に繋がれたハンモック。
そこに集った男ども。
「さて、新参者は特別待遇だよ。
こっちこっち」
橋本先輩は笑顔で手をこまねく。
私はハンモックへと案内された。
「さぁ、特等席だよ。
どうぞ王子様」
橋本先輩はわざとらしく、手を差し伸べて見せる。
私はハンモックに手を置き、尻に体重をかけ座ろうとした。
その瞬間、ハンモックは一回転して私を拒んだ。
「お〜、暴れ馬に手こずってる」
山口が笑いながら茶化した。
「おい、うるさいぞ」
私はすかさず返した。
短い付き合いだが、山口はやけに心地よい奴だ。
私がハンモックで体を揺らして楽しんでいると、山口が近づいて来た。
「さて、バイト代だぞー」
山口はそう言いながら、カップヌードルと割り箸を差し出した。
「キャンプの定番!肉とかじゃないんだよなぁ〜」
「ありがとう」
「これ、3分経ったやつか?」
「お前、そんなに優しさを求めるなよ。
贅沢な子だね、星でもみて待ってなさい」
「誰だよ」
私は笑いながら返した。
少し星を眺め、カップヌードルの蓋を開けた。
あらためて見ると、赤と白のお馴染みのパッケージはランタンの灯りに照らされて、闇の中で奇妙な存在感を放っている。
スープを一口すすると、驚くほどに身体の芯へと温かさが染み渡っていった。
こればかりは「ジャンクフードを夜食に食べるなど」だの「塩分の過剰摂取が」だのと、脳内総議会が喧しく言い立てることは無かった。
ランタンの淡い光に照らされた山口の横顔は、昼間のゴリラのような野蛮さはなく、どこか哀愁漂うものだった。
男だらけの山頂でハンモックに揺られながら啜るカップヌードル。
私は今までの大学生活でも、この上ない充足感を感じていた。
「そろそろランタン消すよー」
橋本先輩が声をあげた。
一瞬の静寂の後、視界のすべてが濃厚な漆黒のグラデーションに染まる。
そして、先程以上に無数の光が一斉に網膜へと飛び込んできた。
薔薇色のキャンパスライフ、学業、将来。
あらゆるものが一瞬にして夜空に吸い込まれた。
「……綺麗だなぁ」
隣で、山口がぼそりと言った。
恋人に言うものとは違う、しかし心からの言葉だ。
歴史を愛する文学徒らしい、静かな響きがあった。
「あぁ」
とだけ、私は答えた。
それ以上の言葉は、この完成された夜空に対して無作法なノイズでしかないと分かっている。
この圧倒的な銀河の質量の前には、今までの労力も、私が後生大事に抱えていた頑固な美学も、すべてが等しく無力で、そしてどうでもいいものだ。
言葉を失った私は静かに電源を落としつつあった。
感慨に耽る中、突如として私のハンモックがメトロノームのように大きく揺れ始めた。
暗い中、目を凝らすと謎の筋肉質の腕が私のハンモックを掴んでいる。
山口である。
「おい、やめろよ」
私は少し笑いながら声をかけた。
こいつは子供のような無邪気な奴だ。
「良いではないかぁ」
「悪代官か」
私はすかさずツッコミを入れた。
5月、私は居場所を得た。
薔薇色の銀河系がここには広がっていたのだ。




