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第七話 魔王を救いたい元勇者が、俺様に彼女を渡さない

「駄目です」


 翌朝。


 出発の準備を終えた俺様に、フィーネが告げた。


「何がだ?」


「全部です」


 フィーネは俺様の前に立ち、両腕を広げている。


 小さな身体で通路を塞いでいるつもりらしい。


「せめて具体的に言え」


「昨日、胸を斬られた方が、夜明けと同時に魔王城へ出発しようとしていることです」


「傷なら塞がった」


「塞がっておりません」


「血は止まったぞ」


「止めたのです。《不落城主》で、傷を一時的に補強しただけです。砦を離れれば、いつまでも保ちません」


 胸元へ巻かれた包帯の下では、ヴィオラにつけられた傷がまだ鈍く痛んでいる。


 フィーネの言葉どおり、治ったわけではない。


 城壁が崩落を拒むように、俺様の身体も倒れることだけを拒んでいる。


「なら問題ない」


「大問題です!」


 フィーネが珍しく声を荒らげた。


 その背後から、エレノアが顔を出す。


「フィーネの言うとおりです。治癒魔法を拒絶する力は消えましたが、傷が深すぎます。せめて三日は安静にしてください」


「三日も待てば、魔王が完全に目覚める」


「ですが――」


「俺様は美兎を迎えに行くと言った。待たせるのは趣味ではない」


「女性との待ち合わせのように言わないでください」


「実際、女に会いに行くんだろ」


「その女性は現在、世界を滅ぼしかねない状態です!」


「少しくらい気性が荒い方が面白い」


「基準がおかしいのです!」


 フィーネの説教を聞き流し、俺様は歩き出した。


 フィーネが慌てて追いかけてくる。


「ご主人様! まだお話は終わっておりません!」


「俺様の話は終わった」


「私の話が終わっていないのです!」


 中庭へ出る。


 飛竜の前には、すでに荷物が積まれていた。


 ラウラが腕を組み、その横ではヴィオラが剣の具合を確かめている。


「遅いぞ、ゼクト」


「誰のせいで負った傷だと思っている?」


「うっ……」


 ヴィオラの動きが止まった。


 顔を伏せ、目に見えて落ち込む。


「わ、悪かったよ……」


「気にするな。お前が泣いた顔は悪くなかった」


「慰め方が最低だ!」


「元気になったな」


「お前、本当にムカつく!」


 ヴィオラが剣の柄へ手をかける。


 エレノアがすぐにその腕をつかんだ。


「今度こそ本当に死にますから、我慢してください」


「だってこいつが!」


「元気づけているつもりなのでしょう。おそらく」


「なぜ自信がない?」


「日頃の行いです」


 俺様は飛竜の背へ手をかけた。


 飛竜が嫌そうに鼻を鳴らす。


「何だ?」


 もう一度、鼻を鳴らした。


「乗せろ」


 飛竜が首を横へ振る。


「ご主人様」


 フィーネが遠慮がちに口を挟む。


「おそらく、重量の問題かと」


「俺様が重いというのか?」


「ご主人様だけではなく……」


 フィーネの視線が、今回の同行者へ順番に向けられる。


 俺様。


 フィーネ。


 エレノア。


 ヴィオラ。


 全身を黒鉄の鎧で包んだラウラ。


 さらに、飛竜の倍近い巨体を持つケルベロス。


「全員乗せるのは、さすがに難しいと思います」


「軟弱な飛竜だな」


 飛竜が牙を剥いた。


「ご主人様。飛竜の方にも限界はございます」


「では、女を一人置いていくか」


 四人の女が一斉に俺様を見る。


「誰にする?」


「なぜ私たちに聞くのですか?」


「立候補がいるかもしれん」


「いるわけないだろ!」


 ヴィオラが怒鳴った。


 ラウラは俺様へ厳しい目を向ける。


「私は姫殿下の護衛だ。置いていかれるつもりはない」


「なら鎧を脱げ。重い」


「貴様は戦場へ裸で行けと言うのか!」


「俺様は一向に構わんぞ」


「貴様の話ではない!」


「ラウラ様」


 フィーネが真剣な顔でラウラを見上げる。


「必要であれば、私がお着替えをお手伝いいたします」


「姫殿下まで!?」


「俺様も手伝うぞ」


「貴様は離れていろ!」


 悪くない出発になりそうだ。


『我を忘れていないか』


 低い声が足元から響いた。


 ケルベロスの中央の頭が、俺様を見上げている。


「忘れていた」


『我は王骸獣ケルベロス! 断じて荷物ではない!』


「そもそも、お前は飛竜に乗れないだろ」


 飛竜とケルベロスが互いを見る。


 飛竜は露骨に一歩後ろへ下がった。


 ケルベロスの左の頭が牙を剥く。


『何だ、その目は!』


『落ち着け。客観的に見て、我ら三体分の重量はある』


 右の頭が冷静に分析した。


『問題ありません』


 中央の頭が穏やかに告げる。


『姫様がお乗りになるならば、我らが直接お運びします』


「俺様も乗るぞ」


『あなたは飛竜へどうぞ』


「所有者を拒むな」


『姫様専用です』


「俺様が《魔獣主》だぞ」


『それとこれとは別の問題です』


「こいつ、役割を奪われてから態度が悪くなっていないか?」


『貴様の日頃の行いだ!』


 左の頭が吠えた。


 エレノアが小さく笑う。


「先ほど、私も同じことを申し上げました」


「気が合うな。俺様の女になるか?」


「遠慮いたします」


 今日も断られた。


     ◇


 結局、俺様とヴィオラ、エレノアが飛竜。


 フィーネとラウラがケルベロスに乗ることになった。


 北方砦の管理は、ラウラの副官へ任せてある。


 フィーネの《不落城主》は、城から離れても維持される。ただし、距離が開けば城内の細かな状況までは把握できないらしい。


「本当に、私が離れても大丈夫でしょうか」


 フィーネがケルベロスの背から、遠ざかる砦を振り返る。


「心配には及びません、姫殿下」


 その後ろに乗ったラウラが答える。


「我が副官は優秀です。少なくとも、城を奪った翌日に放置するどこかの男よりは」


「所有者が付ききりでなければ維持できない城など、最初からいらん」


「城主は姫殿下だろう!」


「俺様のフィーネが城主なら、俺様の城だ」


「私はいつから、ご主人様の所有物になったのでしょうか」


「奴隷市場で買ったときからだ」


「そうでした」


 フィーネが納得する。


「納得してはいけません、姫殿下!」


「ですが、事実ですので」


「その関係を受け入れないでください!」


「ラウラ様も、すっかり私たちの関係へ馴染まれましたね」


「断じて馴染んでおりません!」


 山を越えると、景色が変わった。


 緑が消え、地面は黒く乾いている。


 空を覆う雲まで紫色に染まり、遠くには巨大な黒い城が見えた。


 魔王城。


 周囲の山々よりもなお高い塔が、天を突き刺すようにそびえている。


「あれが美兎の城か」


「魔王陛下の城だ」


「じきに俺様のものになる」


「言うと思ったぞ」


 ラウラも分かってきたらしい。


 悪くない。


 だが、魔王城まで残り半日の距離へ近づいたところで、飛竜が急に高度を下げた。


「どうした?」


 眼下。


 黒い荒野を埋め尽くすように、魔族の軍勢が並んでいる。


 歩兵。


 騎兵。


 巨大な魔獣。


 その数は、少なく見積もっても数千。


 全員が一糸乱れぬ動きで、俺様たちを見上げていた。


「魔王軍の主力部隊だ」


 ラウラの顔から血の気が引く。


「北方砦に配備されていた兵とは、練度が違う」


「知り合いか?」


「当然だ。同じ魔王軍なのだからな」


「なら、退くように言え」


「それができるなら、すでにしている!」


 軍勢の中央に立った魔族の将軍が、槍を掲げる。


 その瞳は赤黒く濁り、首筋には黒い紋章が浮かんでいた。


『《異界魔王》より、全軍へ命令』


 地上にいたすべての魔族が、同じ声で告げる。


『《勇者》を殺せ』


 俺様の左手に刻まれた紋章が、熱を帯びた。


 ヴィオラから奪った《勇者》だ。


「ご主人様が《勇者》を奪ったため、標的にされているのでしょうか」


「人気者はつらいな」


「命を狙われているだけです」


「似たようなものだろ」


「まったく違います」


 軍勢が弓を構えた。


 空を埋めるほどの矢が、一斉に放たれる。


「飛竜、降りろ!」


 俺様の命令に、飛竜が急降下する。


 その横をケルベロスが落ちていった。


「ご主人様!」


「なぜあいつらは普通に空を走っていた!?」


『王骸獣を甘く見るな!』


 左の頭が得意げに吠える。


 足元には何もない。


 だがケルベロスは空中を地面のように蹴り、矢の雨を駆け抜けていく。


「飛竜。お前もやれ」


 飛竜が無理だとばかりに鳴いた。


「根性が足りん」


「種族が違うんだよ!」


 ヴィオラが俺様の背中にしがみつきながら叫んだ。


 地上へ降り立つ。


 俺様たちを包囲するように、魔王軍が陣形を変えた。


 ラウラが《ギロティア》を抜く。


 しかし、その刃先はわずかに震えていた。


「斬れないのか?」


「彼らは魔王陛下へ忠誠を誓った者たちだ。私の同胞でもある」


「なら斬るな」


「だが、このままでは貴様が――」


「俺様の心配をするとは、ついに惚れたか?」


「なぜ今、その話になる!」


「違うのか?」


「違う!」


「まだ素直になれないらしい」


「貴様は一度、黙ることを覚えろ!」


 魔族兵たちが迫る。


 意識を奪われているのか、誰の顔にも表情がない。


「エレノア。怪我人を治せ。ヴィオラは飛んでくる矢だけ落とせ」


「分かりました」


「お前はどうするんだ?」


 ヴィオラの問いに、俺様は左手を掲げた。


《役割――魔獣主》


 北方砦でケルベロスから奪った力が発動する。


 大地が揺れた。


 魔王軍の後方に並んでいた魔獣たちが、動きを止める。


 狼。


 大蛇。


 翼を持つ獅子。


 鎧で覆われた巨大な猪。


 数百体の魔獣が一斉に俺様へ顔を向け、その場へ伏した。


「よし。あいつらを止めろ」


 魔獣たちが身を起こす。


 フィーネが不安そうに俺様を見る。


「殺してしまいませんか?」


「では命令を変える」


 俺様は魔獣たちへ告げた。


「一人残らず押し倒して、舐め回せ」


 一瞬。


 戦場から音が消えた。


『待て!』


 ケルベロスの左の頭が叫ぶ。


『王骸獣たる我らに、何という命令を下す!』


「お前は三人同時に舐められる。効率がいい」


『そういう問題ではない!』


『合理的ではある』


 右の頭が冷静に答えた。


『姫様を襲う者であれば、唾液まみれにすることもやむを得ません』


 中央の頭も受け入れる。


『お前たちには王骸獣としての誇りがないのか!?』


「三つの頭で相談してから動け」


『多数決ならば二対一だ。実行する』


『裏切り者!』


 ケルベロスが魔族軍へ突っ込んだ。


 三人の兵士を前脚でまとめて押し倒し、三つの舌で顔を舐め回す。


「や、やめろ……!」


「く、臭い!」


「俺は猫派なんだ!」


『誰が犬だ!』


「自分から名乗ってないだろ!」


 左の頭が怒りながら、さらに勢いよく舐めた。


 それを合図に、支配下へ入った魔獣たちが一斉に魔族兵へ襲いかかる。


 噛まない。


 爪も立てない。


 ただ押し倒し、武器を奪い、顔を舐める。


「これは……戦争と呼んでいいのでしょうか」


 エレノアが困惑している。


「死者は出ていないからいいだろ」


「別の意味で、兵士の尊厳が死んでいます」


 翼を持つ獅子に舐め回された将軍が、泡を吹いて倒れた。


 黒い紋章が薄れている。


「なるほど」


 俺様は近くの兵士を殴り倒しながら、周囲を確認する。


「魔王の支配は、戦意を失えば弱まるらしい」


「そのために舐めさせたのですか?」


「いや。面白そうだったからだ」


「少しでも感心した私が間違っておりました」


 フィーネは何度同じ間違いをするつもりなのだろう。


     ◇


 魔族軍を突破するころには、日は傾き始めていた。


 俺様たちを追ってくる者はいない。


 全員、魔獣の唾液を洗い流すことに忙しそうだった。


 魔王城へ続く黒い石橋。


 その中央に、一人の男が立っている。


 黒い鎧。


 金色の紋章が刻まれた右手。


 皇蓮。


 通信水晶で見た美兎の騎士だ。


「待っていたぞ、ゼクト・グランツ」


「男を待たせる趣味はない」


「俺にもない!」


「気が合わないな」


「合う必要があるか!」


 皇蓮が黒い剣を抜く。


 刃から金色の光が立ち上り、橋全体が震えた。


「この先へは行かせない」


「美兎に追い出されたのか?」


 皇蓮の表情がわずかに強張った。


 図星らしい。


「……美兎は、自分を抑えられなくなり始めている。俺まで傷つける前に、城から出ていけと言った」


「それで素直に出てきたのか」


「美兎を一人にするつもりはない。お前を止めたら、すぐ戻る」


「俺様を止める?」


「ああ」


 皇蓮は、ケルベロスの背に乗ったフィーネを見る。


「お前が魔王を倒せば、その子が死ぬ。だから美兎を倒すことは許さない」


「美兎を放置すれば、世界中の人間を殺すことになるぞ」


「そうなる前に、俺が美兎を連れて遠くへ逃げる」


「どこへだ?」


「この世界の果てでも、誰もいない場所でもいい」


「そこで二人きりで暮らすのか。悪くないな」


「なら――」


「だが、フィーネが死ぬ」


 皇蓮が黙り込む。


「お前はその子を救うために、美兎を犠牲にするつもりだろ!」


「違う」


「何が違う!」


「お前が美兎を救うために、フィーネを諦めている」


「それは……」


「勝手に一人を選ぶな。俺様は両方もらう」


「人の彼女を物のように言うな!」


「では、お前ごともらってやる」


「俺はいらない!」


「ご主人様」


 フィーネが外套を引いた。


「男性まで口説かないでください」


「部下に誘っただけだ」


「美兎は口説いたでしょう」


「美人だからな」


「美兎は渡さない!」


 皇蓮の金色の魔力が膨れ上がる。


 どうやら、そこが一番許せないらしい。


「なら守れ」


「言われなくても、そのつもりだ!」


 皇蓮が石橋を蹴った。


 一瞬で俺様との距離を詰め、黒い剣を振り下ろす。


 俺様は《王喰らい》で受け止めた。


 金と黒。


 二つの魔力がぶつかり、橋の両側にある石柱が砕け散る。


「ほう」


 重い。


 ヴィオラやラウラとも違う。


 剣の技量ではなく、役割そのものが皇蓮の力を際限なく引き上げている。


《役割――異界勇者》


《守護対象の危機を確認》


《能力補正を開始》


《限界値を更新》


 皇蓮の力が一段増した。


 俺様の足元に亀裂が走る。


「お前、本当に美兎が好きなんだな」


「当たり前だ!」


「なら俺様の部下になれ。二人まとめて面倒を見てやる」


「何度断れば分かる!」


「頷くまで聞く」


「話が通じない!」


 皇蓮が剣を押し込む。


 俺様は力を受け流し、その腹へ蹴りを叩き込んだ。


 皇蓮の身体が石橋の上を跳ねる。


 だが空中で体勢を立て直し、着地すると同時に駆けてきた。


 速さも先ほどより上がっている。


「ゼクト!」


 ヴィオラが叫ぶ。


「お前、まだ傷が!」


「見れば分かる」


 胸元の包帯に、赤い血が滲んでいる。


 砦を離れたことで、《不落城主》による傷の補強が弱まり始めている。


 だが、まだ剣は振れる。


 なら問題ない。


 皇蓮の連撃を《王喰らい》で受け流す。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 攻撃を防ぐたび、皇蓮の力が増していく。


《守護対象の危機度が上昇》


《能力限界を再更新》


《敗北回避補正を付与》


「便利な役割だな」


「これは役割の力じゃない!」


 皇蓮の剣が俺様の頬をかすめる。


「美兎を守りたい、俺の意思だ!」


「違うな」


「何が!」


「自分の意思で強くなっているなら、いちいち空に許可を求めるな」


 皇蓮が目を見開く。


 役割の文字が見えているのは、俺様だけらしい。


「お前の覚悟は本物だ。だが、その力は女神が美兎を殺させるために与えたものだろ」


「俺は美兎を殺さない!」


「分かっている。だから役割がお前を焦らせている」


 皇蓮の金色の紋章が明滅している。


 守るための力を与えるふりをして、皇蓮を魔王のもとへ近づける。


 最後には勇者と魔王を戦わせる。


 世界が用意した筋書きだ。


「お前には美兎しかいない」


「ああ。俺には、美兎だけだ」


「だが、美兎にはお前しかいないのか?」


「何……?」


「美兎を救おうとしているのは、お前だけではない」


 俺様は皇蓮の剣を弾いた。


「フィーネも、ラウラも、魔王軍の連中も、美兎に死んでほしいとは思っていない」


「だから美兎を倒すというのか!」


「殺さずに役割を奪う。そのために来た」


「そんなことができる保証はない!」


「ある」


「どこに!」


「俺様がやると言った」


「それは保証じゃない!」


「俺様にとっては同じだ」


 皇蓮が歯を食いしばる。


「もし失敗したら、美兎が死ぬ」


「失敗しない」


「その子も死ぬかもしれない!」


「死なせない」


「なぜ、そこまで言い切れる!」


「俺様だからだ」


「答えになっていない!」


「お前は質問が多いな!」


 正面から剣を打ち合わせる。


 金色の魔力が弾け、俺様の胸の傷がさらに開いた。


「ご主人様!」


 フィーネが駆け寄ろうとする。


「来るな!」


 俺様が止めると、その場で足を止めた。


 皇蓮の視線が一瞬、フィーネへ向く。


「その子は……怖くないのか?」


「怖いです」


 フィーネは胸元で両手を握っている。


「魔王様が倒されれば、私は死ぬかもしれません。ご主人様も、今度こそ本当に死んでしまうかもしれません」


「なら、なぜ止めない」


「止めております。今朝から何度も」


「止められていないだろ!」


「ご主人様は、人の話を聞きませんので」


「苦労しているんだな……」


「はい」


「勝手に親しくなるな」


「誰のせいだ!」


「誰のせいですか!」


 皇蓮とフィーネの声が重なった。


 気が合うらしい。


「ですが」


 フィーネは、まっすぐ俺様を見る。


「ご主人様は、一度言ったことを曲げません」


「それだけで命を預けるのか?」


「いいえ」


 フィーネが柔らかく笑う。


「これまで、一度も私を置いて逃げなかったからです」


 皇蓮の剣先が、わずかに下がった。


 俺様は《王喰らい》を肩へ担ぐ。


「一人で助けようとするな、皇蓮」


「……お前を信じろというのか」


「好きにしろ。信じなくても、美兎は俺様がもらう」


「やはり渡せない!」


「面倒な男だな」


「お前にだけは言われたくない!」


 皇蓮が再び剣を構える。


 まだ道を譲る気はないらしい。


 悪くない。


 俺様も《王喰らい》を構え直した。


 そのとき。


 魔王城の鐘が鳴った。


 低く。


 重く。


 空そのものを震わせるような音が、世界中へ響き渡る。


 一度。


 二度。


 三度。


 皇蓮の顔から血の気が引いていく。


「美兎……?」


 魔王城の上空に、黒い渦が生まれた。


 雲が吸い込まれ、空に巨大な穴が開いていく。


 城全体から噴き出した魔力が、黒い柱となって天を貫いた。


《異界魔王――侵食率九十二パーセント》


《九十六パーセント》


《九十九パーセント》


「止まれ……」


 皇蓮が剣を捨て、魔王城へ駆け出す。


「美兎!」


《侵食率百パーセント》


《異界魔王の完全覚醒を確認》


 城門が内側から吹き飛んだ。


 黒い魔力の奔流が、石橋を飲み込む。


 皇蓮は避けなかった。


 両腕を広げ、正面からその力を受け止めようとする。


「馬鹿が」


 俺様は皇蓮の前へ割り込んだ。


 《王喰らい》を地面へ突き立てる。


「喰え!」


 大剣から黒い顎が現れ、迫る魔力へ食らいついた。


 空間が軋む。


 魔力を喰う速度より、押し寄せる量の方が多い。


 俺様の両足が石橋を削り、胸の傷から血が噴き出す。


「ゼクト!」


「俺様の背後から動くな!」


「だが、美兎が!」


「お前が死ねば、誰があいつを連れて帰る?」


 皇蓮が言葉を失う。


 魔力の奔流が弱まった。


 吹き飛んだ城門の奥。


 一人の少女が、ゆっくりと歩いてくる。


 長い黒髪が、風もないのに宙を漂っていた。


 額から伸びた二本の角。


 背中には六枚の黒い翼。


 黒い衣装は魔力によって形を変え、その身体を禍々しい鎧のように包んでいる。


 穏やかだった茶色の瞳は、赤黒く染まっていた。


「美兎……」


 皇蓮が震える声で名前を呼ぶ。


 少女の瞳が皇蓮を捉えた。


 その手に黒い槍が生まれる。


「美兎。俺だ」


 皇蓮が一歩前へ出る。


「迎えに来た。一緒に帰ろう」


 黒い槍の先端が、皇蓮へ向けられた。


「美兎……?」


 少女の唇が、わずかに震えた。


「れん……」


 確かに、美兎の声だった。


「にげ、て……」


「ああ」


 皇蓮の顔が歪む。


「一緒に逃げよう。だから――」


 美兎の表情が消えた。


『異界勇者を確認』


 重なった声が、少女の口から響く。


『対となる役割の存在を確認』


『世界の均衡を維持するため、排除を開始します』


 黒い槍が放たれた。


 狙いは皇蓮の心臓。


 俺様は《王喰らい》で槍を叩き落とした。


 橋が大きく陥没する。


 皇蓮は動けずにいた。


「美兎が……俺を……」


「喜べ」


 俺様は皇蓮の胸倉をつかみ、無理やり立たせる。


「これで分かっただろ」


「……何がだ」


「あれは今、美兎ではない」


 黒い翼を広げ、魔王が宙へ浮かび上がる。


「なら、遠慮なく殴れる」


「殴るな!」


「では蹴る」


「そういう問題じゃない!」


 まだ怒鳴れるなら問題ない。


 俺様は皇蓮を放し、《王喰らい》を構えた。


 美兎の赤黒い瞳が、俺様へ向く。


『《勇者》を確認』


「お前を倒しに来た」


『排除します』


「その後で、俺様の女になれ」


『排除します』


「断らないのか。ラウラより話が早いな」


「肯定もしていないぞ!」


 背後からラウラの怒声が飛んできた。


 その直後。


 美兎の視線が、フィーネへ向いた。


『魔王王統の生存個体を確認』


 フィーネの身体が大きく震える。


 胸元に、黒い紋章が浮かび上がった。


「姫殿下!」


 ラウラがフィーネを抱き止める。


 黒い紋章から、無数の文字が溢れ出した。


《異界魔王の完全覚醒を確認》


《終焉段階への移行を開始》


《役割――終焉の生贄》


《生贄執行時の障害を検出》


 フィーネの首元に刻まれた奴隷紋が、白い光を放った。


 黒い紋章と白い鎖が衝突する。


《対象の所有権を確認》


《所有者――ゼクト・グランツ》


《世界権限との競合が発生》


「ご主人、様……」


 フィーネが苦しそうに俺様へ手を伸ばす。


 俺様は、その手をつかんだ。


「ここにいる」


《生贄の執行条件――異界魔王の敗北》


《執行準備を開始》


《障害排除のため、奴隷契約の強制破棄を開始します》


 白い鎖に亀裂が入る。


 まだフィーネの命は奪われていない。


 だが、この契約を壊された状態で美兎が敗北すれば、その瞬間に《終焉の生贄》が執行される。


 俺様とフィーネを結ぶ契約が、世界そのものに引き裂かれようとしていた。


 胸の奥で、何かが切れる音がする。


 美兎の背後。


 黒く染まった空の向こうに、巨大な女の影が浮かんだ。


 顔は見えない。


 ただ、その手がフィーネへ伸びている。


 なるほど。


 ようやく出てきたか。


「俺様の所有物に、勝手に触れるな」


 フィーネを背後へ庇い、《王喰らい》を引き抜く。


 黒い刀身が歓喜するように震えた。


「女神だろうと、世界だろうと――」


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