第四話 三つ首の番犬を倒したら、元仲間の聖女が訪ねてきた
『犬ではない!』
三つの口から同時に怒声が放たれた。
王骸獣ケルベロスの巨体が、地下空間の床を蹴る。
左の首が灼熱の炎を吐き、右の首が凍てつく冷気を放つ。
正面から迫るのは、中央の首。
牙の間に黒い雷が迸っている。
「ご主人様!」
「下がっていろ!」
俺様は魔剣《王喰らい》を横薙ぎに振るった。
漆黒の刀身が炎へ触れる。
瞬間。
燃え盛っていた炎が、吸い込まれるように刀身の中へ消えた。
『なに!?』
続いて迫った冷気も斬る。
凍りついていた空気が砕け、白い霧となって魔剣へ呑み込まれた。
その直後。
中央の頭部が俺様へ食らいつく。
黒い雷をまとった牙が、俺様の胴体を噛み砕こうと迫った。
「遅い」
横へ踏み込み、その鼻先へ魔剣の腹を叩きつける。
轟音。
中央の頭部が地面へ叩き落とされた。
石床が陥没し、黒い雷が地下空間を駆け巡る。
『小癪な!』
左の首が横から食らいついてきた。
牙を魔剣で受け止める。
腕へ重い衝撃が伝わった。
なるほど。
でかいだけではない。
ラウラよりも力が強い。
『我らの炎を奪った程度で、勝ったつもりか!』
「奪ったものは使うためにある」
俺様は《王喰らい》を振り抜いた。
漆黒の刀身から、先ほど吸収した炎が噴き出す。
『熱っ!?』
炎をまともに浴びた左の首が飛び退いた。
『なぜ我の炎で我が焼かれる!』
『当然だ。炎への耐性と完全な無効化は異なる』
右の首が冷静に答える。
『黙れ! いちいち説明するな!』
『事実を述べただけだ』
『仲間割れをしている場合ではありません!』
中央の首が怒鳴る。
三つの頭が同時に俺様を睨んだ。
騒がしい魔獣だ。
「お前たちは、いつもそうやって喧嘩しているのか?」
『貴様のせいだ!』
『我々の意思決定には、以前から多少の齟齬が存在する』
『右の兄様。それは今、説明しなくてもよいことです』
「仲がいいな」
『どこを見てそう思った!』
三つの頭部が左右へ広がる。
左の口から炎。
右の口から冷気。
中央の牙から雷。
三方向から同時に攻撃するつもりらしい。
「ご主人様、お気をつけください!」
フィーネは地下空間の端まで下がっていた。
その前にはラウラが立ち、《ギロティア》を構えている。
「姫殿下には、指一本触れさせん」
『我らが末姫へ危害を加えるものか!』
中央の首が答える。
『我らが殺すのは、その無礼な男だけだ!』
「俺様は死なない」
『ならば試してやる!』
三つの首が同時に咆哮した。
炎と冷気と黒雷が放たれる。
三つの力が絡み合い、巨大な奔流となって地下空間を埋め尽くした。
逃げ場はない。
だが、逃げる必要もない。
俺様は《王喰らい》を正面へ構えた。
魔剣の柄が、手の中で脈打つ。
もっと寄越せ。
刀身から、そんな欲望が伝わってきた。
「欲張りな剣だ」
悪くない。
「すべて喰え!」
魔剣を振り下ろす。
黒い斬撃が奔流を真っ二つに裂いた。
炎が消える。
冷気が消える。
黒雷さえも、刀身へ引き寄せられていく。
吸収された三つの力が《王喰らい》の内部で混ざり合い、漆黒の刃に赤、青、紫の紋様が浮かび上がった。
『あり得ん!』
『魔力吸収量が、かつての所有者を上回っている』
『ですが、あの方は役割を持っていないはずです!』
「役割がなければ使えないと、誰が決めた?」
地面を蹴る。
ケルベロスとの距離が一瞬で消えた。
左の頭部が牙を剥く。
俺様はその鼻先を殴り飛ばした。
『ぐおっ!?』
右の頭部が俺様の脚を狙う。
口を開いた瞬間、その下顎を蹴り上げる。
『損傷を確認。だが、戦闘続行に支障なし』
「丈夫だな」
『我らを、そこらの魔獣と一緒にするな!』
中央の頭部が咆哮する。
黒雷をまとった前脚が振り下ろされた。
俺様は《王喰らい》を横へ向け、巨大な爪を受け止める。
足元の石床が砕けた。
「ご主人様!」
「動くな、フィーネ!」
ラウラが彼女の前へ腕を伸ばした。
「今近づけば、巻き込まれる!」
「ですが……」
「心配は無用だ」
ラウラが苦々しい顔で俺様を見る。
「認めたくはないが、あの男はこの程度では死なん」
「当然だ」
「貴様には言っていない!」
余所見をしている間にも、ケルベロスは前脚へ力を込めてくる。
俺様の身体が少しずつ床へ沈んだ。
『押し潰してくれる!』
「それがお前の全力か?」
『強がりを!』
「強がる必要がない」
剣を握る腕へ力を込める。
巨大な前脚を押し返す。
『なっ……』
「俺様の方が強いからだ!」
ケルベロスの巨体ごと弾き飛ばした。
三つ首の魔獣が宙を舞い、封印の柱を二本まとめてへし折る。
地下空間全体が大きく揺れた。
天井から石片が降り注ぐ。
ケルベロスは空中で身体をひねり、四本の脚で着地した。
『人間の力ではない!』
「俺様を普通の人間と一緒にするな」
『ならば何者だ!』
「ゼクト・グランツだ」
『名前を聞いているのではない!』
「それで十分だろ」
『会話が成立しない!』
左の首が苛立たしげに牙を鳴らす。
右の首が俺様の持つ魔剣を観察していた。
『注意しろ。《王喰らい》へ蓄積された魔力が増大している』
『先ほどの我らの攻撃か』
『それだけではない。地下封印に残留していた魔力まで吸収している』
確かに、剣は先ほどより重くなっている。
物理的な重さではない。
中に蓄えられた力が、今にも溢れ出そうとしていた。
魔剣が俺様へ訴えてくる。
斬れ。
喰らえ。
奪え。
「俺様に命令するな」
柄を強く握り締める。
暴れようとしていた魔剣が、わずかに静まった。
『《王喰らい》を、力だけで従わせている……?』
中央の首が呆然と呟く。
「剣は持ち主に従うものだろ」
『その魔剣は、所有者の役割を喰らい続ける呪われた武器です! 従わせられるようなものではありません!』
「俺様には、喰わせる役割がない」
『それだけで説明がつくものか!』
「ついているだろ」
俺様は《王喰らい》を肩へ担いだ。
「こいつは俺様を喰えない。俺様はこいつを使える。それだけだ」
『ならば、剣ごと貴様を砕く!』
ケルベロスが駆ける。
巨体が迫るたび、地下空間が揺れた。
三つの口が同時に開く。
魔力を吐くのではない。
左右から逃げ道を塞ぎ、中央の牙で俺様を噛み砕くつもりだ。
「分かりやすくていい」
剣を両手で構える。
刀身に蓄えられていた三色の光が、切っ先へ集まっていく。
『殺してはいけません!』
フィーネの声が響いた。
ケルベロスの動きが、一瞬だけ鈍る。
俺様は彼女へ背を向けたまま答えた。
「誰に言っている?」
「ご主人様にです!」
「俺様が自分のものを壊すと思うか?」
『まだ貴様のものではない!』
左の首が怒鳴る。
「じきになる」
『ならん!』
「では、決めるぞ」
ケルベロスが跳躍した。
地下空間の天井を覆うような巨体が、頭上から降ってくる。
俺様は《王喰らい》を振り上げた。
炎。
冷気。
黒雷。
奪った三つの力が一つとなり、巨大な光の刃を形作る。
「どちらが上か!」
振り下ろされた前脚より早く、魔剣を薙ぐ。
光の刃がケルベロスの三つの首をまとめて捉えた。
爆発。
暴風が地下空間を駆け抜ける。
ラウラが《ギロティア》を床へ突き立て、フィーネを庇う。
ケルベロスの巨体が吹き飛び、背中から地面へ叩きつけられた。
衝撃で床が大きく陥没する。
三つの頭部が力なく横たわった。
だが、首は落としていない。
呼吸もある。
加減するのは面倒だったが、死なせてはいない。
俺様は《王喰らい》を肩へ担ぎ、倒れたケルベロスへ近づいた。
「終わりか?」
『まだ……だ……』
左の首が牙を鳴らす。
前脚へ力を込めるが、巨体は持ち上がらなかった。
『我らは、ノクティス王家を守護する王骸獣……』
「なら、そこで寝ている場合ではないな」
『黙れ……』
右の首が目を開く。
『戦闘能力は、ほぼ喪失した』
『右!』
『事実だ。このまま戦えば、我々が死ぬ可能性は九割を超える』
『残り一割で勝てばいい!』
『その一割も、かなり楽観的な推定だ』
『兄様方、今は喧嘩をしている場合ではありません』
中央の首が、ゆっくりと顔を上げる。
その青白い瞳は、俺様ではなくフィーネへ向けられていた。
『末姫よ。なぜ、この男と共にいるのです』
フィーネがラウラの後ろから姿を現す。
「ご主人様に、助けていただいたからです」
『奴隷として買われたのでしょう』
「はい」
『ならば、自由を望まれているのではありませんか』
フィーネは胸元の首輪に触れた。
少し考えてから、首を横へ振る。
「いいえ」
『なぜです』
「ご主人様は、私が死ぬことをお許しになりません」
『それは所有物だからでしょう!』
左の首が噛みつくように言う。
「はい。ご主人様は、そうおっしゃいます」
フィーネが小さく笑った。
「ですが私にとっては、理由よりも、そう言ってくださる方がいることの方が大切なのです」
『末姫……』
「それに、ご主人様は約束を破りません」
フィーネは真っ直ぐに俺様を見る。
「私を魔王にすると、おっしゃいました。私を死なせないとも」
「ああ」
「ですから、私はご主人様についてまいります」
中央の首が目を伏せた。
右の首は黙って俺様を観察している。
左の首だけは納得していないらしく、低い唸り声を漏らした。
『貴様は、末姫を利用するつもりだ』
「利用する」
『やはり――』
「こいつには城主をさせる。俺様の国も任せる。その代わり、俺様がこいつを守る」
『それを利用と呼ぶのか!』
「使えるものを使わずに飾っておく趣味はない」
「ご主人様。もう少し言い方があるかと思います」
「ない」
ケルベロスの三つの顔が、そろって呆れた表情になった。
「俺様は城が欲しい。国が欲しい。強い部下も欲しい。美人も欲しい。この世にある良いものは、すべて俺様のものにする」
『ただの強欲ではないか』
「そうだ」
俺様は即答する。
「だから、一つも捨てない」
三つの頭部を順に見る。
「国を取るために民を捨てる気はない。剣を得るために持ち主を殺す気もない。女を手に入れるために、その女が大事にしているものを壊す気もない」
『……』
「フィーネも、砦も、ラウラも、お前ももらう。魔王も魔王城も、いずれ俺様のものだ」
『我らまで勝手に加えるな!』
「嫌なら俺様を倒せ」
『ぐっ……!』
「できないなら、敗北を認めろ」
左の首が牙を剥いた。
『断る!』
『我々の敗北は明白だ』
右の首が冷静に答えた。
『右! 貴様、裏切るつもりか!』
『敗北の認定と裏切りは別の問題だ。戦闘結果を否定しても状況は変わらない』
中央の首も静かに頷く。
『私も、この方の勝利を認めます』
『中央まで!』
『末姫が、この方を信じておられます。それに――』
中央の瞳が俺様の魔剣へ向く。
『《王喰らい》が人に従う姿を、私は初めて見ました』
『二対一だと!?』
『我々の意思決定は多数決を原則としている』
『今だけその決まりを持ち出すな!』
「便利な身体だな」
『どこがだ!』
右と中央の首が、俺様へ向かって頭を下げる。
『王骸獣ケルベロスは、ゼクト・グランツとの戦いに敗北した』
『貴様ら、勝手に――』
『敗北を認めます』
左の首が何かを叫び続けていたが、残る二つの頭は言い切った。
俺様の前へ黒い文字が浮かぶ。
《対象が敗北を承認しました》
《勝利条件達成》
《対象の役割――魔獣主》
《役割を接収しますか?》
「当然だ」
《役割――魔獣主》
《接収完了》
ケルベロスの中央の額に刻まれていた紫色の紋章が消える。
同時に、俺様の左手へ同じ紋章が浮かび上がった。
地下空間の各所から、無数の気配が伝わってくる。
先ほど倒した魔獣たち。
砦周辺の山に潜む飛竜。
さらに遠くにいる狼型や鳥型の魔物。
その位置と感情が、薄くだが分かった。
『返せ! それはノクティス王家へ仕えるために授かった役割だ!』
「返す気はない」
『盗人!』
「敗者から受け取った戦利品だ」
『左の兄様。私たちも敗北を認めました』
『我は認めていない!』
『多数決だ』
『その言葉を二度と使うな!』
ケルベロスが騒いでいる間に、《王喰らい》が震え始めた。
刀身から黒い靄が伸び、俺様の左手にある《魔獣主》の紋章へ絡みつこうとする。
「待て」
魔剣の動きが止まった。
「これは俺様のものだ。喰うな」
黒い靄が不満そうに揺れる。
それでも命令に逆らうことなく、刀身へ戻っていった。
『役割を喰らうことまで止められるのか』
右の首が呟いた。
「俺様のものへ勝手に手を出すなら、次はこいつを折る」
魔剣が激しく震えた。
「嫌なら従え」
震えが収まる。
聞き分けのいい剣だ。
「ご主人様」
フィーネがケルベロスへ駆け寄る。
「お怪我はございませんか?」
『この男に叩きのめされた!』
「申し訳ございません。すぐに治療いたします」
『なぜ末姫が謝るのです!』
「ご主人様の代わりです」
「俺様は悪くない」
『全部貴様のせいだ!』
フィーネがケルベロスの鼻先へ両手を添える。
「傷ついた身体へ、安らぎと灯火を――《慈光治癒》」
淡い光が、巨大な身体を包んだ。
傷ついた毛皮が修復され、乱れていた呼吸が落ち着いていく。
中央の首が気持ちよさそうに目を細める。
『末姫の御手を煩わせるとは……』
「フィーネで構いません」
『なりません。あなた様はノクティス王家最後の――』
中央の首の声が、突然途切れた。
三つの首に黒い鎖のような紋様が浮かび上がる。
『ぐっ……!』
「どうなさいました?」
『世界の禁則だ』
右の首が苦しげに答える。
『我々は、末姫の運命に関わる情報を、直接口にすることができない』
「世界の禁則?」
『役割は、力であると同時に物語だ』
右の首がゆっくりと身体を起こす。
『神が定めた筋書きから、世界を外れさせないための枷でもある』
「役割が、人の運命を決めるということですか?」
『正確には、役割へ沿うように運命が修正される。《勇者》は魔王と戦い、《聖女》は勇者を支え、《魔王》は討たれる』
ラウラが眉を寄せる。
「では、《不落城主》を授かった私が敗北を認められなかったのも……」
『役割による精神への干渉だ。本人の資質が強いほど影響も強まる』
「私が頑固だっただけではないのか?」
「その可能性も高いな」
「貴様は黙っていろ!」
俺様はフィーネを見た。
彼女の胸元には、以前水晶が示した不完全な文字がある。
正体不明だった役割。
おそらく、それも神の筋書きの一つだ。
「美兎を倒せば、フィーネが死ぬと言っていたな」
『異界より召喚された魔王。その敗北が世界に認められたとき、末姫の命は失われる』
中央の首が慎重に言葉を選ぶ。
それ以上を語ろうとすると、再び黒い鎖が首へ浮かび上がった。
『申し訳ございません。これ以上は……』
「役割の名前も言えないのか?」
『言えない。だが、単なる役割ではない』
右の首が答える。
『末姫の魂そのものが、世界の終焉を成立させる楔として組み込まれている』
俺様は《王喰らい》をフィーネへ近づけた。
刀身から黒い靄が伸びる。
フィーネの胸元へ触れる寸前。
魔剣が弾かれた。
耳障りな金属音が鳴り、地下空間全体へ黒い波紋が広がる。
『無駄だ』
右の首が言う。
『《王喰らい》が喰らえるのは、個体へ与えられた役割だ。末姫のそれは、すでに世界の法則と接続されている』
「なら、その接続を切ればいい」
『簡単に言うな!』
左の首が怒鳴る。
『世界を相手に剣を振るうつもりか!』
「邪魔をするならな」
『狂人だ!』
「今さら気づいたのか?」
『胸を張るな!』
中央の首が、フィーネの首輪へ視線を向ける。
『しかし、奇妙です。世界との接続が、完全ではない』
「奴隷契約のためか?」
『おそらくは』
首輪には、俺様とフィーネを結ぶ契約が刻まれている。
主の許可なく、奴隷の命や魂を第三者が奪うことはできない。
神の定めた運命と、奴隷契約。
本来なら比べるまでもない力だ。
それなのに、フィーネの契約だけは世界の命令を妨げている。
『末姫の魂の所有権が、一時的に世界から貴様へ移っている』
右の首が俺様を見る。
『それが、死の運命を実行できない原因だろう』
「では、ご主人様との契約がある限り、私は死なないのですか?」
『絶対とは断言できない。異界魔王が敗北すれば、世界はあらゆる方法であなたを生贄にしようとする』
フィーネの顔から血の気が引いた。
『だが、その首輪が最初の防壁になっていることは間違いない』
「なら、外す必要はないな」
俺様は即答した。
「ご主人様……」
「お前は俺様の奴隷だ。世界にも神にも渡さない」
「ですが、いつか私を自由にしてくださるというお話は……」
「そんな約束をした覚えはない」
「確かにございませんでした」
フィーネが肩を落とす。
「少しくらい迷ってくださってもよろしいのではありませんか?」
「命が危険になる自由なら、いらないだろ」
「それは、そうかもしれませんが……」
「話は終わりだ」
『勝手な男だ』
左の首が吐き捨てる。
「お前も今日から俺様の配下だ」
『それは認めん!』
『役割を奪われた以上、魔獣の群れはこの男を主と認識する』
右の首が説明する。
『我々自身も、《魔獣主》の命令を完全には拒絶できない』
『余計なことを言うな!』
「では命令だ。立て」
ケルベロスの巨体が勝手に立ち上がった。
『身体が!』
「よく効くな」
『卑怯者! 役割を使わず戦え!』
「さっき使わずに倒しただろ」
『ぐっ……』
「もう一つ命令する。フィーネを守れ」
三つの頭が同時にフィーネを見る。
今度は役割に強制されるより早く、中央の首が頭を垂れた。
『その命令であれば、喜んで』
『末姫を守ることは我々の使命だ』
右の首も続く。
左の首は不満げに俺様を睨んだまま、しぶしぶ頭を下げた。
『貴様に従うのではない。末姫のためだ』
「理由は何でもいい」
フィーネが三つの頭を順番に見上げる。
「よろしくお願いいたします、ケルベロスさん」
『さん……?』
「お嫌でしたか?」
『い、いえ。末姫がお望みならば』
中央の首が嬉しそうに尻尾を振った。
巨大な尻尾が封印柱へぶつかり、残っていた一本が折れる。
ラウラの顔が引きつった。
「喜ぶのは構わないが、砦を壊すな」
『直せるのであろう』
「修復にも魔力が必要なのだ!」
「使用人と番犬も手に入ったな」
「誰が使用人だ!」
『誰が番犬だ!』
ラウラと左の首の声が重なる。
騒がしい連中が増えた。
悪くない。
◇
地下から戻る頃には、夜が深くなっていた。
北方砦では、負傷兵の治療が続いている。
フィーネは城主として治療室を回り、食料庫を確認し、兵士たちへ寝床を用意させた。
ラウラはその後ろをついて歩き、砦の現状を説明している。
「保存食は、およそ三か月分ございます。ただし、王国側から攻撃を受けた場合、避難民を受け入れる必要が生じます」
「では、明日から食料を少しずつ節約いたしましょう」
「兵士の士気に関わります。量を減らすより、狩猟部隊を編成する方がよいかと」
「お山の魔物を狩るのですか?」
『我らが従わせればよい』
窓の外から中央の首が口を挟んだ。
ケルベロスは大きすぎて、砦の廊下へ入れない。
三つの頭だけを窓から突っ込んでいる。
「窓から顔を入れるな!」
ラウラが怒鳴る。
『話を聞くためだ』
「壁が軋んでいる!」
『不落の砦なのであろう?』
「壊してよいという意味ではない!」
左の首とラウラが睨み合う。
右の首だけは食料庫の帳簿を覗き込んでいた。
『周辺の魔獣へ狩猟を命じれば、食料の確保は可能だ。ただし、生態系への影響を避けるため、数を管理する必要がある』
「承知いたしました。右のケルベロスさんは、お詳しいのですね」
『右のケルベロスさん……』
「三つのお顔を、どのようにお呼びすればよいか分かりませんので」
『私は何でも構いません』
中央の首が答える。
『我はケルベロスだ! 左などという名前ではない!』
「三つともケルベロスでは、呼び分けられません」
『ならば貴様が新しい名を考えろ!』
「俺様が決めていいのか?」
『貴様には言っていない!』
フィーネが口元へ指を当て、真剣に考え始める。
「左様、右様、中央様ではいかがでしょう」
『ほとんど変わっていない!』
「分かりやすくていいな」
『貴様は黙れ!』
兵士たちが、遠巻きにこちらを眺めている。
昨日まで魔王軍の守護獣として恐れられていた王骸獣が、窓へ頭を詰まらせてラウラと口論している。
新しい城主は食料の心配をし、その主人は椅子へ座って酒を飲んでいる。
混乱するのも無理はない。
「ご主人様も、少しはお仕事をしてください」
「俺様の仕事は終わった」
「何をなさいましたか?」
「城と剣と魔獣を手に入れた」
「その後の管理が残っております」
「それは城主の仕事だ」
「私に役割を押しつけたのは、ご主人様です!」
「適材適所だ」
「便利な言葉として使わないでください」
ラウラが大きく息を吐く。
「姫殿下。明日の予定は私が整理いたします。今夜はもうお休みください」
「ですが、まだ治療を受けていない方が……」
「医務官へ引き継がせます。姫殿下も魔力を使いすぎました」
フィーネの足元は、わずかにふらついている。
俺様は立ち上がり、フィーネを抱き上げた。
「きゃっ!?」
「部屋へ戻るぞ」
「自分で歩けます!」
「遅い」
「だからといって、荷物のように抱えないでください!」
「姫殿下を丁重に扱え!」
ラウラが怒鳴る。
「では、お前が運ぶか?」
「当然だ。姫殿下、私の腕へ――」
「嫌だ」
「なぜ貴様が断る!」
フィーネが俺様の腕の中で、小さく笑った。
戦いばかりだった一日の終わりに、ようやく見せた穏やかな笑顔だった。
◇
その夜。
砦の大広間で、簡単な宴が開かれた。
城主が代わった祝いではない。
生き残った兵士たちが、互いの無事を確かめるためのものだ。
長机には黒パンと干し肉、それに薄い酒が並んでいる。
負傷の軽い兵士たちは、最初こそ俺様を警戒していた。
だが、酒が回るにつれて、少しずつ声が大きくなっていった。
「本当に、我々を処刑しないのですか?」
角持ちの兵士が尋ねる。
「なぜ俺様の兵を殺す必要がある?」
「しかし、我々はあなたと戦いました」
「負けただろ」
「はい」
「なら終わりだ」
兵士はしばらく黙り、やがて深く頭を下げた。
「新たな城主と、その御主人へ」
酒杯を掲げる。
ほかの兵士たちも、戸惑いながら杯を上げた。
「フィーネ城主へ!」
「北方砦の新たな主へ!」
「姫殿下へ!」
「お、お待ちください!」
隣に座っていたフィーネが慌てる。
「私はまだ、何もしておりません!」
「我々を治してくださいました!」
「食事も用意してくださった!」
「温かい湯など、久しぶりです!」
兵士たちの声に、フィーネは頬を赤くした。
俺様は杯を飲み干す。
「悪くない城主だろ」
「ご主人様が自慢なさることではございません」
「俺様が選んだ」
「その理由は、面倒だからではありませんでしたか?」
「結果がよければ問題ない」
宴が終わったあと。
俺様は砦の城壁へ出た。
冷たい夜風が、戦いで熱を持った身体を冷やす。
山脈の向こうには、魔王領が広がっている。
その遥か先。
美兎と皇蓮のいる魔王城がある。
「ご主人様」
フィーネが隣へ来た。
「寝たのではなかったのか?」
「眠れませんでした」
俺様の隣に立ち、城壁の外を見る。
しばらく、二人とも黙っていた。
「怖いか?」
「はい」
フィーネは素直に頷いた。
「魔王様が敗北すれば、私は死ぬ。ご主人様は、その運命を壊すとおっしゃいます」
「ああ」
「そのためには、世界や神様まで敵に回すことになるかもしれません」
「それがどうした?」
「私一人のために、そこまでなさるのですか?」
「勘違いするな」
フィーネが俺様を見る。
「お前一人のためではない」
「……そう、ですよね」
「俺様は、俺様の気に入らない命令へ従う気がないだけだ」
「命令?」
「勇者になれと言われたから勇者になった。魔王を倒せと言われたから戦った。役割を返せと言われて返した」
今までは、それでよかった。
強い敵と戦えた。
欲しい女を追いかけられた。
退屈せずに済んだからだ。
「だが、俺様のものを勝手に殺すと言うなら話は別だ」
フィーネの頭へ手を置く。
「お前の命をどうするかは、俺様が決める」
「やはり、私の意思は含まれないのですね」
「死にたいのか?」
「いいえ」
「なら問題ない」
フィーネが小さく息を吐く。
それから、俺様の外套の端をつかんだ。
「ありがとうございます、ご主人様」
「礼を言う必要はない」
「では、言いたいから言います」
「好きにしろ」
「はい」
銀色の髪が、夜風に揺れる。
少し離れた場所では、ケルベロスの中央の首が眠り、左右の首がまだ言い争っていた。
ラウラは砦内を巡回している。
城を手に入れた。
剣を手に入れた。
配下も増えた。
次は魔王城だ。
そう考えたとき。
夜空の向こうから、白い光が近づいてきた。
「ご主人様。あれは……」
翼の生えた白馬。
その背に、白と金の法衣をまとった女が乗っている。
長い金髪が月明かりを受けて輝いていた。
「エレノアか」
元仲間の聖女。
俺様を勇者一行から追放すると告げた女が、たった一人で北方砦へやって来た。
◇
「止まれ!」
城壁の兵士たちが、一斉に弓を構える。
白い天馬は砦から離れた空中で翼を広げた。
エレノアは両手を見せる。
「戦うつもりはありません! 武器も持っていません!」
「信用できるか!」
「神殿の聖女だぞ!」
「魔王軍を滅ぼしに来たのか!」
兵士たちが騒ぎ始める。
ラウラが《ギロティア》を担いで城壁へ上がってきた。
「エレノア・アルセイン。神殿が誇る《聖女》か」
「あなたがラウラ・ヘルグレイヴですね」
「我々を皆殺しにするために来たのなら、相手になる」
「違います。今夜は、ゼクトとフィーネに話があります」
「ご主人様」
フィーネが不安そうに俺様を見る。
「通せ」
兵士たちが振り返った。
「よろしいのですか?」
「あいつが何かするなら、俺様が止める」
城門を開かせる。
天馬が中庭へ降り立った。
エレノアは一人で城壁へ上がってくる。
以前と変わらない、真面目そうな顔だ。
だが、王都で別れたときよりも疲れている。
「久しぶりだな、エレノア」
「まだ半日ほどしか経っていません」
「俺様に会いたくなったか?」
「なっていません」
「素直ではないな」
「そういうところは、何も変わっていませんね」
エレノアの視線が、俺様の背負った《王喰らい》へ向く。
続いて巨大なケルベロスと、砦の兵士たちを見回した。
「北方砦を占領したという報告を聞いたときは、何かの間違いだと思いました」
「俺様にかかれば簡単だ」
「あなたの実力を疑っているのではありません。どうして、半日でここまで状況が変わっているのか理解できないのです」
「城主ならそこにいるぞ」
フィーネの肩へ手を置く。
エレノアの表情が曇った。
「フィーネ。無事だったのですね」
「はい。エレノア様」
「怪我は?」
「ございません。ご主人様に守っていただきました」
「……そうですか」
エレノアが、フィーネの首輪を見る。
「奴隷契約は、まだ解除されていないのですね」
「外す気はない」
「あなたには聞いていません」
「私も、今は外さないでいただきたいと思っております」
フィーネが答えた。
エレノアの目が見開かれる。
「なぜです?」
「この契約が、私の命を守っているそうです」
フィーネは地下で知ったことを説明した。
美兎が敗北すれば自分が死ぬこと。
奴隷契約が、世界による運命の強制を妨げていること。
エレノアは黙って聞いていた。
やがて、俺様を睨む。
「それを知っていたから、フィーネを奴隷にしたのですか?」
「知らなかった」
「では、偶然だと?」
「俺様がフィーネを欲しいと思った。だから買った。結果としてこいつが助かった。それでいいだろ」
「よくありません。あなたの行動は、いつも無茶苦茶です」
「だが、間違ってはいない」
エレノアは反論しようとして、口を閉じた。
今ここで契約を解除すれば、フィーネを守る防壁が失われる。
聖女であるエレノアにも、それが分かったらしい。
「フィーネ」
エレノアが静かに尋ねる。
「あなた自身は、本当にゼクトと一緒にいたいのですか?」
「はい」
「脅されていませんか?」
「ご主人様は、言うことを聞かなければ叩くとおっしゃることがございます」
「ゼクト!」
「実際には、一度も叩かれたことはございません」
「では、無理やり連れてこられたのでは?」
「飛竜へ無理やり乗せられました」
「ゼクト!」
「歩けば七日かかるからな」
「ですが、ここへ来たことを後悔しておりません」
フィーネは自分の胸元で両手を重ねる。
「私は王都にいた頃、明日を選ぶことができませんでした。売られた先で何をされるのかも、いつ死ぬのかも分かりませんでした」
エレノアが唇を噛む。
「ご主人様は、自分勝手です。人の話を聞きません。女性を見ればすぐに口説きます」
「褒めすぎだ」
「褒めておりません」
フィーネが俺様を見上げる。
「ですが、ご主人様は、私を死なせないと約束してくださいました。私に城をくださり、未来まで勝手に決めてくださいました」
「勝手に決められて、嫌ではないのですか?」
「少し困っております」
フィーネが微笑む。
「それでも今は、ご主人様から離れることよりも――」
胸元の首輪へ触れる。
「ご主人様が、私を捨てることの方が怖いです」
エレノアは何も言えなくなった。
長い沈黙のあと、小さく息を吐く。
「分かりました」
「エレノア様……」
「今、無理に契約を解除することはしません。あなたの意思も、命も、無視することになりますから」
「ありがとうございます」
「ただし」
エレノアが俺様へ鋭い視線を向ける。
「フィーネを傷つけたら、私があなたを倒します」
「できるのか?」
「できるかどうかではありません。やります」
「いい目だ。やはり俺様の女になれ」
「この状況で口説かないでください!」
ラウラが額を押さえる。
「貴様は本当に、誰にでも同じことを言うのだな」
「美人を褒めるのは礼儀だ」
「求婚は褒め言葉ではない!」
エレノアは疲れたように肩を落とした。
「相変わらずですね」
「安心したか?」
「頭が痛くなりました」
「それで、わざわざ俺様の顔を見に来ただけか?」
エレノアの表情が引き締まる。
「いいえ。警告に来ました」
夜風が吹き抜ける。
城壁にいる兵士たちも、会話へ耳を傾けていた。
「王都の神殿で、新たな《勇者》の候補者が決まりました」
「もう選んだのか?」
「正式な継承は、明朝です」
俺様から剥がされた《勇者》は、すぐに次の所有者へ渡るわけではない。
神殿で適性を確かめ、儀式を行う必要がある。
「継承を終えたあと、新しい勇者は神殿騎士団を率いて北方砦へ進軍します」
「早いな」
「あなたが北方砦を占領したことで、王国は危機感を抱いています。魔王軍へ寝返ったと判断する者もいます」
「俺様は誰にも寝返っていない。最初から俺様の側だ」
「その理屈が王国で通用すると思いますか?」
「通用しなければ、叩きのめす」
「そう答えると思っていました」
エレノアの顔に苦悩が浮かぶ。
「問題は、新しい勇者だけではありません」
「まだ何かあるのか?」
「神殿は、あなたを確実に殺すための役割を用意しています」
エレノアが一度言葉を切る。
「《勇者殺し》です」
ラウラが険しい顔で《ギロティア》へ手を添えた。
「勇者を殺すための役割だと?」
「はい。勇者の加護や能力を無効化し、その命を断つためだけに存在する役割です」
「だが、俺様はもう勇者ではないぞ」
「分かっています」
エレノアが俺様の胸元を見る。
そこにはもう、《勇者》の紋章はない。
「《勇者殺し》は、現在の役割だけを狙うものではありません。あなたの魂に残った《勇者》の痕跡を標的にするよう、神殿が調整しています」
「役割を失っても、痕跡は残るのか?」
「長年持っていた強力な役割は、魂へ深く刻まれます。あなたが今の時点で勇者でなくても、《勇者殺し》はその残滓を追い、力を発揮します」
「なるほど」
役割そのものを持っていない俺様でも、攻撃対象になる。
神殿も少しは考えたらしい。
「その役割を持つ者は?」
「分かりません。神殿でも、ごく一部の者しか知らされていません」
「クラウディアか?」
「彼女は新しい勇者の選定に関わっています。ですが、《勇者殺し》の所有者については、私にも教えませんでした」
クラウディアなら、俺様の強さをよく知っている。
普通の勇者を送り込むだけでは勝てないと判断したのだろう。
「ゼクト。逃げてください」
「嫌だ」
「まだ行き先は知られていません。北方砦を捨て、魔王領の奥へ逃げれば――」
「ここはフィーネの城だ」
「城より命の方が大切です!」
「両方取ればいい」
「相手は、あなたを殺すためだけの役割を持っています!」
「だからどうした?」
俺様は笑う。
「役割を持ってくるなら、ちょうどいい」
「何を考えているのです?」
「決まっているだろ」
《王喰らい》の柄へ手を添える。
勇者を殺すためだけに用意された力。
俺様の魂へ残った痕跡を追い、役割がなくても命を狙えるという。
面白い。




